侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

赤坂見附(東京都千代田区)

東京都千代田区紀尾井町

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170515000722j:image寛永13年(1636)、62の大名家に石垣、58の大名家に堀を担当させる形で飯田橋・四谷・赤坂・溜池の江戸城外堀普請がおこなわれた。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170515000927j:image寛永9年(1632)、栗山利章の訴えに端を発した筑前黒田騒動で改易を免れた黒田忠之としては、この天下普請は幕府に忠誠を示す絶好の機会となったのかもしれない。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170515001043j:imageこうして黒田家が築いた桝形石垣の上に、加藤正直・小川安則ら普請奉行が赤坂御門を完成させたのは寛永16年(1639)。

赤坂見附周辺の江戸城外堀(弁慶堀)f:id:shinsaku1234t501:20170515001210j:imageなお、明治5年(1872)に門が撤去された。

また、赤坂見附御門石垣から国道246号沿いに外堀(弁慶堀)に沿って歩き、弁慶橋を渡ってすぐの場所に紀伊和歌山藩邸址碑がある。ここからが紀尾井町となる。

紀伊和歌山藩邸址碑f:id:shinsaku1234t501:20170515001557j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223020129p:image

野口館址(岐阜県各務原市)

岐阜県各務原市蘇原野口町 安積家(個人宅)

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170622151535j:imageとにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。

野口館址空堀f:id:shinsaku1234t501:20170622151558j:image一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170622151621j:imageさらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の高麗門が明治9年(1876)に払い下げされたことである。

安積家の門として使用されていた頃の大垣城鉄門f:id:shinsaku1234t501:20170622151647j:image長きにわたり加納城の移築門とされていたが、平成21年(2009)にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政4年(1857)の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の本丸表門と判明した。

大垣城鉄門を撤去した現在の虎口石垣左側f:id:shinsaku1234t501:20170622151722j:image大垣城鉄門を撤去した現在の虎口石垣右側f:id:shinsaku1234t501:20170622151751j:imageなお、中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施された。

岐阜県各務原市鵜沼西町1丁目 中山道鵜沼宿町屋館に移築された現在の大垣城鉄門f:id:shinsaku1234t501:20190805211021j:imageちなみに門扉や柱部分を鉄で覆った高麗門で現存するのは、名古屋城表二之門・大阪城大手門とこの大垣城鉄門だけである。f:id:shinsaku1234t501:20240223020036p:image

前林城(千葉県成田市)

千葉県成田市前林字城山

妙見神社までの道筋には民家も点在するが、周辺の道はかなり狭い。
妙見神社の鳥居が目印となり、その鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。

道沿いに残る土塁f:id:shinsaku1234t501:20170313232457j:image堀址f:id:shinsaku1234t501:20170515002349j:image
また、妙見神社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。f:id:shinsaku1234t501:20240223015924p:image

好き・嫌いの先の歴史観

歴史談義をする時に必ずつきまとう人物の好きと嫌い。人間、いちいちの事象に好き嫌いの感情があるのは仕方ないが、歴史を語る上でこれほど話の腰を折る面倒なものはない。

「家康が嫌い!」という言葉をよく聞く。それを聞くたびに「バカバカしい」と内心、呆れてしまう。確かに、同時代人の中で家康は嫌われる要素を多く有している。

1、成功者だから嫌い。

2、豊臣家をこれでもか!と滅ぼした。

3、信長や秀吉と比べて陰気で策謀家。

4、信長や秀吉の後ろにいて、努力もせずに天下を簒奪した卑怯者。

5、世界との交易を閉ざして内向的な江戸社会を創った。

6、司馬遼太郎作品の影響。

7、明治時代の徳川否定史観

8、関西以西に多い徳川への対抗心

こんなところだろうか・・・いずれにしても論破できる程度の話である。私はこの手の話になると、よく言う。

「家康が嫌いということは、あなたの歴史は安土桃山時代の次は、いきなり明治ですよね(笑)」

 いや、もっと言えば楠木正成がもてはやされ、足利尊氏が逆賊設定になった戦前史観と同じ不気味さを感じるのである。本来は、天皇を奉じた楠木には忠義があり、武士の不平不満を抱え込んだ尊氏には情勢不安や社会構造の現実と矛盾がある、と考察するのが歴史である。

時代転じて、薩長が正義で、幕府側は悪(その逆も然り)というのも学問上においては、もう少し相互の置かれた立場を理解すべきであろう。しかし、私自身の実体験として、会津では今でも幕末が人間関係の分水嶺になっている例もあるので、迂闊なことを言えない部分もある。

好き嫌いが先行すれば、それはもはや歴史ではなく、マンガである。司馬遼太郎は、確かに徳川家康乃木希典に対する辛辣な印象を著作に色濃く残した。しかし、彼の作品を読むことでその影響を何の疑いもなく受け取るならば、それは司馬遼太郎の史観や著作をさも持論のように語っているにすぎない。

かの武田鉄矢氏は言う。「オレは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のことなら誰よりも知っている」

なるほど彼が得意なのは、史実としての龍馬ではなく、フィクション込みの「竜馬がゆく」の竜馬である。だから、彼は熱が入り過ぎて「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画や「お〜い!竜馬」という漫画を生み出した。

ところが、そんな武田鉄矢氏に司馬遼太郎は言い放った。「いつまでも竜馬、竜馬ではない!」

この言葉の意味するところを理解できたから、武田氏にはその後の役者としての活躍があったのだろう、と私は思う。

私も司馬遼太郎という小説家を敬愛してやまないが、彼の作品についてはさまざまな小説の中の一つの選択肢程度に読むことをオススメする。 

俗に司馬史観と呼ばれる彼の史観が悪いのではなく、彼の世界観に引き込まれるあまり、自身で思考することなく、それを歴史そのものと勘違いすることが問題なのである。f:id:shinsaku1234t501:20240223015830p:image

万喜城(千葉県いすみ市)

千葉県いすみ市万木字城山 万木城跡公園

万喜城遠望f:id:shinsaku1234t501:20170310162307j:image山麓にある機岳山海雄寺(左が土岐為頼墓、右が万木土岐家代々供養塔)f:id:shinsaku1234t501:20170310153613j:image万木土岐氏系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説を紹介する。海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年(1492)没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年(1583)没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年となる。親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年(1580)没とある。やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明である。よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

万喜城展望台f:id:shinsaku1234t501:20170310153533j:image余談だが、為頼の嫡子、三代城主の頼春の頃にあたる天正17年(1589)11月、里見軍の大多喜城主、正木時茂が包囲した際、土岐軍の騎馬隊長として20名程度を率いた御子神典膳(のちの小野忠明)が互角に渡り合った。後日、その武勇を聞きつけた一刀流の開祖、伊東一刀斎が万喜城下に出向き、典膳と立ち合う。敗れた典膳は一刀斎に師事し、のち一刀流の後継者として小野派一刀流開祖となり、徳川秀忠の剣術指南役となるのは有名な話である。

千葉県成田市寺台 保目山永興寺墓地 小野忠明f:id:shinsaku1234t501:20170310172136j:image話を戻すが、天正17年(1589)、庁南城の武田豊信・安房の里見義頼、大多喜の正木時茂などを相次いで撃退してきた万喜城も、翌年の小田原征伐の一環として来襲した本多忠勝に攻略され落城となる。三代城主、頼春の消息は不明である。翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

万喜城主郭の土塁f:id:shinsaku1234t501:20170310153708j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014747p:image

真武根陣屋(千葉県木更津市)

千葉県木更津市請西

真武根陣屋址碑f:id:shinsaku1234t501:20200503233026j:image真武根陣屋こと請西藩陣屋は幕末好きにはおなじみの場所である。

信濃守護である小笠原清宗の子、林光政は足利持氏に仕えたのち、林郷(長野県松本市里山辺)で隠棲していた頃に松平有親・親氏と出会った縁で三河野田に移住して松平家に出仕した。即ち、松平家から徳川家康に歴仕したのである。

7代当主の吉忠は大坂夏の陣に際し、秀忠麾下の大番頭、高木正次隊に属して明石全登との戦闘で戦死する。
この武功もあって三河以来の譜代旗本として連綿と続き、忠英の頃には将軍家斉のもとで若年寄に栄進、上総貝淵藩1万8千石の大名となる。

嘉永3年(1850)、忠英の嫡男忠旭が現在地に陣屋を移したことで上総請西藩となる。慶応3年(1867)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから甥の忠崇が藩主に就任する。

慶応4年(1868)、江戸を脱出した人見勝太郎・伊庭八郎ら旧幕府遊撃隊に協力を要請された忠崇は真武根陣屋に火を放ち、一部の藩士とともに遊撃隊に参加する。藩主自らが脱藩したことで請西藩は新政府により改易となった。

東京都中野区沼袋2丁目 永康山東正院貞源寺 伊庭八郎墓f:id:shinsaku1234t501:20170310153907j:image真武根陣屋空堀f:id:shinsaku1234t501:20170310152556j:image
その後、徳川宗家存続の報に接した忠崇は仙台で新政府軍に降伏し、江戸に護送されると肥前唐津藩邸に幽閉される。

なお、その後半生は前代未聞と言っていい。明治5年(1872)に赦免されると請西村に戻って農家に間借りして農民となる。翌年には東京府十等属という下級官吏に転身するが、明治8年(1875)には退職する。心機一転、函館に赴き、とある商店の番頭を務めるが、倒産により職を失う。その後も、職を転々として宮内省東宮職庶務課に勤務したり、日光東照宮では神職も務めた。

昭和12年(1937)に浅野長勲(元安芸広島藩主)が没すると、生存する最後の大名と呼ばれ、昭和16年(1941)、次女に看取られて死去する。

中村彰彦「脱藩大名の戊辰戦争」に詳しい。

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和田城 後編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

土塁は幼稚園の園舎に沿って続く。
土塁上部f:id:shinsaku1234t501:20170920185116j:image下に降りてみても、その高さは明らかに2mを超すだろう。
幼稚園敷地内から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920183903j:imageさらに、幼稚園の裏の住宅地から見ると、随分と高い垣根にしか見えない。実は、幼稚園の内と外では高低差があるため、敷地内の土塁の高さは2m強だが、低くなっている裏手の住宅地から見ると、その倍近く高く見える。
幼稚園裏手の住宅地から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920185009j:imageまた、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條◻︎氏」と刻まれている。

土塁の中にある「◻︎◻︎社」の祠f:id:shinsaku1234t501:20170920185219j:image
最後に、近くの勝蔵院にも和田義盛巴御前・朝比奈義秀を祀る和田塚があり、近在には和田義盛の家臣の末裔と伝わる家もあるという。(完)

我孫子市布佐 西光山勝蔵院 和田塚f:id:shinsaku1234t501:20170920190133j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014147p:image