侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その16

本戦において西軍の有力大名である毛利・島津・長宗我部らがほぼ動かず、宇喜多秀家や三成・大谷・小西らが奮戦したのに対し、東軍の主戦力も福島・浅野・黒田・長岡・藤堂など豊臣恩顧の武断派であった。西軍の三成ら文治派を制したのは、東軍に属した武断派の福島らであるという皮肉な構図である。これは徳川家を否定する豊臣家への忠義が、徳川家傘下で共存すべきとする豊臣家への忠義に取って代わられたことを意味する。

また、やむを得ない流れとは思うが、淀殿・秀頼も家康に抗しきれずに西軍の挙兵とは無関係を装うことで社稷を保った。そして、武断派による豊臣家を守るための深謀遠慮こそが、家康を天下人にしたと言っていい。

とかく関ヶ原合戦を巡る対立構図は、天下盗りの野望に燃える家康という巨悪に対して、止むに止まれぬ思いから忠義の士 三成が敢然と立ち向かって惜しくも敗れた、というお決まりのパターンで語られてきた。そして、これからも語られていくだろう。

三重県伊賀市上野丸之内 伊賀上野城 藤堂高虎f:id:shinsaku1234t501:20170907215758j:imageしかし、史実としての西軍は、家康の留守を狙って挙兵に及び、先手を打って大坂から美濃までの道筋を押さえて主導権を握っていたにも関わらず、一方的に攻め込まれて敗北に至るや、淀殿・秀頼から尻尾切りされたのである。

冷徹なまでに俯瞰した場合、いくら家康が秀吉の遺命に背いたとはいえ、秀吉が定めた惣無事令に背いて内戦を惹き起こしたのは他ならぬ西軍である、という見方を忘れてはいけない。

「歴史は勝者によって作られる」と言うが、この一連の流れは当初から西軍に自滅に近い要素があったと言わざるを得ない。だからこそ、それを認めようとしない西軍贔屓は未来永劫に浪漫としての関ヶ原合戦を語っていくしかないのだろう。

古今、戦争というのは正々堂々であることと、勝敗は別物である。前述の通り、三成が正々堂々にこだわるあまり、夜襲などを拒み続けたのに対し、東軍はその裏を巧みに突いてきた。正々堂々の武士道は美談かもしれないが、それゆえに負けてしまったら、それこそ「歴史は勝者によって作られる」のであり、肝心な正々堂々すら語られない。

「家康は汚い」と評するその逆は「三成が駆け引きを知らなかった」と言う答えになる。負けるのが嫌なら挙兵すべきではないし、挙兵するからには汚い手段を駆使してでも勝たなければならない。なぜなら、西軍が負けて豊臣家のためになることは一つもないのである。むしろ、豊臣家を劣勢に追い込むことになる。

また、三成や長束らは行政事務に優れていたものの、対する清正や福島ら武断派が著しく能力的に劣っていたわけではない。

清正や藤堂高虎らは築城の名手であると同時に領内の仕置にもかなり定評があった。

福島も検地など内政における功もあり、関ヶ原直後に黒田長政とともに西軍の総大将 毛利輝元大坂城退去に奔走した点を見ても相応の周旋能力を有していたと考えられる。

黒田孝高が秀吉の軍師であったことから嫡男の長政は影が薄いように解釈されがちだが、関ヶ原前後の調略・交渉能力や三成隊の嶋清興を討ち取った軍功は、まず八面六臂の大活躍と言える。

一方、戦下手と思われがちな三成だが、嶋清興らの奮戦もあって、黒田長政・長岡忠興らと互角に渡り合った。

どうしても、豊臣家臣団のテクノクラートである文治派と槍働き一辺倒である武断派の対立と表現されがちだが、単純に彼我の能力だけで色分けできるものではない。
そして、戦局を大きく左右したのは、秀吉晩年からの豊臣家の内部弱体化と迷走状態に、すでに勝敗の鍵があったと思わざるをえない。三成もまた豊臣家の内部修復を試みる努力をせず、家康はその内部崩壊をさらに根深い物にする努力を惜しみなくおこなった。

豊臣家臣団 その15

ともかくも、秀秋の参戦にさらなる勢いをつけたのが、松尾山麓に布陣していた脇坂安治である。本来は家康に従って会津上杉討伐に出陣するところを三成に阻まれてやむを得ず西軍に属した脇坂は、当初から山岡景友を通じて家康に弁明し、藤堂高虎を窓口として東軍に内通していた。

三成から毛利家に対して松尾山城への布陣要請があったことで、一族の小早川秀秋が布陣する一方、その山麓脇坂安治が布陣する。小早川・脇坂双方が、互いに東軍に内通している情報を共有していたかどうかは分からないが、秀秋の東軍内通はすでに噂となっていた。

ただ、東軍に内通している脇坂からすれば、山上の小早川隊が西軍として動けば、山麓めがけて雪崩を打って攻撃される恐れがある。その場合、脇坂隊は捨て石の覚悟で対峙しなければならない。逆に小早川隊が東軍として動く場合、脇坂隊は呼応する友軍となりうる。

実際に小早川隊が大谷吉隆隊に攻めかかると、脇坂隊も平塚為広隊や戸田勝成隊に突撃した。計算外なのか、これに引きずられるように小川祐忠も同調する。重要なのは、戦場において本当の意味で寝返ったのは小川隊であって、脇坂も小早川同様、予定通り東軍として行動したに過ぎない。

当初西軍として山城伏見城攻撃に加わったマイナス面はあるが、関ヶ原本戦と近江佐和山城攻撃の軍功を評価された秀秋は加増となった。

同じく当初の予定通りに行動した脇坂だが、加増には至らなかったのか、内通の段階で約束されていたのか、本領安堵でしかない。

一方、返り忠を果たしたにも関わらず、小川は改易に処せられた。ちなみに、参戦が疑問視されている朽木元綱は減封、赤座直保も改易となった。

これらの論功を見ても事前から東軍に内通していた秀秋・脇坂らが明確に東軍として認識されていた証拠が見てとれる。対して、戦況次第で返り忠を果たした小川(朽木・赤座も同様とされる)は、最も嫌われる裏切り行為とみなされたのか。古来から戦況を見て裏切る行為は、たとえ戦功があっても、武士の倫理観としては忌み嫌われた。家康も、事前から内通を約束していた秀秋や脇坂と、現場で突如裏切った小川では、全く異質と解釈したのだろう。

なお、毛利両川と言われる吉川広家は西軍として毛利家中にありながら東軍に内通することで毛利家の本格的な参戦を阻み、小早川もまた東軍に内通していた。三本の矢の二本までもが、毛利本家に隠れて東軍に内通していたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 徳川家康最後陣地f:id:shinsaku1234t501:20170912151014j:imageこうして家康を大将として擁した合戦と語られるが、家康は武断派諸将による豊臣秀頼への忠誠の賜物とすることで、自身の天下盗りの欲望をカムフラージュすることができた。

それどころか、大坂城での戦勝報告において三成ら西軍が勝手に起こした戦いと断じ、淀殿や秀頼の関与を不問に付すことで、むしろ豊臣恩顧からはその寛仁態度をありがたがられる始末である。もちろん、豊臣家の石高を220万石から65万石程度に減封することも忘れてはいなかった。

一方で、武断派諸将の奮戦のおかげとしながらも、先鋒を担ったのは東条松平忠吉徳川家康四男)・井伊直政ら徳川直臣であるという名誉も用意している。関ヶ原の戦場において福島正則を出し抜いて西軍に先制の鉄砲を放った忠吉は、この功もあって武蔵忍10万石から尾張清洲52万石に大抜擢される。

清洲24万石だった福島正則は安芸広島49万8千石の倍増とは言うものの、関ヶ原の先陣を奪われただけでなく、清洲という東海の要衝までも忠吉に取って代わられ、宇喜多隊を一手に引き受けた抜群の戦功があるにもかかわらず、石高でも忠吉には及ばなかった。

岐阜県関ケ原町大字関ケ原首塚 松平忠吉井伊直政陣所古址碑f:id:shinsaku1234t501:20170929204212j:imageこうして、家康は五大老などの合議制を破壊し、武家を自身の思惑一つで動かせる存在になった。しかし、豊臣家はまだまだ世の畏敬を集めて存続している。

豊臣家臣団 その14

前項でも述べた通り、西軍は尾張三河の国境どころか、東濃から中濃まで制圧され、家康が大垣城を間近に見据える赤坂に本陣を構えたことで、西濃への進軍も許した。そして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発した。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 開戦地碑f:id:shinsaku1234t501:20170921225609j:image布陣図上では有利と言われた西軍だが、内実は問題だらけだった。

本戦における毛利秀元の不参戦の裏には、過去の所領問題で三成に恨みを持つ吉川広家の東軍への内通があり、その広家の説得で福原広俊までもが内通に加担した。

毛利が動かないがゆえに長宗我部盛親も動かなかった。

小早川秀秋の東軍としての参戦には武断派黒田長政の調略があった。実は、黒田長政にとって、秀秋の家老 平岡頼勝は母方の従兄弟である。この関係を利用しない手はない。本戦当日の小早川陣中に黒田家臣の大久保猪之助が目付として派遣されていた事実は、事前に東軍に同心する密約が成立していたことを裏付ける。

すなわち、西軍からすれば「寝返り」と見える秀秋の参戦は、家康から見れば「予定通り」の行動にすぎないのである。そもそも秀秋の寝返り説というのは、江戸中期以降の儒学的思考と葉隠武士道の確立などの倫理観から定着したレッテルと考えられる。本来、戦国から江戸初期は下剋上の余弊が色濃くあり、鼻を聞かせて利に傾くことは決して恥ずべきことではなかったはずである。

三成とて、そんな秀秋の不安定な同心にうすうす気付いていたからこそ、「秀頼成人までの関白就任」という大きな餌を蒔いて引き留め工作をおこなった。しかし、秀頼成人までのリリーフというのは、亡き豊臣秀次の二の舞を連想させる。むしろ、美味しい餌どころか、露骨に毒かもしれない。

こうして関ヶ原本戦において痺れを切らした家康が秀秋の陣取る松尾山城に「問鉄砲」を撃って裏切りを催促したという話があるが、当時の史料には記載がなく、元禄期以降になって登場した逸話でしかない。正午頃まで秀秋が東軍への参戦を迷っていたから問鉄砲がおこなわれたと伝わっているが、開戦と同時に秀秋が東軍として参戦したのが巳の刻(午前10時頃)とする説、大谷吉隆の戦死が巳の刻ということは秀秋の参戦はそれ以前の時間帯とする説、従来秀秋が参戦したとされる正午には西軍総崩れという説などがあり、今までの定説が根底から覆る可能性が出てきた。

また、脇坂安治・小川祐忠は松尾山麓に布陣していたが、朽木元綱赤座直保らは参戦自体を疑問視されているという。

仮に問鉄砲があったとして、発砲したのが藤堂高虎福島正則・布施孫兵衛(徳川家康家臣)など諸説ある。

また、はるか山上まで銃声が届くはずはなく、山麓で空砲が鳴っている程度であったと想像されるため、「石田軍記」・「井伊家慶長記」では、問鉄砲はあったものの、小早川陣中にはなんらの効果もなかったという記述さえある。

さらに一番の驚愕は、もっとも流布している「日本戦史」の両軍布陣図にさえ疑義が生じているとのことである。三成は笹尾山に布陣していない、秀秋は松尾山城ではなく手前の岡に移動していた、などの説である。

明治時代の陸軍大学校教官クレメンス・W・J・メッケルが一目見て西軍有利と断じたあの布陣図自体がそもそも怪しいものである以上、西軍有利と断じたエピソードも創作の可能性が指摘されている。

このあたりの新説は、白峰旬「新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い」(宮帯出版社)に詳しい。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 決戦地f:id:shinsaku1234t501:20170921225256j:image後世に膾炙されている関ヶ原合戦というのは、かなり疑うべきものであり、スタンダードとして語られているエピソードは、ほぼ司馬遼太郎などの小説がベースになっているに過ぎない。

豊臣家臣団 その13

もう少し史料などを参考にしながら、戦場が関ヶ原になった経緯を紹介する。

⚫️「大垣は城塁壮固、兵食皆足る。秀家少しと雖も暗者に非ざるなり。而して義弘・行長・正家・吉隆、心を一にし力を戮せて持重して出でず。これを攻むれば必ず我が兵を損ぜん。独り三成、軽んじて衆を恃む。若しこれを外に誘出して、秀秋・秀元をしてその後を撓さしめば、則ち一戦にして鏖にすべきなり。我れ且く軍を動かし以てこれを試みん」(日本外史

島津義弘はじめ西軍諸将は大垣籠城を唱えているから難しいが、三成をターゲットにして大垣城から誘い出せば、松尾山城から小早川秀秋の参戦、南宮山の毛利秀元の不参戦などで西軍の作戦を崩して皆殺しにできる、と家康は目論んでいた。

一方の三成も同日の軍議で語っている。万が一、大垣城に籠城して野戦で雌雄を決することをしなかったら、せっかく西軍に同心してくれている諸国の士の落胆を誘う。小牧合戦において秀吉が戦うべきを戦わなかったがために、家康が名声を手に入れたことを考えれば、その過ちを再び繰り返してよいものか。

而して坐ながら孤城を守り、敢て出で戦はずんば、天下の我を望む者、皆沮喪せん。往年、小牧の役に太閤過慮し、当に戦ふべくして戦はず。終に内府の名を成す。今豈に過を弐びすべけんや」(日本外史

家康は、三成の虚栄心、もしくは戦術よりも建前や正義を重んじる性格を突く策に出たと言っていい。さらに、三成が小牧合戦を秀吉の一大失策と捉えていたことがよく分かる。これで、家康・三成両者が野戦を望んでいたと考えられる。

⚫️西軍としては東軍よりも先回りして移動せざるを得ないので、赤坂岡山本陣を襲撃をしている場合ではない。逆に東軍からすれば本陣を襲撃されなくて済む。

⚫️本当に佐和山城を攻撃するつもりならば、東軍のほうが早くに移動を開始していなければおかしい。にもかかわらず、家康が午前2時まで全軍に移動命令を発しなかったのは、大垣城に残る者、野戦に動員された西軍諸将の布陣などを可能な限り情報収集するためと考えるのが自然だろう。

⚫️西軍が一番避けなければいけないことは、東軍が近江を経て京大坂に接近することである。そして、近江の入口に佐和山城がある。三成の居城が攻略されたら西軍の士気に関わる。そうなれば、佐和山の手前で東軍の進路を塞ぐしかない。

大垣から西の佐和山へ繋がる道筋と西北の北国街道へ通じる道筋を重点的に固めてくるはずであることは、家康でなくても容易に推察できる。この2つの街道筋を同時に制することができる地は、すなわち関ヶ原から垂井にかけての一帯に絞られる。

⚫️家康にとって、14日は吉川広家福原広俊の連名で毛利家不参戦の起請文が出されただけでなく、福原と粟屋就光から家康に人質を提出する約束が成立した。また、小早川秀秋には2ヶ国加増を約束した日でもある。決戦が延びれば心変わりが生じる恐れがある。西軍に裏工作の時間を与えないためにも、早期に戦端を開きたい焦りにも似た事情がある。

⚫️若い頃から野戦の名手と謳われた家康としては、大垣・佐和山・水口と個々の攻城戦を演じて疲弊しながら西進するよりも、得意の野戦で勝利できれば、その後は圧倒的優位で降伏開城を前提とした外交戦に持ち込める。

⚫️上記各項を総合すると、三成らが俄かに大垣城を捨てるかのように慌ただしく出陣した辻褄が合う。また、家康が遅れて移動したことにも説得力がある。これは往時、家康自身が体験した三方ヶ原合戦を彷彿とさせる。元亀3年(1573)、大軍を擁する武田信玄が籠城予定の遠江浜松城を無視するかのように素通りしようとすることで、家康を三方ヶ原まで引っ張り出した策に酷似している。

岐阜県大垣市郭町 大垣城天守f:id:shinsaku1234t501:20170918011445j:image佐和山城攻撃計画が全くの偽情報とは言えないが、少なくとも家康が西軍を大垣城から引きずり出すための方便だとしても、結果的には極めて有効だったと言えよう。

そして、東軍を近江の手前で迎撃する観点からすれば、西軍が迎撃するのは関ヶ原一帯しか残されていないのである。木曽川に始まった戦線の度重なる後退の結果であり、もはや戦術というほどでもない。

豊臣家臣団 その12

西軍の軍議において岡山本陣の襲撃が取り沙汰されていることを知ってか知らずか、家康は三成の居城 佐和山城の攻撃を決定する。不思議なことに、東軍によるこの佐和山城攻撃計画がいち早く三成の耳に入り、午後7時には大垣城を出陣することになる。いわば、尾張への進軍を諦め、合渡川合戦で退却を決断し、家康本陣の夜襲を却下した三成が、やっと決戦の覚悟を決めた瞬間と言える。

家康は西軍の移動を見極めたかのように午前2時になってようやく全軍移動を命じた。福島ら諸将は大垣城からの攻撃に注意しながら移動を開始し、家康自身も1時間後の午前3時に岡山を発し、午前6時頃には桃配山に布陣した。

岐阜県大垣市赤坂町 徳川家康勝山本陣址 関ヶ原合戦慰霊碑f:id:shinsaku1234t501:20170914105732j:imageそれにしても、佐和山城攻撃計画が敵方の三成に漏れたのが早すぎる。普通に考えて、このような大事な作戦内容が敵に筒抜けになることすらおかしい。

杭瀬川合戦は時間が定かではないが、夕刻と伝わる。そして、三成が大垣城を出立するのが午後7時頃である。わずか数時間の中で大垣城に情報が伝わり、軍議が開かれて移動開始を決定したことになる。

ちょうど、西北の関ヶ原に聳える松尾山城には小早川秀秋が布陣している。おそらく大垣城の後詰という目的であろう。そこで、西軍は松尾山から北に連なる山裾に沿って東を向いた布陣を完成させる。

大垣は今でも「水都」と呼ばれる低地帯であり、北西部の一部を除いたほぼ全域が海抜3〜6メートルしかない。大垣城で籠城するなら方法もあるが、野戦を展開するのであれば、折からの雨で水を含んだ低地は適さない。西軍は佐和山の手前で東軍を食い止める意味も含め、まさに大垣の北西にあたる関ヶ原一帯に布陣を完成させる。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 天満神社 宇喜多秀家陣跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170914132113j:image三成は関ヶ原への移動途中、長束正家の陣に立ち寄っておそらく最終打ち合わせをしたのだろう。安国寺恵瓊とも打ち合わせに及んでいるが、果たして吉川広家福原広俊らの東軍内通などを本当に知らなかったのだろうか。俗にいう「空弁当」のエピソードが伝わる以上、この時点では毛利秀元吉川広家の不参戦は三成・恵瓊の知るところではなかったと考えたほうが無理がない。もし、何かしらの情報が入っていたら毛利秀元と面談する必要が生じていたに違いない。

松尾山麓では小早川秀秋の家老 平岡頼勝と面談し、秀秋の関白就任を直接約束したらしい。山麓で面談したということは後述するが、小早川の陣は山上ではなく、山麓にあったという説に繋がる。

さらに、盟友 大谷吉隆とも打ち合わせをおこなって、三成自身が笹尾山に布陣したのは午前1時頃であった。

この間にも、赤坂岡山の家康本陣には美濃曽根城主 西尾光教などから西軍の移動状況についての情報が続々と伝わっていたと思われる。三成ら西軍が午後7時から移動を始めたのに対し、家康が全軍移動命令を発したのが翌日の午前2時である。この7時間という時間差は東軍が堂々と進軍を開始するために必要だったと考えられる。

それは、西軍諸将の関ヶ原付近における布陣をある程度把握するための情報収集に徹した時間かもしれない。

また、大垣城に残った西軍勢力が移動する東軍を襲撃しないかを見極める時間だったとも考えられる。

そして、東軍が関ヶ原に布陣するということは、毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長宗我部盛親長束正家らの陣よりも奥に進むことになる。この時間の中で毛利の不参戦が担保されたからこそ移動を決断できた可能性もある。

豊臣家臣団 その11

8月23日、大垣城から岐阜城への援軍が出撃した場合に備えて後詰していた黒田長政藤堂高虎田中吉政らが岐阜城下に到着すると、もはや落城の様相を呈していた。

岐阜県岐阜市金華山天守岐阜城復興天守f:id:shinsaku1234t501:20201201201511j:imageそこで、手柄を求める彼らは独断で大垣城目指して進軍を開始した。そして、大垣城東方の合渡川付近で西軍らしき軍勢を確認した諸将は直ちに軍議を開いたが、連日の豪雨で増水した川の渡河を巡って議論がなかなか決しなかった。その時、藤堂が黒田隊の後藤基次に諮問したところ、「軍議で無駄に時を費やすよりも、内府に面目を立てんとするなら討ち死を覚悟するのが本懐である」と返答をした。ここでも1人の人物の言葉が戦局を変えた。

こうして、合渡川合戦は後藤又兵衛が一番槍で濁流を渡河し、前野忠康(舞兵庫)率いる三成隊を駆逐した。墨俣に陣していた島津義弘は兵を整えて横合いから攻撃を加えれば勝てると力説したが、三成はこの意見を退けて大垣城へ退却する。

「義弘曰く、前軍敗ると雖も、吾と子と兵を整へ横撃せば則ち勝たんと。三成曰く、敵兵鋭進す。岐阜蓋し陥るならん。吾れ已に援くる能はず。何ぞ新勝の鋒に当るべけんやと。敗兵を収めて、倶に大垣に還る。」(日本外史

特に「吾れ已に援くる能はず」という表現に注目すれば、「三成が岐阜城を救援するのは無理だ」と匙を投げている、一矢を報いようともしていない、弱気な様子が見て取れる。その結果、戦勝の余勢を買った黒田隊を先頭に大垣城西北の赤坂まで進み、岡山(関ヶ原の勝利にちなんで、のち勝山と改称)を占拠した。翌日、岐阜城の東軍主力も赤坂周辺に布陣した。

同時期に大垣城に到着した宇喜多秀家が、赤坂の東軍陣地の夜襲を提案するが、やはり三成が却下する。西軍が全勢力を結集してから決戦に及ぶべしと言う理由だが、その頃には東軍も家康以下全軍が結集する可能性がある。「三成は年上、私は年下、年上と対立することはしないが、その代わり後悔はしないように」と、宇喜多の恨み節が垣間見える。

我が軍尽く至らば、則ち敵軍も亦た尽く至らん。勝其れ決すべけんや。然りと雖も、子は老輩の言を称す。吾は後生なり。敢て違はず。唯々子、これを悔ゆるなかれ」(日本外史

これらの勝報を得た家康は、愛妾お梶の方(関ヶ原の勝利にちなんで、のちお勝の方と改名)を同道して9月1日に江戸城を出陣、同14日昼頃に美濃赤坂にある岡山に到着した。とうとう家康と合流した東軍の勢いは西軍の動揺を誘い、一部では兵の逃亡も発生した。そこで、西軍の士気低下を怖れた嶋清興は三成の許可を得て一戦を試みたのである。

同日夕刻、左近の手勢が赤坂の手前で刈田を仕掛けたところ、東軍の中村一栄と有馬豊氏らが杭瀬川付近まで深追いしてきた。このタイミングで一色村に潜んでいた伏兵が襲いかかり、作戦通り宇喜多秀家隊の明石守重も襲撃に加わった。結局、家康の命を受けた井伊直政本多忠勝らが出撃して殿軍として退却を完了したものの、中村一栄の家老 野一色助義はじめ40名ほどが戦死した。こうして、嶋左近の鬼謀が轟いた杭瀬川合戦は西軍が勝利した。

この直後の軍議において左近と島津義弘小西行長らは、赤坂岡山の家康本陣に対する夜襲を提案したが、三成によって却下された。さきの合渡川合戦における退却といい、今回の夜襲却下にも納得がいかない島津義弘は、いよいよ翌日の本戦における不参戦の覚悟を固め、またしても三成の勇の無さが左近の策を退けたことになる。

俗に「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた左近であるが、これは単に左近が有能な人物であると言うだけでなく、その有能な人物を十二分に使いこなせていない三成への皮肉でもあり、献策を受け入れてもらえないにも関わらず、その三成に惜しみない忠義を尽くして死んでいった左近を惜しむ言葉にも聞こえる。

なお、巷で有名な三成が左近を破格の石高で招聘したというエピソードは、実は三成がまだ秀吉の小姓だった頃に知行5百石全てを投げ打って渡辺勘兵衛を雇った実話がベースと考えられる創作の可能性がある。普通に考えて、後から仕官してきた左近が三成の知行の半分で雇われたとなれば、古参の重臣が不愉快になるというものである。美談のように見えて、実はお家騒動の原因にもなりかねない。

豊臣家臣団 その10

こうして、家康が武断派を上手く自陣営に取り込み、三成ら文治派への憎悪の念を利用した結果、村越直吉の一言に奮起した東軍は、8月21日に上流隊と下流隊の二手に分かれて清洲城を出陣することになった。

池田照政・その実弟羽柴長吉(のちの池田長吉)浅野幸長山内一豊一柳直盛ら上流隊1万8千人は、8月22日明け方に河田の渡しで織田秀信隊と前哨戦を演じたのちに小屋場島で陣を整え、同日昼頃、さらに木曽川を渡った米野で石田三成からの援軍を含む織田隊との決戦に勝利、東南から岐阜城を目指して進軍した。

岐阜県各務原市川島笠田町6丁目 小屋場島の陣跡碑(池田照政・山内一豊ら東軍の木曽川渡河直前の陣地)f:id:shinsaku1234t501:20201201202013j:image米野の後方に布陣していた秀信は急ぎ退却して岐阜城に籠城した。秀信とは、亡き信忠の嫡男として清洲会議織田家家督相続者と位置づけられた三法師、その人である。当然、豊臣秀吉には大恩がある。

しかし、一方では家老の木造具康が「公、右府の嫡孫を以て、顧つて豊臣氏の家奴に役せらるるか」(日本外史)と再三に亘って西軍への同心、すなわち豊臣家の風下に就くことを反対していた。

岐阜県各務原市川島町 米野の戦い跡碑f:id:shinsaku1234t501:20180116221725j:image一方の下流隊は福島正則・長岡忠興・黒田長政加藤嘉明藤堂高虎京極高知井伊直政本多忠勝ら1万6千人で構成され、河田の渡しよりもはるか下流の加賀野井から渡河、8月22日午前8時から午後4時ぐらいまでかけて杉浦重勝の籠る竹ヶ鼻城を攻略した。その後、西南方向から岐阜城に迫ったが、すでに岐阜城下に入っている池田・浅野らの隊に追いつくための夜間強行軍だったようで、長岡忠興などは馬上で湯漬けを食したという。

岐阜城下に到着すると、池田照政ら上流隊に出し抜かれた怒りをぶつけた福島が池田に対して刀に手をかけるほどの喧嘩を始め、長岡や加藤嘉明らが必死に止めに入る場面すらあった。家康からの目付として従軍していた井伊直政本多忠勝らの心労は察して余りあるだろう。

こうして岐阜城下に集結した東軍は、8月23日、たった一日にして岐阜城を攻略した。落城寸前に自害しようとしていた織田秀信を説得して思いとどまらせたのは池田照政であり、その戦いぶりを賞賛し、自らの武功と引き換えに家康に助命嘆願したのは福島正則高野山まで送り届けたのは浅野幸長であった。

秀信は岐阜城下で剃髪の上で高野山蟄居となったが、信長と対立した過去を持つ高野山側としては、その孫を受け入れるのにはかなりの抵抗があり、入山はできたものの周囲の冷ややかな対応に耐え切れず、5年後に下山した直後、麓の村で生涯を終えたというのは誠に気の毒である。

往時、織田信秀・信長の二代に亘り斎藤氏を斃して攻略するまでにかなりの年月を要した岐阜城は、信長の孫の代になったら一日で陥落した。攻め手の中に岐阜城を熟知している旧城主 池田照政がいるという具体的な理由もあるが、東軍の勢いが優っていたと見るべきか、各方面に散らばるあまり岐阜城を全面的に応援できなかった西軍の事情があるのか、およそ天下分け目とは思えないあっけない前哨戦である。