侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その9

8月19日、家康の命で村越直吉が清洲城に到着した。江戸城に腰を落ち着けて出陣する気配すらない家康に不満を抱く諸将からの抗議に対して「敵方と戦端を開けば、江戸を出馬するだろう」と言い放った。

「茂助申し候は、御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)

「一先ず手合わせの一戦し、敵味方手きれの証拠をきつと見せられ候はば、悦び思し召すべく候」(関原始末記)

かつて秀吉から引き抜きを受け、のちには老中格にまで出世する村越だが、一つ間違えれば東軍諸将の怒りを買わないとも限らない挑発的な言葉である。

東軍は家康という最大の実力者を擁してはいるものの、その実は豊臣恩顧がかなりの割合を占めている外様大名の混成部隊である。村越はその事実に配慮するどころか、戦う姿勢を見せない諸将を「家康は信用していない」と露骨に言ってしまった。家康があの手この手で諸将を繋ぎ止めているのとは真逆の言葉である。

果たして家康が村越に託した言葉なのか、それとも沸き立つ清洲城内の雰囲気を受けて咄嗟に口を突いて出た村越の方便なのかは分からないが、もし家康が言わせた言葉ならば、承久の乱において出陣する鎌倉武士を前にした北条政子の檄を彷彿とさせる。この時も、鎌倉武士の中には朝廷を敵にすることに躊躇を覚える者が少なくなかった。

そもそも「敵味方手切れの証拠を見せろ」とまで強気な態度に出られるのには理由がある。前述の通り、会津上杉征伐からの一貫した流れの中で討伐目標が変更しただけで、今でも東軍は秀頼を擁した軍勢なのである。「西軍と戦わないのは(秀頼に対する)不忠であり、家康はそんな不忠者を信用できない」というロジックが成立するのである。こういう狡猾な部分が、後世家康の嫌われる所以と思われるが、一方で巧みな政治力と評価することもできる。

こうして、まさに火がついた東軍は木曽川を渡河した勢いそのまま、8月23日には岐阜城を攻略した。このワンシーンに登場した村越の一言が、膠着していた戦線を劇的に変えたと言っても過言ではない。東軍諸将は家康の幕下のつもりだったのだろうが、一転して秀頼を奉じた家康に与力する自覚を強くした。さらに、西軍に勝つというよりも、東軍の中で諸将が手柄を競う状況まで発生したのである。

俯瞰して見ると、家康が戦ったのは関ヶ原本戦だけである。それまでの前哨戦は全て東軍諸将及び濃尾の地元衆の活躍によるものである。村越のエピソードも含め、家康の武将の使い方が際立った結果でもある。

美濃の地図において岐阜城を中央とすれば、西には西軍主力が屯集する大垣城、東には尾張に入り込む形で犬山城がある。その岐阜城を中央突破した東軍は西の大垣城に肉迫する。

残る犬山城も援軍を出すことすらできず岐阜落城を見届けるしかなかった。その後、東軍の攻撃を受けると、稲葉貞通稲葉典通稲葉方通加藤貞泰関一政竹中重門ら西軍の援軍として籠城していた美濃衆が、こぞって東軍の井伊直政に内通を申し出た。孤立した城主 石川貞清はやむなく開城し、関ヶ原の本戦では宇喜多秀家隊の一翼を担った。

愛知県犬山市犬山北古巻 犬山城天守f:id:shinsaku1234t501:20170918001156j:image

豊臣家臣団 その8

「打倒三成」を合言葉に熱量を帯びた東軍に引き換え、密かに家康に通じる増田長盛・いきがかりで西軍に属すことになった島津義弘・家中分裂の後味が悪い宇喜多秀家・一族の意見統一が図られない毛利輝元、調略の手が深く入り込んだ小早川秀秋(のちの小早川秀詮)など、西軍には東軍の比にならないほどのマイナス要因が内蔵されていた。

もちろん、山城伏見城合戦以降、伊勢松坂城・丹後田辺城・伊勢安濃津城・近江大津城など前哨戦において軍勢が各地に分散するあまり、連絡の不徹底や準備が整わない状況があったことは否めない。とても、三成だけに責任転嫁はできない。

西軍としては当初、福島正則の居城 清洲城まで飲み込み、三河との国境を戦場とする策であったが、なにせ東軍は下野近辺から全くの無傷で進軍してきたこともあり意気揚々である。犬山城は確保できたものの、清洲城代 大崎長行が家中の意見を統一して籠城の構えを見せたことで尾張に橋頭堡を築くことができなかった西軍は、木曽川を挟んだ美濃で東軍を待ち受けるしかなかった。「関ヶ原の勝利は大崎宇右衛門(玄蕃允)が清洲城を丈夫に持った手柄にある」とは、家康がのちのちまで語った言葉である。

愛知県清須市清洲古城 清洲古城公園 清洲古城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20170718003932j:imageその昔、承久の乱において木曽川を挟んで迎撃した朝廷方が敗れた故事にもあるように、複数の隊が川の上流・中流下流のいたる所から同時渡河を敢行した場合、迎撃する側は戦線が伸びきって軍勢が細分化する対応を迫られる。「吾妻鏡」を愛読していた家康なら承久の乱の渡河戦に学んで、川を渡る側に利があることを知っていた可能性は十分にある。

8月14日、清洲城に集結した東軍諸将の中で福島正則・池田照政・山内一豊一柳直盛織田有楽斎・生駒一正・生駒宗直(のちの生駒利豊)小坂雄長兼松正吉森可政森可成の弟)などは、いずれも尾張出身者である。

愛知県江南市小折町八反畑 宝頂山墓地 手前の石廟が生駒利豊墓、奥の石廟が正室(遠山友政女)墓f:id:shinsaku1234t501:20170921092841j:image中でも生駒宗直の場合、美濃岐阜城織田秀信は従兄弟である信忠の子にあたる。当然、姻戚の縁を頼って岐阜城から西軍への同心要請が再三に亘ってあったが、それよりも先に清洲城福島正則会津上杉征伐に出陣する際に小折城に立ち寄り、きたるべき時の同心を約束した事実もあり、東軍同心の姿勢を貫いた。

また、森可政は木曽川に面した尾張葉栗郡の蓮台城出身であり、一柳直盛(尾張黒田城主)と兼松正吉(尾張島村城主)も木曽川にほど近い地を領していた。おのずと地の利がある。

愛知県一宮市木曽川町黒田字古城 黒田城址f:id:shinsaku1234t501:20170929203738j:imageその証拠に、いち早く8月16日に清洲城を出陣した東軍の別働隊(尾張赤目城の横井時泰・美濃松ノ木城の徳永寿昌・美濃今尾城の市橋長勝ら)は、大垣以西に分布する西軍と伊勢方面の遮断のために福束城・高須城などを攻略して、南濃方面を崩した。

もちろん、西軍にも美濃の小領主が多数いたが、東軍の尾張・美濃衆が別働隊として局地戦を巧みに展開したのに対し、西軍の美濃衆は後詰、もしくは与力のような形に置かれ、およそ活躍が見られなかったと言える。

後述するが、西軍が尾張はともかく木曽川から大垣、さらに関ヶ原と戦線を徐々に後退していった背景の一つとして、両軍の地元衆の動きにかなりの差があると考えられる。

豊臣家臣団 その7

また、三成は督戦という形で伏見城攻撃に姿を現しただけで、丹後田辺城・伊勢松坂城・同安濃津城・近江大津城などの攻城戦には関わっていない。そこには重要な共通点があるように思われる。

伏見城鳥居元忠はじめ家康家臣が相手であるが、他の城はいずれも豊臣恩顧が相手である。そのせいか、松坂城以外は降伏開城となったものの、城主を血祭りにはしていない。

三重県松阪市殿町 松坂城f:id:shinsaku1234t501:20170911120548j:image丹後田辺城の長岡藤孝は、東軍の長岡忠興の父である。籠城の末、勅命に従って開城し、西軍の前田茂勝前田玄以嫡男)に迎えられ、丹波亀山城に移った。

伊勢安濃津城の富田信高分部光嘉らは、高野山青巌寺の元住職 木食応其の仲介で開城勧告に応じたのち、高野山に蟄居した。

三重県津市丸之内 津城天守f:id:shinsaku1234t501:20170914130246j:image近江大津城の京極高次は、東軍の京極高知の兄である。当初は西軍であったが、東軍に寝返って籠城した。これも木食応其の仲介で開城勧告に応じたのち、高野山に蟄居した。

福島正則の居城 清洲城にしても、城明け渡しを要求しただけで軍勢すら向けていない。

徳川家の伏見城を力ずくで落城に追い込んで梟首までおこなったのに比べて、豊臣恩顧の城には明らかに寛大、いや腰の引けた対応である。特に京極高次の場合、西軍から東軍に寝返って籠城したこともあるので、処刑、もしくは切腹に値すると思うが、蟄居で赦されている。それもこれも、豊臣恩顧を敵に回したくない気持ちの表れなのか。

もちろん、攻城に直接関与していないので、三成の意思によるかどうかも定かではないが、開城の条件がしっかりと遵守された感はある。

よくよく考えると、東軍の武断派諸将が三成を襲撃するほど憎んでいたのに対し、三成は関ヶ原合戦終結まで不思議なほどに豊臣恩顧の武将を害していない。同じ豊臣家臣団としてどこかで寝返ってくれることを最後の最後まで期待していたのであろうか。

ともかくも、東軍との決戦を前に、これらの地方戦を長引かせるのは西軍としては得策ではない。降伏させることができれば御の字という部分はある。

しかし、歴史的結果として丹後田辺城の戦いでは小野木重次・前田茂勝ら、近江大津城の攻城戦では、毛利元康・立花宗茂筑紫広門らを釘付けにして関ヶ原への合流を許さなかった点において、西軍の勢力を削ぐに十分な効果があった。

京都府京都市左京区田中門前町 長徳山功徳院百萬遍知恩寺 鳥居元忠f:id:shinsaku1234t501:20170831011827j:image

豊臣家臣団 その6

そもそも、豊臣家の一奉行でしかなかった三成が、毛利家や島津家の上に立って西軍を指揮するカリスマにはなれるはずもない。彼は豊臣家の忠実な吏僚の立場で誰よりも家康を警戒するがゆえに手を組むことを許さなかっただけである。

本来、石田三成長束正家らは計数管理ができる有能な行政官吏であった。しかし、秀吉没後の混沌とした政治情勢に必要なのは計数ではない。

一方で、あの家康がおこなったのは往年の秀吉の立ち回り、すなわち「人たらし」である。秀吉没後から婚姻関係を結んだり、関ヶ原合戦終結まで夥しい数の書簡を送って微に入り細に入り、諸大名の心を掴む努力をしていたと言える。

のちの項で詳しく述べることになるが、家康の娘(養女を含む)と婚姻を結んだ大名からすれば、家康のほうから人質を差し出されたことを光栄とも、信頼されているとも受け取るだろう。また、自分自身、もしくは一族が家康から諱を賜ることも恐れ多いことである。関ヶ原前後の筆まめとも言うべき書簡の数も言うに及ばずである。

対して三成の誤算は、西軍の掲げた「内府ちかひの条々」という大義名分さえあれば、家康に従うつもりだった大名が翻意すると本気で思っていたことにあるのではないか。おそらく前項で紹介した大谷や左近の本音からすれば、秀頼の名義を得ていないこのスローガンにどれほどの説得力があるかなど推して知るべしだったと思われる。

ちなみに関ヶ原合戦大義名分は、会津上杉征伐からの流れである以上、東軍が一貫して秀頼の台命による軍勢である。西軍が「内府ちかひの条々」を発して家康を糾弾したとしても、それは秀頼の名義ではなく、増田・長束・前田玄以ら三奉行の連署でしかない。むしろ、秀頼の名義ではない勝手な言い分を押し立てて挙兵した西軍は、亡き秀吉の定めた惣無事令に違反して私戦に及んだことになる。家康からすれば、豊臣家の名の下、遠慮なく叩き潰せるとほくそ笑んだかもしれない。

しかし、東軍に奔った武断派諸将にとっては大義名分といった理屈よりも、三成らが許せないのである。家康の力を借りて三成ら文治派を排斥できれば豊臣家の安泰は図られると信じている。

さらには大義名分が十二分に威力を発揮するためには、計数ではなく、政治力と軍事力が備わっていなければならない。

滋賀県彦根市古沢町 弘徳山龍潭寺 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170726203352j:image三成にとっての仮想敵は家康でしかないが、当の家康は三成の正面に武断派の豊臣恩顧を当ててきたのである。さすがの三成も嫌われてはいるものの、同じ豊臣恩顧の福島正則浅野幸長らと矛を交えるにはいささかの躊躇がある。むしろ味方につけたい気持ちすらある。

その気持ちは、大名の妻子を人質に取ったことに如実に現れている。家康のように約定の証し・友好関係の保持を目的とした意味での婚姻や出仕という人質ではなく、東軍に属している諸将を西軍に寝返らせる手段としての強制収容を発したのである。

しかし、家族可愛さのあまり西軍に味方する者が現れるだろうという計算は見事なまでに外れ、むしろ東軍諸将の三成への憎悪が増しただけ逆効果であった。また、西軍は大義名分のためには人質という卑劣な手段を使うという矛盾とイメージの悪さを持たれてしまった。長岡忠興(のちの細川忠興正室ガラシャの死はその最たる例である。

大阪府大阪市中央区玉造2丁目 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシャf:id:shinsaku1234t501:20170726210034j:imageさきに大義名分について述べたが、家康が大義名分に必要な政治力を発揮して武断派という軍事力を手に入れたのに対し、三成は人質の強制収容に軍事力を発動したことで政治力の無さを露呈してしまったというのは、誠に皮肉と言える。 

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。

「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世の有様を見るに、石田の家を悪む人々、大かた徳川殿に心を寄せたり。當家の存亡計るべからず。一日の過ぐるも殘り多し。只理を非に曲げて、唯今まで疎遠の諸大將達へも遜りて、遺恨無く計ひて交り親しみ、暫く時を待つべきも一つの計策にてこそ

先に紹介した大谷吉継の三成評にも共通するが、三成は勇(決断力)が足りないばかりに大事な局面で空しき失策が多い。また、石田家を憎むほとんどの人々が、徳川家に心を寄せている。この際は、今まで疎遠になっている武断派ほか諸将にへりくだってでも誤解や遺恨を解消し、親しく交際することで時を待つのも一策、と献策したが、三成が受け入れるはずがない。

「常山紀談」は、関ヶ原合戦から170年を経た明和7年(1770)に完成した逸話集なので、当時の事実がどれほど反映されているかは、もちろん懐疑的である。
また、大谷が友人関係ゆえに三成に忌憚の無い意見をするのは大いにあり得ることだが、嶋左近が敵方の柳生宗矩に主君三成への批判を詳細に話すというのはいかがなものか。

しかしながら、話のシチュエーションはさておき、盟友である大谷、股肱の臣である左近、二人が三成に抱く不安がほぼ共通しているというのは注目に値する。彼らが奇しくも家康の声望を十二分に理解しながら、危うき三成に殉じたからこそ、その壮絶な戦死に後世の我々は魅了されるのであろう。さしもの足利尊氏という敵を理解しながらも立ち向かった楠木正成に似た心境であろうか。

結果、豊臣家第一主義者である三成は秀頼に殉じたつもりだろうが、現実的なビジョンを持っていたこの二人はその三成に殉じたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 笹尾山 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170929204012j:imageまた、増田長盛にしても西軍に属して大坂城に留まりながら、家康に上方の情勢を密書で送るなど、密かに誼を通じていた。

ところで、関ヶ原で西軍が勝利していたら、三成はどのような世を創るつもりだったのか。その政治構想を伝える書は見つかっていない。「大一大万大吉」の旗印に象徴される万民の平和を請い願う人物なのだろうか。近江佐和山の領民には慕われていたと思うが、地元民に支援されるのは、こんにちの政治家とて同じである。その程度で名君と断じることはできない。

まず言えることは、関ヶ原前後の諸将との関係性を見ても、彼は徹頭徹尾たる豊臣家第一主義者でしかない。仮に徳川家が滅びても、豊臣家に対する次の仮想敵を想定して政争を始める雰囲気を受ける。

そもそも、彼の理想が多くの人々に受容されるものならば、紹介したような「常山紀談」のエピソードはありえないし、もう少し賛同者がいてもいいはずである。

嶋左近の献策通り、馬が合わない武断派と相互理解を深めることで豊臣恩顧の分裂を防ぎ、家康との戦いを回避して秀頼の成長を見守るという臣下の道もあったはずである。その深謀遠慮をせず決戦に及んだということは、彼にはそれ以上のビジョンが無かった、もしくは見えていなかったと言われても仕方がない。

某所 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20200424193115j:image

豊臣家臣団 その4

「総ての堀を埋めて裸城にすれば、大坂城は落城する」と、生前の秀吉が家康ら諸大名に語った逸話がある。確かに、後年その通りになるのだが、まるで自分の死後、誰も大坂城を落城に追い込むとは思っていなかったような言い回しである。もはや天下が覆るはずはないと楽観していたのか、総堀を埋めるなどできるはずはないとタカをくくっていたのか、はたまた家康ら諸大名に全幅の信頼を寄せていたのか。

京都府京都市東山区今熊野北日吉町 豊国廟 豊臣秀吉f:id:shinsaku1234t501:20201201202745j:image一方で、自分が信長亡き後の織田家をどのように扱ってきたのかを考えるべきであった。力ある者が主家をも凌ぐのは戦国時代の習いである。次世代豊臣家を脅かす下剋上の危険性を見据えた警戒感は抱くべきであったし、常に体制の強化を図るべきであった。

ところが、晩年の秀吉は自らの手足をもぐかのように古参家臣を粛清、もしくは遠ざけた。さらに、秀長・秀次・秀勝など主要な一門衆も先に逝った。こういった経緯から豊臣家が一門衆や譜代家臣のみで運営することすらできなくなったのは、明確に秀吉自身に起因する。

こうして、晩年の秀吉が家臣団分裂の芽を放置した結果、案の定、家康の家政介入を許す形となり、文治派を無視するかのように秀吉の遺命に反する。もう一方で、不満を募らせる武断派には理解を示しながら婚姻を持ちかけるなどして縁戚関係を構築していく。
諸将とて家康を「正義」とまでは思わないにしても、その強大な権力の傘の下で秀頼の豊臣家が存続していくのが現実策だと思うようになり、反面、三成ら文治派は排除すべき「君側の奸」として憎悪の対象になっていく。

もちろん、三成の豊臣家への忠義は疑うべくもないが、あまりにも限定的、且つ排他的であり過ぎた。周囲にいた大谷吉継増田長盛でさえ、どこか危ういと思うほどに狭い忠義と言わざるを得ない。

滋賀県彦根市古沢町 佐和山城f:id:shinsaku1234t501:20201201203334j:image「常山紀談」に、大谷が三成に直接語ったとされる言葉が紹介されている。

「世の人石田殿をば無礼なりとて、末々に至てもこころよからずいいあえり。江戸の内府は只今日本一の貴人なれども、卑賤の者に至るまで礼法あつく仁愛深し。人のなつき従う事大方ならず、是一つ。次に大事は智勇の二ツならではとげ得がたし。石田殿は智有りて勇足らざるかと存候。今度毛利、浮田も皆かりに同意したる人々なり。必ずしも頼みとすべきにあらず」  

盟友の大谷が「下々の民に至るまで三成を快く思っていないと言い合っている」と、ずいぶんストレートにその人望の無さをぶつける一方で、家康の声望甚だしきを語っている。

その証拠は関ヶ原合戦における東軍参加武将の顔ぶれにも見てとれる。三成を嫌う清正や福島をはじめ武断派諸将が家康に味方するのはやむを得ないとしても、秀吉の御伽衆として大坂城に常駐していた織田有楽斎、家康暗殺計画の嫌疑で流罪となっていた浅野長政大野治長、いずれも三中老の嫡男で堀尾忠氏中村一忠生駒一正、すでに徳川家臣となっていた可能性がある平野長泰などである。これらの人物にも豊臣恩顧としての忠義は当然あったとは思われるが、少なくとも三成に共鳴しなかったからこその東軍参戦なのである。 

豊臣家臣団 その3

長年、羽柴家の外交面を主に務めた蜂須賀家は正勝没後、嫡男家政の代になると阿波徳島の一大名となり、軍師の黒田孝高も豊後中津の一大名に収まり、さらに名補佐役として名高い大納言秀長が病没、前野長康木村重茲明石則実渡瀬繁詮らに至っては秀次事件で処罰されてしまった。自然、家臣団の世代交代が図られた。

京都府京都市中京区木屋町三条下ル石屋町舟山瑞泉寺 豊臣秀次f:id:shinsaku1234t501:20170629203332j:image秀吉の縁者である加藤清正福島正則武断派でさえ、単に地方の一大名に収まった。

一方、豊臣家は浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家前田玄以ら文治派寄りと位置づけられる五奉行生駒親正堀尾吉晴中村一氏ら三中老に委ねられた。しかし、この人事は秀頼を盛り立てるべき次世代豊臣家の一枚岩とは逆行したものであり、そこに透けて見える分裂構造を的確に捉えた家康の付け入る隙と化した。

愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷 正悦山妙行寺 加藤清正f:id:shinsaku1234t501:20170801002000j:image本来、徳川家にも本多忠勝榊原康政のような武断派本多正信に代表される官僚派の対立構図はあったが、家康は巧みにそのバランスを利用したと言える。

しかし、秀吉は武断派を重用せず、文治派にのみ比重を置いた。なるほど国内が統一されたのであれば、吏僚中心の人事を考えるのは当然の論理である。問題は、秀吉が文禄・慶長初期の段階で二度と戦乱が発生しない泰平の世と解釈したことにある。

さらなる重大な失敗は、豊臣家譜代の五奉行・三中老の上に、「五大老」という有力外様大名を祀り上げたことである。これによって五大老から見れば、石高の低い五奉行・三中老は単なる小役人程度の扱いとなり、秀吉の遺言に反した家康に抗議をしてもまともに相手にもされない。また、関ヶ原合戦において三成の指揮下で動くことを快く思わなかった毛利家や島津家の対応の一部にはこういった家格の問題もあったと思われる。

もっとも、五奉行・三中老・五大老という職制の存在については、未だ判然としないことを申し添える。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 島津義弘陣所址碑f:id:shinsaku1234t501:20191023024426j:image結果論になるが、江戸幕府における徳川家は「公儀」と称された通り、家そのものが政府(公)という機能を有するまでに至った。また、将軍の独裁体制を内から補佐するのが譜代大名であったことが安定基盤だったとも言える。すなわち、外様大名は「敬して遠ざける」が鉄則であった。幕末、この鉄則が破られたことにより、朝廷を擁した雄藩の勢力増大に反比例した幕府の権威失墜を歴史が証明している。

一方、豊臣家は天下を取ったとはいえ、秀吉一代のカリスマという私人の家柄でしかなかった。彼の没後、秀頼をして社稷を保とうとする三成ら直臣に加え、次は徳川か、前田か、という憶測が流れる中で外様大名が関与したことは、かえって豊臣家の家中や政事に混乱をきたす結果となった。