侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その19

関ヶ原合戦からわずか3ヶ月後の12月19日、家康は以前に関白を歴任したことのある九条兼孝の関白再任を奏上した。秀吉・秀次と続いた豊臣家の関白職世襲のような雰囲気を打ち消す目的かもしれない。同時に、関ヶ原の勝者 家康が朝廷の任官において発言力を持…

豊臣家臣団 その18

【藤堂高虎】徳川家との血縁はないが、秀吉の生前から家康に接近していたことで、譜代大名に準ずる扱いを受けたのは有名である。秀忠の代になっても徳川家の忠誠は揺るがず、元和5年(1619)、徳川和子入内に関する「およつ御寮人事件」では徳川家の使者とし…

豊臣家臣団 その17

ここで、江戸初期における諸大名と徳川家の関係を列記する。 【福島正則】慶長4年(1599)、養子の正之が家康養女を娶る。また、正則も慶長9年(1604)、家康養女を継室に娶る。豊臣姓を名乗り、慶長16年(1611)、家康と秀頼の二条城会見を仲介したが、当日…

豊臣家臣団 その16

本戦において西軍の有力大名である毛利・島津・長宗我部らがほぼ動かず、宇喜多秀家や三成・大谷・小西らが奮戦したのに対し、東軍の主戦力も福島・浅野・黒田・長岡・藤堂など豊臣恩顧の武断派であった。西軍の三成ら文治派を制したのは、東軍に属した武断…

豊臣家臣団 その15

ともかくも、秀秋の参戦にさらなる勢いをつけたのが、松尾山麓に布陣していた脇坂安治である。最初から家康に従って会津上杉討伐に出陣するところを三成に阻まれてやむを得ず西軍に属した脇坂は、当初から山岡景友を通じて家康に弁明し、藤堂高虎を窓口とし…

豊臣家臣団 その14

前項でも述べた通り、西軍は尾張・三河の国境どころか、東濃から中濃まで制圧され、家康が大垣城を間近に見据える赤坂に本陣を構えたことで、西濃への進軍も許した。そして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発した。 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関…

豊臣家臣団 その13

もう少し史料などを参考にしながら、戦場が関ヶ原になった経緯を紹介する。 ●「大垣は城塁壮固、兵食皆足る。秀家少しと雖も暗者に非ざるなり。而して義弘・行長・正家・吉隆、心を一にし力を戮せて持重して出でず。これを攻むれば必ず我が兵を損ぜん。独り…

豊臣家臣団 その12

西軍の軍議において岡山本陣の襲撃が取り沙汰されていることを知ってか知らずか、家康は三成の居城 佐和山城の攻撃を決定する。不思議なことに、東軍によるこの佐和山城攻撃計画がいち早く三成の耳に入り、午後7時には大垣城を出陣することになる。いわば、…

豊臣家臣団 その11

8月23日、大垣城から岐阜城への援軍が出撃した場合に備えて後詰していた黒田長政・藤堂高虎・田中吉政らが岐阜城下に到着すると、もはや落城の様相を呈していた。 岐阜県岐阜市金華山天守閣 岐阜城復興天守そこで、手柄を求める彼らは独断で大垣城目指して進…

豊臣家臣団 その10

こうして、家康が武断派を上手く自陣営に取り込み、三成ら文治派への憎悪の念を利用した結果、村越直吉の一言に奮起した東軍は、8月21日に上流隊と下流隊の二手に分かれて清洲城を出陣することになった。 池田照政・その実弟の羽柴長吉(のちの池田長吉)・…

豊臣家臣団 その9

8月19日、家康の命で村越直吉が清洲城に到着した。江戸城に腰を落ち着けて出陣する気配すらない家康に不満を抱く諸将からの抗議に対して「敵方と戦端を開けば、江戸を出馬するだろう」と言い放った。 「茂助申し候は、御出馬有るまじくにてはなく候えども、…

豊臣家臣団 その8

「打倒三成」を合言葉に熱量を帯びた東軍に引き換え、密かに家康に通じる増田長盛・いきがかりで西軍に属すことになった島津義弘・家中分裂の後味が悪い宇喜多秀家・一族の意見統一が図られない毛利輝元、調略の手が深く入り込んだ小早川秀秋(のちの小早川…

豊臣家臣団 その7

また、三成は督戦という形で伏見城攻撃に姿を現しただけで、丹後田辺城・伊勢松坂城・同安濃津城・近江大津城などの攻城戦には関わっていない。そこには重要な共通点があるように思われる。 伏見城は鳥居元忠はじめ家康家臣が相手であるが、他の城はいずれも…

豊臣家臣団 その6

そもそも、豊臣家の一奉行でしかなかった三成が、毛利家や島津家の上に立って西軍を指揮するカリスマにはなれるはずもない。彼は豊臣家の忠実な吏僚の立場で誰よりも家康を警戒するがゆえに手を組むことを許さなかっただけである。 本来、石田三成・長束正家…

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。 「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世…

豊臣家臣団 その4

「総ての堀を埋めて裸城にすれば、大坂城は落城する」と、生前の秀吉が家康ら諸大名に語った逸話がある。確かに、後年その通りになるのだが、まるで自分の死後、誰も大坂城を落城に追い込むとは思っていなかったような言い回しである。もはや天下が覆るはず…

豊臣家臣団 その3

長年、羽柴家の外交面を主に務めた蜂須賀家は正勝没後、嫡男家政の代になると阿波徳島の一大名となり、軍師の黒田孝高も豊後中津の一大名に収まり、さらに名補佐役として名高い大納言秀長が病没、前野長康や木村重茲・明石則実・渡瀬繁詮らに至っては秀次事…

豊臣家臣団 その2

さらに、積極的に仕掛けていった引き抜きや改易した大名家旧臣の直臣化により、下記の家臣を得た。 【斎藤龍興旧臣】加藤光泰 【明智光秀旧臣】木村吉清・平塚為広 【柴田勝豊旧臣】小川祐忠 【丹羽長秀旧臣】長束正家・桑山重晴・太田牛一・戸田勝成・上田…

豊臣家臣団 その1

織田信長や徳川家康はもちろんのこと、ほとんどの戦国武将には代々仕える譜代家臣が存在した。平時には主家の家政に従事し、戦時には参陣して身を以って忠誠を尽くす存在である。ただ、出自明らかではない木下藤吉郎には当然、生まれもっての家臣はいない。…

小牧長久手戦跡 宮後城 後編(愛知県江南市)

江南市前飛保寺町 日輪山曼荼羅寺 蜂須賀家政公顕彰碑幼少期の家政が市内にある曼荼羅寺の塔頭 梅養軒(現 本誓院)で昌運上人を師と仰いで学問修業をおこなった縁、また寛永9年(1632)に御所紫宸殿を模して曼陀羅寺正堂(本堂)を再建したこともあり、写真…

小牧長久手戦跡 宮後城 前編(愛知県江南市)

愛知県江南市宮後町八幡・上河原 江南市宮後町八幡 宮後城跡碑 「武功夜話」によれば、文和年間(1352〜1355)に美濃土岐氏の目代として安井小次郎(甲斐逸見氏庶流という)が居住したことから安井屋敷と紹介されているが、ともかくも応永年間(1394〜1428)…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その3

4月12日、江戸に潜行していた内藤・島田らは下総国府台(千葉県市川市)において旧幕府陸軍の大鳥圭介と合流し、宇都宮などに転戦しながら会津に辿り着く。一方、大久保大和という名前で押し通していた近藤だったが、取り調べをした東山道先鋒総督府軍の中に…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その2

半月ほどの五兵衛新田駐屯中に人数を230名以上に増やしたことで、隊名を下総鎮撫隊と改称したというが、新政府軍が千住宿(東京都足立区)に迫りつつあるとの報に接し、4月1日夜、五兵衛新田を発し、途中松戸平潟宿(千葉県松戸市)の千檀家で休憩をとり、翌…

甲陽鎮撫隊から新選組へ その1

新選組が新選組を名乗らなかった時期を語る。 鳥羽伏見の戦いから江戸への東帰と、慶応4年(1868)正月から新選組の立場は驚くほどに転がり始めた。 江戸に帰った新選組は、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を警護していたが、幕臣として大久保剛の名を賜った近藤勇…

石田堤(埼玉県行田市〜鴻巣市)

最初は忍城に力攻めを仕掛けたが撃退され、のち方針を変更して豊臣秀吉を真似た水攻めをしたものの、開城に至らなかった。すなわち、石田三成は戦下手というのが通説だが、資料によると、悉く逆のようである。 行田市佐間 さきたま古墳公園に現存する石田堤…

意外と体育会系?・・・徳川家康 後編

さらに、家康は弓を取れば竹林派の石堂藤右衛門に師事して免許を取得した。そのおかげなのか、三方ヶ原合戦の敗走中、追いすがる武田兵数人を騎射で仕留めて逃げ切ったという。必死の形相で逃げただけではなく、実際に敵を討ち取りながらの敗走ゆえに、恐怖…

意外と体育会系?・・・徳川家康 前編

平成28年NHK大河ドラマ「真田丸」の序盤、伊賀越えのシーンにおいて内野聖陽氏扮する徳川家康が、滑稽なほどに怖気づいた表情に違和感を感じた。そこで、ネット検索したところ、全く同じ疑問を持った人がいた。 むしろ、家康は同時代の大名の中では武芸に優…

松野氏館(埼玉県さいたま市見沼区)

埼玉県さいたま市見沼区御蔵大ヶ谷戸 鎌倉公園 宇都宮氏の支族で、武蔵に移住した松野助信がこの地に館を構えて太田道灌に仕える。(松野氏館) 松野氏館跡案内板子の助正は太田氏房の家臣として小田原征伐で浪人となるが、ほどなく家康旗本になる。子の資信…

十九首塚(静岡県掛川市)

静岡県掛川市十九首 十九首塚由来説明板天慶3年(940)2月14日、新皇を称して関東一円に君臨した平将門は、下総猿島の戦いにおいて戦死する。将門を討ち果たした俵藤太こと藤原秀郷は、将門とその家臣の首級を携え上洛の途につく。 その一行がこの地に差しか…

長者山城(茨城県水戸市)

茨城県水戸市渡里町 一盛長者伝説地碑 石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。後三年の役終…