侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

豊臣家臣団 その6

そもそも、豊臣家の一奉行でしかなかった三成が、毛利家や島津家の上に立って西軍を指揮するカリスマにはなれるはずもない。彼は豊臣家の忠実な吏僚の立場で誰よりも家康を警戒するがゆえに手を組むことを許さなかっただけである。

本来、石田三成長束正家らは計数管理ができる有能な行政官吏であった。しかし、秀吉没後の混沌とした政治情勢に必要なのは計数ではない。

一方で、あの家康がおこなったのは往年の秀吉の立ち回り、すなわち「人たらし」である。秀吉没後から婚姻関係を結んだり、関ヶ原合戦終結まで夥しい数の書簡を送って微に入り細に入り、諸大名の心を掴む努力をしていたと言える。

のちの項で詳しく述べることになるが、家康の娘(養女を含む)と婚姻を結んだ大名からすれば、家康のほうから人質を差し出されたことを光栄とも、信頼されているとも受け取るだろう。また、自分自身、もしくは一族が家康から諱を賜ることも恐れ多いことである。関ヶ原前後の筆まめとも言うべき書簡の数も言うに及ばずである。

対して三成の誤算は、西軍の掲げた「内府ちかひの条々」という大義名分さえあれば、家康に従うつもりだった大名が翻意すると本気で思っていたことにあるのではないか。おそらく前項で紹介した大谷や左近の本音からすれば、秀頼の名義を得ていないこのスローガンにどれほどの説得力があるかなど推して知るべしだったと思われる。

ちなみに関ヶ原合戦大義名分は、会津上杉征伐からの流れである以上、東軍が一貫して秀頼の台命による軍勢である。西軍が「内府ちかひの条々」を発して家康を糾弾したとしても、それは秀頼の名義ではなく、増田・長束・前田玄以ら三奉行の連署でしかない。むしろ、秀頼の名義ではない勝手な言い分を押し立てて挙兵した西軍は、亡き秀吉の定めた惣無事令に違反して私戦に及んだことになる。家康からすれば、豊臣家の名の下、遠慮なく叩き潰せるとほくそ笑んだかもしれない。

しかし、東軍に奔った武断派諸将にとっては大義名分といった理屈よりも、三成らが許せないのである。家康の力を借りて三成ら文治派を排斥できれば豊臣家の安泰は図られると信じている。

さらには大義名分が十二分に威力を発揮するためには、計数ではなく、政治力と軍事力が備わっていなければならない。

滋賀県彦根市古沢町 弘徳山龍潭寺 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170726203352j:image三成にとっての仮想敵は家康でしかないが、当の家康は三成の正面に武断派の豊臣恩顧を当ててきたのである。さすがの三成も嫌われてはいるものの、同じ豊臣恩顧の福島正則浅野幸長らと矛を交えるにはいささかの躊躇がある。むしろ味方につけたい気持ちすらある。

その気持ちは、大名の妻子を人質に取ったことに如実に現れている。家康のように約定の証し・友好関係の保持を目的とした意味での婚姻や出仕という人質ではなく、東軍に属している諸将を西軍に寝返らせる手段としての強制収容を発したのである。

しかし、家族可愛さのあまり西軍に味方する者が現れるだろうという計算は見事なまでに外れ、むしろ東軍諸将の三成への憎悪が増しただけ逆効果であった。また、西軍は大義名分のためには人質という卑劣な手段を使うという矛盾とイメージの悪さを持たれてしまった。長岡忠興(のちの細川忠興正室ガラシャの死はその最たる例である。

大阪府大阪市中央区玉造2丁目 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシャf:id:shinsaku1234t501:20170726210034j:imageさきに大義名分について述べたが、家康が大義名分に必要な政治力を発揮して武断派という軍事力を手に入れたのに対し、三成は人質の強制収容に軍事力を発動したことで政治力の無さを露呈してしまったというのは、誠に皮肉と言える。 

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。

「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世の有様を見るに、石田の家を悪む人々、大かた徳川殿に心を寄せたり。當家の存亡計るべからず。一日の過ぐるも殘り多し。只理を非に曲げて、唯今まで疎遠の諸大將達へも遜りて、遺恨無く計ひて交り親しみ、暫く時を待つべきも一つの計策にてこそ

先に紹介した大谷吉継の三成評にも共通するが、三成は勇(決断力)が足りないばかりに大事な局面で空しき失策が多い。また、石田家を憎むほとんどの人々が、徳川家に心を寄せている。この際は、今まで疎遠になっている武断派ほか諸将にへりくだってでも誤解や遺恨を解消し、親しく交際することで時を待つのも一策、と献策したが、三成が受け入れるはずがない。

「常山紀談」は、関ヶ原合戦から170年を経た明和7年(1770)に完成した逸話集なので、当時の事実がどれほど反映されているかは、もちろん懐疑的である。
また、大谷が友人関係ゆえに三成に忌憚の無い意見をするのは大いにあり得ることだが、嶋左近が敵方の柳生宗矩に主君三成への批判を詳細に話すというのはいかがなものか。

しかしながら、話のシチュエーションはさておき、盟友である大谷、股肱の臣である左近、二人が三成に抱く不安がほぼ共通しているというのは注目に値する。彼らが奇しくも家康の声望を十二分に理解しながら、危うき三成に殉じたからこそ、その壮絶な戦死に後世の我々は魅了されるのであろう。さしもの足利尊氏という敵を理解しながらも立ち向かった楠木正成に似た心境であろうか。

結果、豊臣家第一主義者である三成は秀頼に殉じたつもりだろうが、現実的なビジョンを持っていたこの二人はその三成に殉じたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 笹尾山 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170929204012j:imageまた、増田長盛にしても西軍に属して大坂城に留まりながら、家康に上方の情勢を密書で送るなど、密かに誼を通じていた。

ところで、関ヶ原で西軍が勝利していたら、三成はどのような世を創るつもりだったのか。その政治構想を伝える書は見つかっていない。「大一大万大吉」の旗印に象徴される万民の平和を請い願う人物なのだろうか。近江佐和山の領民には慕われていたと思うが、地元民に支援されるのは、こんにちの政治家とて同じである。その程度で名君と断じることはできない。

まず言えることは、関ヶ原前後の諸将との関係性を見ても、彼は徹頭徹尾たる豊臣家第一主義者でしかない。仮に徳川家が滅びても、豊臣家に対する次の仮想敵を想定して政争を始める雰囲気を受ける。

そもそも、彼の理想が多くの人々に受容されるものならば、紹介したような「常山紀談」のエピソードはありえないし、もう少し賛同者がいてもいいはずである。

嶋左近の献策通り、馬が合わない武断派と相互理解を深めることで豊臣恩顧の分裂を防ぎ、家康との戦いを回避して秀頼の成長を見守るという臣下の道もあったはずである。その深謀遠慮をせず決戦に及んだということは、彼にはそれ以上のビジョンが無かった、もしくは見えていなかったと言われても仕方がない。

某所 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20200424193115j:image

豊臣家臣団 その4

「総ての堀を埋めて裸城にすれば、大坂城は落城する」と、生前の秀吉が家康ら諸大名に語った逸話がある。確かに、後年その通りになるのだが、まるで自分の死後、誰も大坂城を落城に追い込むとは思っていなかったような言い回しである。もはや天下が覆るはずはないと楽観していたのか、総堀を埋めるなどできるはずはないとタカをくくっていたのか、はたまた家康ら諸大名に全幅の信頼を寄せていたのか。

京都府京都市東山区今熊野北日吉町 豊国廟 豊臣秀吉f:id:shinsaku1234t501:20201201202745j:image一方で、自分が信長亡き後の織田家をどのように扱ってきたのかを考えるべきであった。力ある者が主家をも凌ぐのは戦国時代の習いである。次世代豊臣家を脅かす下剋上の危険性を見据えた警戒感は抱くべきであったし、常に体制の強化を図るべきであった。

ところが、晩年の秀吉は自らの手足をもぐかのように古参家臣を粛清、もしくは遠ざけた。さらに、秀長・秀次・秀勝など主要な一門衆も先に逝った。こういった経緯から豊臣家が一門衆や譜代家臣のみで運営することすらできなくなったのは、明確に秀吉自身に起因する。

こうして、晩年の秀吉が家臣団分裂の芽を放置した結果、案の定、家康の家政介入を許す形となり、文治派を無視するかのように秀吉の遺命に反する。もう一方で、不満を募らせる武断派には理解を示しながら婚姻を持ちかけるなどして縁戚関係を構築していく。
諸将とて家康を「正義」とまでは思わないにしても、その強大な権力の傘の下で秀頼の豊臣家が存続していくのが現実策だと思うようになり、反面、三成ら文治派は排除すべき「君側の奸」として憎悪の対象になっていく。

もちろん、三成の豊臣家への忠義は疑うべくもないが、あまりにも限定的、且つ排他的であり過ぎた。周囲にいた大谷吉継増田長盛でさえ、どこか危ういと思うほどに狭い忠義と言わざるを得ない。

滋賀県彦根市古沢町 佐和山城f:id:shinsaku1234t501:20201201203334j:image「常山紀談」に、大谷が三成に直接語ったとされる言葉が紹介されている。

「世の人石田殿をば無礼なりとて、末々に至てもこころよからずいいあえり。江戸の内府は只今日本一の貴人なれども、卑賤の者に至るまで礼法あつく仁愛深し。人のなつき従う事大方ならず、是一つ。次に大事は智勇の二ツならではとげ得がたし。石田殿は智有りて勇足らざるかと存候。今度毛利、浮田も皆かりに同意したる人々なり。必ずしも頼みとすべきにあらず」  

盟友の大谷が「下々の民に至るまで三成を快く思っていないと言い合っている」と、ずいぶんストレートにその人望の無さをぶつける一方で、家康の声望甚だしきを語っている。

その証拠は関ヶ原合戦における東軍参加武将の顔ぶれにも見てとれる。三成を嫌う清正や福島をはじめ武断派諸将が家康に味方するのはやむを得ないとしても、秀吉の御伽衆として大坂城に常駐していた織田有楽斎、家康暗殺計画の嫌疑で流罪となっていた浅野長政大野治長、いずれも三中老の嫡男で堀尾忠氏中村一忠生駒一正、すでに徳川家臣となっていた可能性がある平野長泰などである。これらの人物にも豊臣恩顧としての忠義は当然あったとは思われるが、少なくとも三成に共鳴しなかったからこその東軍参戦なのである。 

豊臣家臣団 その3

長年、羽柴家の外交面を主に務めた蜂須賀家は正勝没後、嫡男家政の代になると阿波徳島の一大名となり、軍師の黒田孝高も豊後中津の一大名に収まり、さらに名補佐役として名高い大納言秀長が病没、前野長康木村重茲明石則実渡瀬繁詮らに至っては秀次事件で処罰されてしまった。自然、家臣団の世代交代が図られた。

京都府京都市中京区木屋町三条下ル石屋町舟山瑞泉寺 豊臣秀次f:id:shinsaku1234t501:20170629203332j:image秀吉の縁者である加藤清正福島正則武断派でさえ、単に地方の一大名に収まった。

一方、豊臣家は浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家前田玄以ら文治派寄りと位置づけられる五奉行生駒親正堀尾吉晴中村一氏ら三中老に委ねられた。しかし、この人事は秀頼を盛り立てるべき次世代豊臣家の一枚岩とは逆行したものであり、そこに透けて見える分裂構造を的確に捉えた家康の付け入る隙と化した。

愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷 正悦山妙行寺 加藤清正f:id:shinsaku1234t501:20170801002000j:image本来、徳川家にも本多忠勝榊原康政のような武断派本多正信に代表される官僚派の対立構図はあったが、家康は巧みにそのバランスを利用したと言える。

しかし、秀吉は武断派を重用せず、文治派にのみ比重を置いた。なるほど国内が統一されたのであれば、吏僚中心の人事を考えるのは当然の論理である。問題は、秀吉が文禄・慶長初期の段階で二度と戦乱が発生しない泰平の世と解釈したことにある。

さらなる重大な失敗は、豊臣家譜代の五奉行・三中老の上に、「五大老」という有力外様大名を祀り上げたことである。これによって五大老から見れば、石高の低い五奉行・三中老は単なる小役人程度の扱いとなり、秀吉の遺言に反した家康に抗議をしてもまともに相手にもされない。また、関ヶ原合戦において三成の指揮下で動くことを快く思わなかった毛利家や島津家の対応の一部にはこういった家格の問題もあったと思われる。

もっとも、五奉行・三中老・五大老という職制の存在については、未だ判然としないことを申し添える。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 島津義弘陣所址碑f:id:shinsaku1234t501:20191023024426j:image結果論になるが、江戸幕府における徳川家は「公儀」と称された通り、家そのものが政府(公)という機能を有するまでに至った。また、将軍の独裁体制を内から補佐するのが譜代大名であったことが安定基盤だったとも言える。すなわち、外様大名は「敬して遠ざける」が鉄則であった。幕末、この鉄則が破られたことにより、朝廷を擁した雄藩の勢力増大に反比例した幕府の権威失墜を歴史が証明している。

一方、豊臣家は天下を取ったとはいえ、秀吉一代のカリスマという私人の家柄でしかなかった。彼の没後、秀頼をして社稷を保とうとする三成ら直臣に加え、次は徳川か、前田か、という憶測が流れる中で外様大名が関与したことは、かえって豊臣家の家中や政事に混乱をきたす結果となった。

豊臣家臣団 その2

さらに、積極的に仕掛けていった引き抜きや改易した大名家旧臣の直臣化により、下記の家臣を得た。

斎藤龍興旧臣】加藤光泰

明智光秀旧臣】木村吉清平塚為広

【柴田勝豊旧臣】小川祐忠

丹羽長秀旧臣】長束正家桑山重晴太田牛一戸田勝成上田重安太田一吉

 愛知県稲沢市長束町沙弥 長束正家邸址f:id:shinsaku1234t501:20170606172328j:image【豊臣秀保旧臣】藤堂高虎宇多頼忠小堀政一杉若無心本多俊政横浜一庵寺田光吉桑山元晴

北条氏直旧臣】板部岡江雪斎(のちの岡野融成)

織田信雄家臣】前田玄以土方雄久滝川雄利

【渡瀬繁詮旧臣】有馬則頼有馬豊氏

宇喜多直家家臣】小西行長

徳川家康家臣】石川数正松下之綱奥平貞治(奥平信昌家臣)

静岡県浜松市南区頭陀寺町 頭陀寺第一公園 頭陀寺城址松下之綱邸跡)f:id:shinsaku1234t501:20220117020327j:plain大友宗麟家臣】立花宗茂

龍造寺政家家臣】鍋島直茂

堀秀政家臣】山中長俊

また、上杉景勝家臣の直江兼続、長岡忠興家臣の松井康之、伊達政宗家臣の片倉景綱などにも直臣に取り立てる引き抜きのような話があったのは、つとに有名である。

毛利家の安国寺恵瓊にしても、秀吉から石高を賜ったと伝わる点においては微妙な立場である。

京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町 東山建仁寺 安国寺恵瓊首塚f:id:shinsaku1234t501:20170712194303j:imageまた、徳川家康の家臣に対しては、かなり露骨であった。本多忠勝には「秀吉の恩と家康の恩のどちらが重いか」と謎かけをしてみたり、井伊直政榊原康政・高力清長・大久保忠隣・奥平家昌・内藤清成・松平康重・三浦重成・永井直勝・阿部正勝・徳川秀忠らには豊臣姓を下賜、村越直吉にも引き抜きを仕掛け、隠居後の酒井忠次には京都桜井の屋敷と隠居料千石を与えている。

もっとも、重臣を引き抜くという露骨な方法で、他家の弱体化を図ったのかどうかは定かではない。しかし、無邪気に、もしくは悪気なく単純に他家の家臣を欲しがったにしても、相手の大名家にとっては内心迷惑な話であろう。

こうして考えると、秀吉が魅力ある他家の家臣をコレクションしようとしたのは、生まれつきの譜代家臣を持たないコンプレックスの裏返しだったのかもしれない。f:id:shinsaku1234t501:20240423190854p:image

豊臣家臣団 その1

織田信長徳川家康はもちろんのこと、ほとんどの戦国武将には代々仕える譜代家臣が存在した。平時には主家の家政に従事し、戦時には参陣して身を以って忠誠を尽くす存在である。ただ、出自明らかではない木下藤吉郎には当然、生まれもっての家臣はいない。信長に武家奉公したのち、その命令によって附けられた与力を得ることで初めて家臣団が形成されていったのである。

例えば、ごく初期の家臣である蜂須賀正勝前野長康稲田稙元といった川並衆は、信長の家臣という立場からその命によって秀吉の与力となった。

愛知県江南市前野町西 前野家屋敷址f:id:shinsaku1234t501:20170606212139j:imageまた、秀吉の縁戚である浅野長勝・婿養子の長吉(のちの浅野長政は信長の譜代家臣の家柄であり、竹中重治山内一豊堀尾吉晴一柳直高仙石秀久神子田正治脇坂安治なども信長への直仕を経ての秀吉家臣である。

愛知県岩倉市下本町下市場地内 神明生田神社 山内一豊公誕生地碑 f:id:shinsaku1234t501:20170612234834j:imageこうして、本人の好む好まざるとに関わらず信長の命令によって与力となった家臣団を主軸とする一方で、弟の小一郎長秀(のちの豊臣秀長杉原家利木下家定青木重矩小出秀政などの一門衆が加わることになり、加藤清正福島正則宮部吉継(のちの豊臣秀次三好小吉(のちの豊臣秀勝など次世代の成長によってさらに層が厚くなっていく。

一方で、秀吉の長浜城主時代に仕官した、いわゆる近江衆が台頭してくる。石田三成片桐且元大谷吉継(のちの大谷吉隆)宮田光次増田長盛加藤嘉明戸田勝隆などが代表格であるが、実は増田長盛尾張出身者との説もあり、加藤嘉明三河出身で父とともに徳川家康の元を出奔した浪人である。

愛知県西尾市上永良町 神明社 加藤嘉明生誕地碑f:id:shinsaku1234t501:20170606170757j:imageちなみに、「老人雑話」によれば「武勇第一の人あり」と評された宮田光次は播磨で戦死するのだが、彼の死後、竹中重治が酒席において「宮田没後、羽柴軍の戦闘力が低下した」と呟いたところ、秀吉も頷いたという逸話がある。

この他に、有馬則頼黒田孝高宇喜多直家をはじめとする戦地での現地仕官者が増える。

小牧長久手戦跡 宮後城 後編(愛知県江南市)

江南市前飛保寺町 日輪山曼荼羅寺 蜂須賀家政公顕彰碑f:id:shinsaku1234t501:20201011035924j:image幼少期の家政が市内にある曼荼羅寺塔頭 梅養軒(現 本誓院)で昌運上人を師と仰いで学問修業をおこなった縁、また寛永9年(1632)に御所紫宸殿を模して曼陀羅寺正堂(本堂)を再建したこともあり、写真のような顕彰碑が建立されている。ちなみに、本誓院には家政の使用した文机や位牌が残されている。

江南市前飛保寺町 本誓院 本誓院由緒沿革碑f:id:shinsaku1234t501:20170610035222j:image蜂須賀正勝・家政父子が羽柴秀吉の家臣として転戦していた時期の宮後城の詳細は分からないが、天正12年(1584)の小牧合戦において修築された。但し、羽柴軍の拠点なのか、織田・徳川軍なのか、諸説あって判然としない。和睦成立後に破却されたという。

また、宮後城の外郭にあたる地に宮後八幡社が鎮座する。本丸としての宮後城に対して、出城の役割を期したものであり、写真の通り野面積みの石垣で囲われている。

 江南市宮後町八幡 宮後八幡社石垣f:id:shinsaku1234t501:20170628191403j:image但し、この八幡社の創建時期については疑義がある。

天正15年(1587)に創建され、寛永元年(1624)、蜂須賀家政によって再建されたとする説が散見されるが、「武功夜話」には正勝が居城していた永禄年間(1558〜1570)には、すでに宮後城主 安井氏が勧請して三輪若狭(蜂須賀正勝正室大匠院まつの兄)が関与していた八幡社があったとしている。

余談だが、大匠院の父親を三輪吉高とするならば、確かに宮後八幡社の社家と伝わり、若狭に相当する人物は吉英と推定できる。しかし、その一方で大匠院の父親を正勝家臣の益田持正とする説もある。戸部新十郎の小説「蜂須賀小六」(光文社時代小説文庫)は、真清田(益田)持正説を採用している。

江南市宮後町八幡 宮後八幡社f:id:shinsaku1234t501:20170628191444j:imageまた、天正15年創建説を採用した場合、小牧合戦終結後に宮後城が取り壊されているにも関わらず、その3年後に八幡社が出城機能を有して築かれたという辻褄の合わない話になる。(完)f:id:shinsaku1234t501:20240225035827p:image