侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していたという証拠でもある。そもそも歴史上の人物を善人・悪人という視点で分類することにさほど意味はないと考える。

例えば、北条早雲(伊勢宗瑞)は謀略で小田原城を奪うことで関東に覇を唱え、武田信玄は一方的に同盟や約束を破棄して版図を拡げ続けた人物でもある。

義を掲げる上杉謙信は助けを請う者を救うことなく撤退を繰り返し、毛利元就は陰謀の限りを尽くして敵を撹乱した。

織田信長は軍事力・経済力・政治力を併せ持つ稀有の存在として朝廷をも脅かす存在と化し、豊臣秀吉は粛清を繰り返して典型的な独裁者の道を歩んだ。

石田三成も止むに止まれぬ忠義とはいえ、豊臣家を保つためにおよそ政治力を駆使せず、逆に軍事力に訴えた点において首謀者の側面を持つ。さらに、戦場から敗走して捕縛されたのちに「大志を持つ者は命を惜しむ」と言い放った干し柿の話がつとに有名だが、それを言ってしまったら関ヶ原の戦場で奮戦の末に自害した大谷吉隆や戦死した嶋清興・平塚為広らは命を惜しまなかったことになる。本当に再起を図るためというならばどこへ逃れようとしたのか、もしくは命冥加で逃げただけなのか、美談や贔屓に引きずられることなく冷静に解釈する必要がある。そういった意味では、将たる資質にも疑問が残る。

上杉景勝は下野から引き返す東軍を追撃せずに無傷で帰してしまう裏切りともとれる失態を演じ、一方で戦局に直接影響がない最上義光を攻撃しただけである。

毛利輝元もまた、関ヶ原の主戦場ではなく、伊予出兵という局地戦に終始し、西軍の敗戦を知るや、あっさりと大坂城から退去するおよそ総大将とは思えない不甲斐なさである。
真田信繁にしても、関ヶ原の敗戦後に兄信之や本多忠勝らの助命嘆願で命拾いしながら、大坂方に与するという傍目から見れば恩知らずで自分本位な面があり、大坂城に籠城した牢人衆もまた戦乱を望み、功を立て名を挙げるという目的のために豊臣家を利用して滅亡に追い込む一役を担ったと非難されても仕方がない。

そして、肝心の豊臣秀頼は自身を巡る合戦でありながら、大坂の陣ではただの一度も出陣しないという奇妙な対応をした。現在判明している範囲で、この人物が能動的におこなったのは裏切者と目される人物を石垣の上から突き落としたことと自害だけであった。

京都府右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 五台山清凉寺 秀頼公首塚f:id:shinsaku1234t501:20170919204615j:image

豊臣家臣団 その26

では、大坂方はどうあるべきだったのか。これはあくまでも私見である。

確かに、堅固な城郭と豊富な蓄財、天下人太閤秀吉というブランド力を頼りにするから、たとえ幕府を開いたとはいえ、徳川家とは別格の位置、いやむしろ上席の待遇にあって然るべしと考える根拠になったのかもしれないが、それゆえに大坂方首脳が且元の腐心や有楽斎の危惧を容れられなかったのは、戦国というパワーバランスの時代に反する動きだったと言わざるをえない。

「いざとなれば一戦仕る」という根拠のない強気が理性的判断や損得勘定をさえ受け入れない状態が現出したのである。

結論的な言い方になるが、秀吉の死を経て豊臣家臣団は徳川家臣団になるべく近づいていった。もちろん、その多くは外様の扱いでしかない。反対に関ヶ原合戦で西軍に属した三成らは豊臣家臣団として滅び、大坂の陣の主力は大野治長真田信繁ら一部を除いて豊臣恩顧とは言えない勢力となっていた。

大坂城からの移封」、「淀殿の人質」など家康からの条件は、さぞかし屈辱的に映ったであろうことは察する。しかし、それを受け入れてでも生き残るのが豊臣恩顧に応える大坂方の姿だという言い方もあって当然だと思う。

勘違いしがちだが、のちに確立される鎖国政策(自由交易の禁止)や参勤交代、禁教令など幕府発信の施策に対応した大名家のほうが圧倒的に多いのである。即ち豊臣家が幕府に従う努力をしなかっただけとしか言いようがない。

後世の我々が代々続く老舗や秘伝を伝える名家、ひいては皇室に畏敬の念を抱くのは、代々山あり谷ありの苦節に耐えてもなお、現在に伝わっているからである。そういう意味では豊臣家も生き残るべきであった。

また、周囲も残そうと知恵を絞るべきであった。意地にしがみついて合戦に及んだのは関ヶ原だけでよかったはずである。関ヶ原合戦に学ぶところがなかった結果、滅亡をかけた大坂の陣になったのである。

大坂方の論理からすれば難癖をつけて滅亡に追い込まれたとする大坂の陣も、徳川家の論理からすれば幕府という支配体制に従うことを拒んだがゆえに合戦という形の改易に処したに過ぎない。

実際、往年の秀吉も同様の形で地方の名族を飲み込んできたはずである。卑賤の出と言われる秀吉からすれば、全ての大名が家格が上であると言っていい。時に所領安堵をし、時に取り潰しをしながら天下を平定したのは他ならぬ秀吉である。

となれば、秀吉がかつての主筋である織田家を家臣にしたのと同じように、家康が豊臣家を家臣にしたところで不思議はない。それが時勢というものである。

裏返しの表現をすれば、徳川家に従うことを潔しとせず滅亡の道を選んだ豊臣家を是とするならば、徳川家の下で存続の道を選んだあまたの大名は皆、卑怯者か、世渡り上手という表現になってしまう。

大阪府北区太融寺町 佳木山宝樹院太融寺 淀殿供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170929212332j:image歴史の不思議とは、まさにここにある。元禄赤穂事件における浅野長矩の刃傷事件については、吉良の虐めに耐えかねたから気の毒という同情論と同じくらいに、我慢できずに刃傷に及んだ結果、改易になったことで家臣を路頭に迷わせた浅慮の殿様という批判もある。淀殿豊臣秀頼親子についても、本来、同様の批判があってしかるべしと思うが、なぜかこれについては家康が一方的に悪者となる。

秀吉が一代で極めた豊臣家を、いや大坂城を、譲れない意地とはいえ、二代目が滅亡に追いやった、と言ったら厳しいだろうか。会社経営になぞらえれば退くを潔しとせず、規模縮小すらせずに、倒産して社員を路頭に迷わせる二代目社長をかわいそうと一概には言えないのと同様である。

豊臣家臣団 その25

しかし、これらの事実が、ともすると片桐且元の徳川内通説や織田有楽斎の徳川スパイ説となるのは、史料や彼らの立ち位置に基づいていないがゆえ、いささか本人たちが気の毒にさえ思える。むしろ、彼らこそお家存続の落とし所を探っていた最後の豊臣恩顧だった可能性がある。内通説やスパイ説は、彼らが抱いていたかもしれないお家存続の可能性を全否定するほど台無しなシナリオである。もし、且元や有楽斎らが内通者という悪名を背負うのならば、大坂の陣の歴史的結果も踏まえて史料を提示してもらいたいものである。

もちろん、家康と且元では役者が違う。果たして且元を内通者に仕立てたのが大坂方なのか、それとも内通者の疑いをかけられるように仕向けた家康なのかは解釈次第である。

また、有楽斎が真にスパイであるならば、冬の陣における大坂方の動きはある程度、幕府軍に筒抜けであったと考えるべきであり、真田丸相手にあれだけ苦戦した意味が説明できない。なにせ、冬の陣の和睦が成立したのち、和睦推進派である大野治長が弟の治房に暗殺されかけたとする一件があるほど、城内は沸騰していた。平和や穏健という議論がおよそ容れられる状況になかったことを考えれば、且元や有楽斎が本来の味方であるべき大坂方から敵視される環境にあったことは認めざるをえない。

こうして、彼らを逐って幕府軍に対峙したのが、豊臣家への忠誠や恩顧よりも、どこか違った目的をもった牢人衆であったことは誠に以って皮肉である。

少なくとも、当時の大坂城内は秀吉の頃の雰囲気ではない。「一戦もやむなし」を主張する直臣や牢人衆の発言が日増しに強くなる中で、古参の家臣が追いやられていく状況は注目に値する。

例えば、歴史的結果論から朝鮮出兵や太平洋戦争などを指して「なぜあんな無謀な戦争を始めたのか?」という疑問が呈されることがあるが、答えは極めて単純かもしれない。それは、開戦を望む雰囲気や世論が非戦論より強かった、もしくは多かったに他ならないのである。この論理に当てはめれば、方広寺鐘銘事件などは家康が巧みに仕掛けたと見る以上に、むしろ大坂方が積極的に迎撃したと考えるほうが自然ではなかろうか。緒戦において、ある程度の戦果を挙げれば、幕府軍として従軍している豊臣恩顧の大名が寝返るのではないか、もしくは諸国で大坂方としての挙兵が促されるのではないか、という期待や自信は当然あったと思われる。

非戦、ないしは慎重論者の片桐且元大野治長らが本来の味方であるべき大坂方から襲撃された事実を見ても、且元や有楽斎らが退去していくには相応の背景があった。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 駿府城東御門・二ノ丸巽櫓f:id:shinsaku1234t501:20170713160754j:image家康が再度の大坂攻めを望んでいた可能性は否定しないが、有楽斎がいなくなった大坂方もまた、合戦を請い願う牢人衆の望むところとなった。

冬の陣は方広寺鐘銘事件などに代表されるように家康が仕掛けたイメージが強いが、夏の陣はむしろ大坂方が手繰り寄せた感さえある。但し、さきほども述べた通り、戦局次第で豊臣恩顧の大名が寝返るのではないかという期待を秘めていた冬の陣に比べ、孤立無援の裸城で戦わざるをえない夏の陣は玉砕の覚悟に近い。それでも、牢人衆にとっては自身の能力や意地を世間に認めさせるには合戦が不可欠であり、臨戦体制を阻害する非戦論者はさぞかし目障りであったに違いない。

大野治長渡辺糺真田信繁のように豊臣家に仕えた履歴がある者はともかく、その他の牢人のモチベーションが豊臣家第一義であったかは甚だ疑わしい。しかし、これはこれで十分に家康を苦しめた。

大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目 安居神社 真田幸村戦没地碑f:id:shinsaku1234t501:20170720193330j:image

豊臣家臣団 その24

また、淀殿の後見役として徳川家との和平を第一に考えていた慎重論者の織田長益こと有楽斎でさえ、夏の陣に突入していく主戦論の高まりの中で「もはや城内の誰も自分の意見を聞かない」と報告することで、家康の許可を得て大坂城を退去した。

家康の許可を得て大坂城を退去する、すなわち有楽斎は家康と何かしらの連携を以って大坂城内にいたことになる。決して不思議なことではない。どの大名家においても様々な大名と連絡を取る外交担当の家臣(取次)がいたことを考えれば、有楽斎は豊臣家中における対徳川家の外交担当だったのかもしれない。もしくは、徳川家の負託を受けた豊臣家に対する目付のような存在とも考えられる。確かに家康は自身の子息だけではなく、有力な譜代家臣にも直臣を付家老として派遣しているのだから、付家老のような働きを負わされていたのかもしれない。

もっとも、有楽斎の家系だけでなく、信雄や信包(大坂冬の陣の2ヶ月半前に病没)も大坂城に常駐していた。理由は簡単である。淀殿織田家の血筋であることに他ならない。

元来、有楽斎は秀吉の御伽衆であったが、秀吉死後に徳川家康前田利家の間に緊張が走ると徳川屋敷の警護に駆けつけたり、関ヶ原合戦では東軍に属して蒲生頼郷(石田三成家臣)を討ち取るなどの功により、大和国内3万2千石を賜ったほどの一貫した親徳川派である。

その有楽斎が自らの判断で大坂城を脱出すると言う。家康は片桐且元大坂城退去をもって冬の陣を決意したように、有楽斎の退去をもって夏の陣勃発を確信したことであろう。

大河ドラマ真田丸」の影響もあって、有楽斎を徳川家から送り込まれたスパイのように喩える向きもあるが、それを言ってしまったら、同じように冬の陣に際して大坂城を退去した信雄も疑うべきである。

むしろ問題なのは信雄といい、有楽斎といい、相次いで大坂城を退去している事実から察するに、従妹にあたる淀殿を見限ったと見るべきなのか。それとも、秀吉によって一大名に零落させられた織田家一門として豊臣家とともに滅亡する道を嫌ったのか。豊臣家と徳川家の和平が不調に終わったことで諦めにも似た境地に至ったのか。

 何度も言うが、裏切りは決して褒められた行為ではないとしても、保身はやむを得ない仕儀である。信長に連なる織田家の命脈を残すために彼らが大坂城退去を選んだのなら、それは間違いとまでは言えないはずである。ましてや、有楽斎は利休十哲に数えられる当代きっての茶人である。文化人として流派を伝える使命も極めて重要である。

また、系図からしても有楽斎にとって豊臣家の淀殿は従妹だが、将軍 徳川秀忠正室である江(達子)も同じく従妹である。天下を二分する両家の衝突に少なからず板挟みの思いはあったと考えるべきであろう。

京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町 東山建仁寺塔頭正伝永源院 織田有楽斎f:id:shinsaku1234t501:20230319082311j:image一方、有楽斎の次男である織田頼長は、父と対立するほどの主戦論者で片桐且元襲撃の一味でもあった。自分が大坂方の総大将になると豪語したかと思うと、織田信雄を総大将に擁立すると主張したり、次第に同じ主戦派でさえ持て余すような扱いとなり、やはり夏の陣を前に大坂城を退去した。

豊臣家臣団 その23

例えば、慶長19年(1614)、方広寺鐘銘事件が発生すると、釈明のため駿府に派遣された且元は家康に拝謁を許されず、後から派遣された大蔵卿が家康に歓待されたという有名なエピソードがある。ここだけ見ると、且元が交渉相手として軽く見られ、大蔵卿のほうが優遇されたと映る。果たしてそうだろうか。

むしろ、家康からすれば大蔵卿を相手にしていないからこそ、適当な美辞麗句であしらったと考えることもできる。実際、大蔵卿は方広寺鐘銘事件の核心に触れることがなかったのである。

一方、且元が駿府まで来ながら拝謁を許されずに長逗留させられたのは、こんにちの外交の常套手段であって、迎える側は時間通りにテーブルに就かず、わざと遅れて現れるのと同じで、それほどに家康が怒っているという無言の圧力を意味する。

そもそも家康にとって大事なことは、方広寺鐘銘の具体的な文言の問題ではなく、自分がどれほど怒っているかという感情や温度を、もっと言えば幕府体制下における豊臣家の一大名としての立場なりを且元を通して大坂方に知らしめることに意味がある。且元が震え上がって、慌てふためいてくれるほうがより好都合なのである。

京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町 方広寺 梵鐘f:id:shinsaku1234t501:20170905025551j:imageその結果、「豊臣家の大和郡山移封」や「秀頼の江戸参勤」・「淀殿の江戸人質」などの条件が且元から秀頼に伝わった。これらの条件が家康の側近から実際に打診されたのか、且元が家康の怒りを忖度して独自に考えたのかは分からないが、一切の条件を飲まないとなれば、さらに事態は悪化する。待った無しの状況を理解している且元としては、どれか一つでも実行に移すべく説得にあたる。しかし、この説得が必死であればあるほど、且元の徳川家内通を疑わせる要因となっていく。

全てを拒絶した結果が大坂冬の陣となるのだが、屈辱的な外交とはいえ、且元が粘り強く苦心していた姿は、むしろ忠義と言えよう。彼は三成のように大坂方を擁して挙兵する道を選ばなかった。ゆえに、暴発寸前となっている大坂方からは「手ぬるい」・「腰抜け」・「裏切者」と誹りを受け、挙句の果てに襲撃を受けることになった。確かに、彼が真に内通者ならば大坂方の士気高揚のためにも始末すべきである。

その且元に襲撃計画を知らせたのが、御伽衆として淀殿の側にいた織田信雄(常真)である。その信雄もほどなく大坂城を出奔することになる。もはや外交云々の余地はなく、挙兵あるのみという城内の沸騰ぶりが窺える。

関ヶ原合戦の場合は、秀吉の死から僅か2年しか経っていない状況もあり、豊臣恩顧や全国の大名の趨勢に期待する部分があった。

しかし、大坂冬の陣は秀吉の死・関ヶ原合戦・幕府成立を経てなお十年近くを経ている。世の趨勢の中で豊臣家の身の振り方を見定めるには充分過ぎる時系列があったはずである。その中で下記のような現実的な議論を重ね続ける且元と、豊臣家という看板を1ミリたりとも下げようとしない城内の群臣との軋轢こそが且元を内通者に歪めたのではなかろうか。

 「『徳川太公は、義元の誼を失はずして氏真を納れ、信長の好を遺れずして信雄を助けたり。先公(秀吉)、其の然るを知る。故に終に臨んで孤を託す。君務めてその驩心を失はざれ。則ち以て長久なるべし。不らずんば則ち禍将に測られざらんとす』と。秀頼頗る悟る。而して群臣悦ばず。且元数々関東に使するを以て、其の私あるを意ひ、稍々これを猜防す。」(日本外史

 群馬県甘楽郡甘楽町小幡 織田宗家七代の墓 織田信雄f:id:shinsaku1234t501:20170929211727j:image冬の陣終結後、且元が家康から駿府に屋敷を与えられたことも内通説に拍車をかける要因だが、大坂城を出奔して幕府軍に就いた苦渋の決断に報いる家康ならではの同情の表れなのかもしれない。江戸ではなく、家康のお膝元である駿府という点は非常に意味があると思われる。

豊臣家臣団 その22

さらには、豊臣家にあってもその踏み絵を踏んだ人物が2人いる。

徳川家の傘の下で豊臣家を存続すべく奔走し続けた片桐且元は、大坂方から裏切者として命を狙われた挙句、幕府軍に加わった。
大坂冬の陣では三浦按針経由で幕府が入手した最新鋭の英国製カルバリン砲を大坂城天守めがけて撃ち込む役目を担い、夏の陣でも徳川秀忠麾下として岡山口に従軍した。最後の局面において淀殿豊臣秀頼らの助命嘆願をしたとされるが、ともかくも大坂城の山里曲輪に潜んでいることを秀忠に報告したことで最悪の結果を招いてしまう。

大阪府大阪市中央区大阪城 大阪城公園 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地碑f:id:shinsaku1234t501:20170705154555j:image夏の陣終結から20日後、且元は持病により病死したが、一方で憤死ともとれる自殺説もある。

先にも述べたように、三成や長束は計数管理を得意とする官吏であって、外交交渉を得意とはしていなかった。そのせいか最終的に軍事力に訴えた。朝鮮出兵の講話交渉にあたった経験がある小西行長関ヶ原で刑死した。家康との関係を見据えながら堂々たる交渉を展開しうる可能性があった大谷吉隆も戦死した。

関ヶ原直後には「西軍が勝手に挙兵しただけで預かり知らぬこと」と事なきを得た豊臣家ではあったが、ここにきて脇を支える譜代の家臣不足というボディブローが着実に効いてきた。

こうして彼らの死の結果、繰り上げ当選のような形で豊臣家存続の前面に立たされた且元とて賤ヶ岳七本槍に名を連ねる武人であって、決して外交の専門家ではない。権謀術数に対応できる器用さもなく、槍働きで頭角を表したのちは地道に奉行職を歩んできただけである。

片桐且元画像f:id:shinsaku1234t501:20180409193956j:image天正14年(1586)には京都方広寺建立の作事奉行、街道整備の道作奉行、浅野長吉や福島正則らとともに検地奉行、朝鮮出兵においては現地に渡り、軍船の手配や街道整備を担当した。

関ヶ原合戦では大坂城にあって西軍に加担したものの、戦後、長女を人質に差し出したことで不問に付されたどころか、家康から大和竜田2万4千石に任じられた。

その後も、本多正純板倉勝重大久保長安といった徳川家の吏僚とともに検地や治安維持に従事したところを見ると、豊臣家と徳川家の共同作業における調整的役割にあったと思われる。

一方で、秀吉の七回忌・十三回忌などの豊国社大祭を総奉行として仕切り、秀頼と家康の二条城会見の実現にも奔走した。常に徳川家との関わりが認められるものの、関ヶ原合戦後から大坂冬の陣までの時期における豊臣家と徳川家の共存共栄に寄与したことは特筆すべきと言える。その人物が一転して家康に翻弄され、豊臣家では不甲斐ない・主導権を握れないなどの批判の末に裏切者扱いを受ける苦悩の後半生を辿ることになる。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺 片桐且元手植えのモチの木f:id:shinsaku1234t501:20180409190855j:image実は大坂冬の陣より2ヶ月半ほど前の慶長19年7月17日、大坂城淀殿の後見役を務めていた織田信包が吐血の上、急死した。この時、且元による毒殺という噂が城内に流れたという。且元がいかに城内で疑われていたことを裏付ける話である。

豊臣家臣団 その21

唯一、馳せ参じた豊臣恩顧の動きを紹介するならば、増田長盛盛次父子と言えるかもしれない。

愛知県稲沢市増田南町 八幡社 増田長盛邸址碑f:id:shinsaku1234t501:20201201204659j:image関ヶ原合戦において西軍に属したため、増田家は改易となり、長盛は高野山での蟄居を経て武蔵岩槻に配流、長男で庶子の長勝・次男で嫡子の盛次らは叔父(増田長盛弟)長俊の養子となることで連座を免れた。それどころか、盛次はのちに徳川家康、さらにその九男で尾張名古屋城主となる義利(のちの義直)に仕えることになった。

大坂冬の陣では尾張徳川義利隊として参戦したが、大坂方の勝報に喜び、幕府軍の勝報に機嫌を損ねる様子を小耳に挟んだ家康が「さすがは増田長盛の倅」と苦笑したエピソードがある。夏の陣に際しては、父長盛の了解を得た上で、「豊臣恩顧としての忠義を貫きたい」と主君義利に申し出たところ許された。こうして堂々と大坂城に身を投じる。

大坂方への参陣を正々堂々と申し出て退去する盛次、徳川家を敵に回す盛次の決意を許した父長盛、盛次の忠義を認めて送り出した尾張徳川義利もまた武士と言えよう。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城復元天守f:id:shinsaku1234t501:20200521124649j:image慶長20年(1615)5月6日、父長盛がかつて烏帽子親を務めた長宗我部盛親隊に属し、八尾で藤堂高虎隊と合戦に及んだ。皮肉なもので、長宗我部隊の殿軍を務める増田盛次に襲いかかる藤堂隊には、元増田家の家臣で槍術を指南してくれた渡辺勘兵衛がいた。享年は不明だが、藤堂隊の磯野行尚(磯野員昌の孫)に討ち取られた。

一方、武蔵岩槻で蟄居していた長盛は、大坂冬の陣直前に岩槻城主の高力清長から「豊臣恩顧として大坂に入城することを許す」という家康の言葉を伝えられていた。実は大坂城に間者として送り込むためだったという。これに対して、「家臣も持たぬ身の上で大坂城に入っても何もできることはない。かえって太閤殿下に申し訳ない」と言って動かなかった。

夏の陣終結直後の5月27日、長盛は武蔵岩槻の配所で自害するのだが、やはり盛次が大坂方に同心したことの責任を負わされた家康の命令と伝わる。

大坂から遠く離れた関東の地で主君秀頼に殉じた忠義からのものなのか、自分の代わりに大坂方として奮戦した盛次の後を当然のように追ったものなのか、豊臣家を滅亡にまで追いやった家康への憤死なのか、はたまた豊臣家が滅亡したことを従容と受け止めた静かな死なのか、どれを信じるかで真相は全く違ってくる。

埼玉県新座市野火止3丁目 金鳳山平林寺 増田長盛f:id:shinsaku1234t501:20180121011825j:image盛次のように忠義を貫くことができた者がいる一方で、保身や諦めで動かなかった豊臣恩顧もいる。もっとも、動かなかった長盛を見ても分かるように、実際にとった行動と豊臣家への忠心を同列に語るわけにはいかない。関ヶ原の時は、東軍に属した武断派、西軍として減封になった武将、いずれも石田三成を理由にすることができた。

しかし、生き残った豊臣恩顧はすべからく大坂の陣において踏み絵を突きつけられた。そして、苦渋の中でその踏み絵を踏んだと考えるべきであろう。