侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

宍戸城(茨城県笠間市)

宍戸城は鎌倉・安土桃山・江戸に大きな転機を迎える。

宇都宮宗綱の四男である八田知家が、源義朝の没落と頼朝・頼家の幕府体制に歴仕する中で常陸守護職に任じられる。

笠間市平町 新善光寺址(中央右 八田知家墓、左 宍戸家政墓)f:id:shinsaku1234t501:20170519181809j:image長男の知重こと常陸小田氏を宗家とし、次男の有知が美濃伊自良氏・三男の知基が下野茂木氏と分派する中、四男の家政は常陸宍戸を領す。こうして、家政が築いたのが宍戸古館である。

笠間市友部町橋爪 宍戸古館土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200705j:imageまた、この宍戸氏からは足利尊氏に従った功により安芸に下向して、のち毛利元就の縁戚になる安芸宍戸氏も派生する。
室町・戦国時代は宗家でもある小田氏と連携しながら佐竹氏と勢力争いを繰り広げるが、のち服属した。関ヶ原合戦後、宍戸義長は佐竹氏の出羽秋田移封には従わず土着したが、その一族の中には秋田に移住する者もいた。
代わって宍戸に移封されたのは、関ヶ原合戦で東軍に属したにも関わらず、出羽秋田20万石から太閤蔵入地を没収され、常陸宍戸5万2,440石に減封となった秋田実季である。これにより現在地に城郭としての宍戸城が整えられた。

実季は大坂の陣にも従軍するなど目立った問題行動があるようには見えなかったが、なぜか寛永7年(1630)、伊勢朝熊への配流に処せられる。出羽以来の家臣間の対立など不安定要素があったらしいが、特に嫡男俊季との不和が大きな原因と思われる。

というのも、実季正室(俊季生母)である円光院は細川昭元の娘である。すなわち、細川昭元織田信長の妹であるお犬の方との間に生まれた女子である。もっと言えば、時の大御所、徳川秀忠正室崇源院と円光院は、ともに織田信長の姪であり、従姉妹同士にあたる。

この人間関係を踏まえた上で、実季と俊季の親子不和を考えた場合、幕府の判断は崇源院の血筋に繋がる俊季の家督相続を優先する可能性が大いに考えられる。それゆえ俊季の家督相続の障害となる実季を排除する必要があった。

その証拠に、実季が配流になりながらも宍戸藩自体は改易にはならなかった。当然、俊季が継ぐために宍戸藩は残さなければならないからである。

笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城址f:id:shinsaku1234t501:20170519181831j:image笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城本丸土塁f:id:shinsaku1234t501:20170519181900j:image笠間市平町 宍戸城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200803j:imageこうして幕命により家督相続した俊季が、正保2年(1645)、陸奥三春5万5,000石に移封されると、天領の時期を経て、天和2年(1682)に徳川光圀の弟の松平頼雄が水戸支藩として1万石で入封した。(宍戸陣屋)

笠間市土師 宍戸陣屋表門f:id:shinsaku1234t501:20170519181958j:image幕末の元治元年(1864)、9代藩主頼徳の頃、水戸で蜂起した天狗党の鎮圧に失敗し、切腹及び改易を命じられるという悲劇もあった。

笠間市大田町 松長山成就院養福寺 宍戸松平頼徳墓f:id:shinsaku1234t501:20211224014237j:plain慶応4年、頼徳の父で8代藩主だった頼位が新政府の命により再相続して立藩することになった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240223032123p:image

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。

後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺唐門(豊国廟極楽門を移築)f:id:shinsaku1234t501:20200917191637j:image秀吉の正室高台院の懇願で社殿はかろうじて破却を免れたものの、以後、参道は封鎖されたという。現在の豊国神社境内に高台院が必死に守った馬塚が遺されているが、これこそ江戸時代を通じて秀吉の本当の墳墓とされてきたという。

京都府京都市東山区高台寺下河原町 鷲峰山高台寿聖禅寺 霊屋(北政所葬地)f:id:shinsaku1234t501:20180513112544j:image「神社や墓まで破壊しなくてもいいのではないか」という後味の悪さを覚えるのは尤もではあるが、「吾妻鏡」の源頼朝を模範とする家康からすれば、平家だけでなく奥州藤原氏義経や範頼ら将来の禍根となりうる可能性は片っ端から葬らねばならないとする仮想敵の掃討こそ最大の課題である。
徳川家の最大の対抗馬として君臨し続けた豊臣家を全否定することは、いわば幕府一強体制を公然の事実にするための力ずくの総仕上げと言える。当然、中途半端は許されない苛烈なまでの仕置を要する。それは豊臣家を奉じることを許さないのではなく、奉じるべき豊臣家がそもそも存在しないという現実を大名家や諸国の牢人に突きつけることを意味する。もちろん、その動きに豊臣恩顧の誰かが反論を唱えたという事実はない。

それでも、馬塚は「国泰院俊山雲龍大居士」という戒名を授けられた秀吉の供養墓として、江戸時代を通じて庶民に崇められたとする説があるが、定かではない。

対する家康は没後、南光坊天海の主張する山王一実神道により「正一位東照大権現」の宣命を受ける。後水尾天皇はその生涯において「豊国大明神」を剥奪する一方で、「東照大権現」を勅許したことになる。

京都府京都市東山区茶屋町 豊国神社 馬塚f:id:shinsaku1234t501:20180513120015j:imageまた、三代将軍家光が許可していた豊国神社再興案も酒井忠世らの反対で却下された。

ここまで豊臣家を亡き者にした徳川家を悪辣と考えるのは簡単だが、新しい支配体制を浸透させるために前時代を否定するのは、明治維新にも見られることであって、決して珍しいとは言えない。

但し、関ヶ原合戦の恨みが原動力となって薩長が討幕に邁進したとするのは適切とは言いがたい。薩摩藩島津斉彬・久光兄弟にしても幕政改革を望んでいただけであり、西郷隆盛も第一次長州征伐では幕府軍参謀を務めている。即ち、薩摩藩における討幕運動は成り行きでしかない。長州藩吉田松陰系列の木戸孝允高杉晋作が討幕を目指す一方、その反対派である 俗論党が藩内の要人を粛清してまで幕府に恭順の姿勢を表した時期もある。また、往時には豊臣恩顧だったはずの黒田家・浅野家・細川家・蜂須賀家・前田家なども、決して討幕の主戦力にはなっていない。それどころか、上杉家に至っては当初、奥羽越列藩同盟の一員として幕府側に就いている。幕末の一連の動きが豊臣家復権関ヶ原合戦の雪辱ではないことは容易に理解できよう。

世に「歴史は勝者によって作られる」という。この言葉自体は否定できない。しかし、敗者が全く歴史を残さなかったわけでもない。江戸時代を通じてタブー視されてきた豊臣家ではあるが、こんにちの我々が秀吉や秀頼の事績を知ることができるのは、何かしらの史料や伝承が連綿と伝えられてきたからに他ならない。表立っては「黙して語らず」を貫いた豊臣家臣団が伝えた可能性も大いにある。

最後に明治以降の豊臣家の復権を紹介する。以下はその主な遍歴である。

●慶応4年(1868)閏4月、大阪行幸に際して明治天皇が豊国神社再興を沙汰したことに端を発し、翌月には鳥羽伏見戦没者が合祀される。

明治6年(1873)、豊国神社が別格官幣社に列せられる。

明治8年(1875)、豊国神社社殿が京都東山に建立される。

明治13年(1880)、豊国神社が方広寺大仏殿跡地に遷座して現在に至る。

明治30年(1897)、豊国神社境外地である阿弥陀ヶ峰に豊国廟として五輪塔が建立される。

明治新政府明治6年(1873)6月9日、日光東照宮別格官幣社に列すると同時に、主祭神である家康の左神として豊臣秀吉、右神として源頼朝を配祀した。

また、日光東照宮同様、久能山東照宮にも信長と秀吉が相殿として祀られている。(完)

豊臣家臣団 その29

そもそも、合戦や戦争はどちらも正義を主張して譲らないからこそ発生するものである。どちらかだけに絶対的正義があるという事例などほぼ無い。逆説的に言えることは、豊臣家臣団の盛衰を的確に把握するためには、むしろ敵方の家康、もしくは彼に与した豊臣恩顧をしっかりと理解することが必要である。

にもかかわらず、三成の一途な忠義や真田信繁の武勇に一喜一憂しているだけでは、いつまでも「豊臣哀れ」・「家康憎し」という薄口な歴史観にしがみつくことになる。この点については、小説家の想像のほうが卓越、且つ先行し過ぎた感があり、考古学のように科学的傍証に基づいて慎重に議論されている分野よりも遥かにデフォルメされた俗説が罷り通っている。

例えば、家康と同時代の覇権を争った前田家・織田家・上杉家・島津家・毛利家・伊達家・北条家などは大名として命脈を保ち、没落したとはいえ武田家・今川家・大友家・三好家なども徳川家旗本として家名を伝えた。

一方、徳川家の姻戚にまでなった清正の加藤家は、寛永9年(1632)、忠広の代に改易された。福島家も元和5年(1619)に広島城の修築手続きの不備を問われて信濃高井野へ減封された。追い討ちをかけるように、寛永元年(1624)には正則没後の手続き不備を理由に改易されたものの、正利の代に旗本として再興された。

ちなみに、どちらの改易も家康没後のことである。即ち、生前の家康が清正や福島ら外様大名を特に問題がない限り、それなりに遇してきたことを物語る。それが改易に至るのは、二代将軍秀忠の冷徹なまでの地固め、三代将軍家光の独裁体制確立という次のステージが控えていたことを窺わせる。

即ち、初期江戸幕府の大名政策は家康が慰撫、秀忠が整理、家光が支配と、さながら三段階で完成した感がある。ゆえに、徳川三代という長期的な見方が不可欠と言える。

そう考えると、関ヶ原合戦で敵対した毛利家や島津家、上杉家などを家康が取り潰さなかったのは、秀吉から直接恩恵を受けてまだ存命中の諸大名をいたずらに刺激しないための一策であることが理解できよう。依然、大坂城豊臣秀頼が崇敬を集めている状況で、他の大名家と事を構えるのは得策ではない。家康は初代将軍、のち大御所として君臨しながらも、むしろ外様大名に細心の注意を払っていたと思われる。その深謀遠慮があったればこそ、大坂夏の陣後、代替わりした大名家の帰趨を見定める中で改易を断行した秀忠、さらに跡を継いだ家光の盤石な支配体制が到来したと考えるのが妥当である。

また、関ヶ原合戦から大坂の陣までの時期は、家康につき従ってきた武将中心の政治形態から土井利勝松平信綱酒井忠世などに代表される政策ブレーンが育成されるプロセスでもあった。軍事を以って力ずくで滅ぼす戦国の世から、幕府の権威を以って大名を統制する世の到来を模索する雌伏の時期とでも言うべきか。今に伝わる「元和偃武」とは、その支配体制が確立したというよりも、始動したことを示す言葉と解釈できる。

かの司馬遼太郎氏が著書の中で「家康の名家好き」と評した通り、家康は大名家や名臣の家柄を何かしらの形で残した。それは関ヶ原で西軍に属した大名家もまた然りである。とすれば、減封や転封はあるにせよ、豊臣家が柔軟な対応を見せてさえいれば存続しうる可能性はあったと考えられる。
にも関わらず、豊臣家は完膚なきまでに家系を絶たれたのである。

和歌山県伊都郡高野町高野山 奥之院 豊臣家墓f:id:shinsaku1234t501:20170919201931j:image

豊臣家臣団 その28

さて、同時代を生きた徳川家康だが、ただ座っていたら棚からぼた餅が落ちてきたわけではない。信長との同盟を堅守し、信玄とともに旧主今川家を滅ぼし、秀吉に楯突くことなく常に支え、豊臣家を滅ぼしたのちに朝廷・公家・寺社までも制した。そこには、忠義、下剋上、誠意、謀略、軍事力、政治力、保身など上記の人物たちと変わらないキーワードが認められる。むしろ、同時代の人物と同様か、それ以上の執念と労苦、思考力・行動力を伴った人生である。「常在戦場」とは、彼の人生かもしれない。
にもかかわらず、なぜか彼だけが屈指の悪役にされるのは明治以降の曲学史観と判官贔屓に代表される善悪のレッテル貼りでしかない。なるほど英雄譚は血湧き肉躍るストーリーだが、歴史の部分的切り取りでしかない。しかし、残念ながらむしろその部分こそ誇張して伝えられている。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20201201200808j:imageちなみに、小説やドラマなどで主人公の武将が恒久平和を追い求めるような善人の設定をよく見かけるが、戦国乱世の時代に庶民まで視野に入れた平和を追求した武将など、おそらく唯の一人もいないであろう。

戦国大名と称される領主層の指す平和とは、自身が頂点に君臨し、権力を以って領国に号令することを意味する。また、家臣層からすれば合戦は手柄を立て、自身をアピールする立身出世の好機でもある。戦乱が無くなることは必ずしもありがたいことではない。大坂の陣の発生要因はその顕著な例でもある。

仮に秀吉没後の豊臣家が天下を統べることができたとしても、それは豊臣家隆盛のための天下でしかなく、三成ら家臣もそうなるように大名や庶民を仕置・統制したことであろう。太閤検地刀狩令バテレン追放令など代表的な施策を見ても、その原点は秀吉個人への集権化という発想でしかない。当時の日本に存在しない民権思想で平和を考えてはならない。

また、人によって解釈が違うと思うが、私は「豊臣政権」という歴史用語にすら違和感がある。厳密に政権と言える権能や機関を有していたか疑問だからである。

この「政権」を巡る解釈からすれば、家康は諸大名を率いて豊臣政権を破壊し、新たに徳川政権を樹立した革命家のような存在となる。一方、豊臣政権ではなく、豊臣家をただの私的な存在、もしくは諸国武家の中の盟主と解釈すれば、戦国の習いとして徳川家が取って変わっただけの現象である。

家康の江戸幕府とて、当初は戦国の気風よろしく徳川家、もしくは武士階層中心の法整備や町造りをおこなってきた。そして、豊臣家を滅ぼした次の段階で着手したのが朝廷・公家・寺院の規制であった。もっとも、町民や農民にまで政策が及ぶには、知っての通り家綱・綱吉の代まで待たねばならない。

長きに亘り豊臣家臣団を語ってきてあらためて思うことは、後世の我々がとやかく言うよりも、当事者たちがすでに答えを出していることである。後世の我々は、つい葉隠武士道の感覚で忠義を基準に物事を考えがちだが、そもそも葉隠武士道の成立は江戸中期である。もちろん、戦国・安土桃山時代にも時代に合った倫理観があったことは否定しないが、忠義や正義という興奮材料もさることながら、地に足がついた現実も選択されていたのである。

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していたという証拠でもある。そもそも歴史上の人物を善人・悪人という視点で分類することにさほど意味はないと考える。

例えば、北条早雲(伊勢宗瑞)は謀略で小田原城を奪うことで関東に覇を唱え、武田信玄は一方的に同盟や約束を破棄して版図を拡げ続けた人物でもある。

義を掲げる上杉謙信は助けを請う者を救うことなく撤退を繰り返し、毛利元就は陰謀の限りを尽くして敵を撹乱した。

織田信長は軍事力・経済力・政治力を併せ持つ稀有の存在として朝廷をも脅かす存在と化し、豊臣秀吉は粛清を繰り返して典型的な独裁者の道を歩んだ。

石田三成も止むに止まれぬ忠義とはいえ、豊臣家を保つためにおよそ政治力を駆使せず、逆に軍事力に訴えた点において首謀者の側面を持つ。さらに、戦場から敗走して捕縛されたのちに「大志を持つ者は命を惜しむ」と言い放った干し柿の話がつとに有名だが、それを言ってしまったら関ヶ原の戦場で奮戦の末に自害した大谷吉隆や戦死した嶋清興・平塚為広らは命を惜しまなかったことになる。本当に再起を図るためというならばどこへ逃れようとしたのか、もしくは命冥加で逃げただけなのか、美談や贔屓に引きずられることなく冷静に解釈する必要がある。そういった意味では、将たる資質にも疑問が残る。

上杉景勝は下野から引き返す東軍を追撃せずに無傷で帰してしまう裏切りともとれる失態を演じ、一方で戦局に直接影響がない最上義光を攻撃しただけである。

毛利輝元もまた、関ヶ原の主戦場ではなく、伊予出兵という局地戦に終始し、西軍の敗戦を知るや、あっさりと大坂城から退去するおよそ総大将とは思えない不甲斐なさである。
真田信繁にしても、関ヶ原の敗戦後に兄信之や本多忠勝らの助命嘆願で命拾いしながら、大坂方に与するという傍目から見れば恩知らずで自分本位な面があり、大坂城に籠城した牢人衆もまた戦乱を望み、功を立て名を挙げるという目的のために豊臣家を利用して滅亡に追い込む一役を担ったと非難されても仕方がない。

そして、肝心の豊臣秀頼は自身を巡る合戦でありながら、大坂の陣ではただの一度も出陣しないという奇妙な対応をした。現在判明している範囲で、この人物が能動的におこなったのは裏切者と目される人物を石垣の上から突き落としたことと自害だけであった。

京都府右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 五台山清凉寺 秀頼公首塚f:id:shinsaku1234t501:20170919204615j:image

豊臣家臣団 その26

では、大坂方はどうあるべきだったのか。これはあくまでも私見である。

確かに、堅固な城郭と豊富な蓄財、天下人太閤秀吉というブランド力を頼りにするから、たとえ幕府を開いたとはいえ、徳川家とは別格の位置、いやむしろ上席の待遇にあって然るべしと考える根拠になったのかもしれないが、それゆえに大坂方首脳が且元の腐心や有楽斎の危惧を容れられなかったのは、戦国というパワーバランスの時代に反する動きだったと言わざるをえない。

「いざとなれば一戦仕る」という根拠のない強気が理性的判断や損得勘定をさえ受け入れない状態が現出したのである。

結論的な言い方になるが、秀吉の死を経て豊臣家臣団は徳川家臣団になるべく近づいていった。もちろん、その多くは外様の扱いでしかない。反対に関ヶ原合戦で西軍に属した三成らは豊臣家臣団として滅び、大坂の陣の主力は大野治長真田信繁ら一部を除いて豊臣恩顧とは言えない勢力となっていた。

大坂城からの移封」、「淀殿の人質」など家康からの条件は、さぞかし屈辱的に映ったであろうことは察する。しかし、それを受け入れてでも生き残るのが豊臣恩顧に応える大坂方の姿だという言い方もあって当然だと思う。

勘違いしがちだが、のちに確立される鎖国政策(自由交易の禁止)や参勤交代、禁教令など幕府発信の施策に対応した大名家のほうが圧倒的に多いのである。即ち豊臣家が幕府に従う努力をしなかっただけとしか言いようがない。

後世の我々が代々続く老舗や秘伝を伝える名家、ひいては皇室に畏敬の念を抱くのは、代々山あり谷ありの苦節に耐えてもなお、現在に伝わっているからである。そういう意味では豊臣家も生き残るべきであった。

また、周囲も残そうと知恵を絞るべきであった。意地にしがみついて合戦に及んだのは関ヶ原だけでよかったはずである。関ヶ原合戦に学ぶところがなかった結果、滅亡をかけた大坂の陣になったのである。

大坂方の論理からすれば難癖をつけて滅亡に追い込まれたとする大坂の陣も、徳川家の論理からすれば幕府という支配体制に従うことを拒んだがゆえに合戦という形の改易に処したに過ぎない。

実際、往年の秀吉も同様の形で地方の名族を飲み込んできたはずである。卑賤の出と言われる秀吉からすれば、全ての大名が家格が上であると言っていい。時に所領安堵をし、時に取り潰しをしながら天下を平定したのは他ならぬ秀吉である。

となれば、秀吉がかつての主筋である織田家を家臣にしたのと同じように、家康が豊臣家を家臣にしたところで不思議はない。それが時勢というものである。

裏返しの表現をすれば、徳川家に従うことを潔しとせず滅亡の道を選んだ豊臣家を是とするならば、徳川家の下で存続の道を選んだあまたの大名は皆、卑怯者か、世渡り上手という表現になってしまう。

大阪府北区太融寺町 佳木山宝樹院太融寺 淀殿供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170929212332j:image歴史の不思議とは、まさにここにある。元禄赤穂事件における浅野長矩の刃傷事件については、吉良の虐めに耐えかねたから気の毒という同情論と同じくらいに、我慢できずに刃傷に及んだ結果、改易になったことで家臣を路頭に迷わせた浅慮の殿様という批判もある。淀殿豊臣秀頼親子についても、本来、同様の批判があってしかるべしと思うが、なぜかこれについては家康が一方的に悪者となる。

秀吉が一代で極めた豊臣家を、いや大坂城を、譲れない意地とはいえ、二代目が滅亡に追いやった、と言ったら厳しいだろうか。会社経営になぞらえれば退くを潔しとせず、規模縮小すらせずに、倒産して社員を路頭に迷わせる二代目社長をかわいそうと一概には言えないのと同様である。

豊臣家臣団 その25

しかし、これらの事実が、ともすると片桐且元の徳川内通説や織田有楽斎の徳川スパイ説となるのは、史料や彼らの立ち位置に基づいていないがゆえ、いささか本人たちが気の毒にさえ思える。むしろ、彼らこそお家存続の落とし所を探っていた最後の豊臣恩顧だった可能性がある。内通説やスパイ説は、彼らが抱いていたかもしれないお家存続の可能性を全否定するほど台無しなシナリオである。もし、且元や有楽斎らが内通者という悪名を背負うのならば、大坂の陣の歴史的結果も踏まえて史料を提示してもらいたいものである。

もちろん、家康と且元では役者が違う。果たして且元を内通者に仕立てたのが大坂方なのか、それとも内通者の疑いをかけられるように仕向けた家康なのかは解釈次第である。

また、有楽斎が真にスパイであるならば、冬の陣における大坂方の動きはある程度、幕府軍に筒抜けであったと考えるべきであり、真田丸相手にあれだけ苦戦した意味が説明できない。なにせ、冬の陣の和睦が成立したのち、和睦推進派である大野治長が弟の治房に暗殺されかけたとする一件があるほど、城内は沸騰していた。平和や穏健という議論がおよそ容れられる状況になかったことを考えれば、且元や有楽斎が本来の味方であるべき大坂方から敵視される環境にあったことは認めざるをえない。

こうして、彼らを逐って幕府軍に対峙したのが、豊臣家への忠誠や恩顧よりも、どこか違った目的をもった牢人衆であったことは誠に以って皮肉である。

少なくとも、当時の大坂城内は秀吉の頃の雰囲気ではない。「一戦もやむなし」を主張する直臣や牢人衆の発言が日増しに強くなる中で、古参の家臣が追いやられていく状況は注目に値する。

例えば、歴史的結果論から朝鮮出兵や太平洋戦争などを指して「なぜあんな無謀な戦争を始めたのか?」という疑問が呈されることがあるが、答えは極めて単純かもしれない。それは、開戦を望む雰囲気や世論が非戦論より強かった、もしくは多かったに他ならないのである。この論理に当てはめれば、方広寺鐘銘事件などは家康が巧みに仕掛けたと見る以上に、むしろ大坂方が積極的に迎撃したと考えるほうが自然ではなかろうか。緒戦において、ある程度の戦果を挙げれば、幕府軍として従軍している豊臣恩顧の大名が寝返るのではないか、もしくは諸国で大坂方としての挙兵が促されるのではないか、という期待や自信は当然あったと思われる。

非戦、ないしは慎重論者の片桐且元大野治長らが本来の味方であるべき大坂方から襲撃された事実を見ても、且元や有楽斎らが退去していくには相応の背景があった。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 駿府城東御門・二ノ丸巽櫓f:id:shinsaku1234t501:20170713160754j:image家康が再度の大坂攻めを望んでいた可能性は否定しないが、有楽斎がいなくなった大坂方もまた、合戦を請い願う牢人衆の望むところとなった。

冬の陣は方広寺鐘銘事件などに代表されるように家康が仕掛けたイメージが強いが、夏の陣はむしろ大坂方が手繰り寄せた感さえある。但し、さきほども述べた通り、戦局次第で豊臣恩顧の大名が寝返るのではないかという期待を秘めていた冬の陣に比べ、孤立無援の裸城で戦わざるをえない夏の陣は玉砕の覚悟に近い。それでも、牢人衆にとっては自身の能力や意地を世間に認めさせるには合戦が不可欠であり、臨戦体制を阻害する非戦論者はさぞかし目障りであったに違いない。

大野治長渡辺糺真田信繁のように豊臣家に仕えた履歴がある者はともかく、その他の牢人のモチベーションが豊臣家第一義であったかは甚だ疑わしい。しかし、これはこれで十分に家康を苦しめた。

大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目 安居神社 真田幸村戦没地碑f:id:shinsaku1234t501:20170720193330j:image