侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

野口館址(岐阜県各務原市)

岐阜県各務原市蘇原野口町 個人宅

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170622151535j:imageとにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。

野口館址空堀f:id:shinsaku1234t501:20170622151558j:image一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170622151621j:imageさらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の門が明治9年(1876)に払い下げされたこと。

平成21年(2009)まで現存した大垣城移築門f:id:shinsaku1234t501:20170622151647j:image長きにわたり加納城移築門とされていたが、平成21年(2009)にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政4年(1857)の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の門と判明した。

大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣左側f:id:shinsaku1234t501:20170622151722j:image大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣右側f:id:shinsaku1234t501:20170622151751j:imageなお、現在の中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施されたので、私が投稿した写真よりは綺麗になっているが、一見をオススメする。

前林城(千葉県成田市)

千葉県成田市前林字城山

妙見神社までの道筋には民家も点在するが、周辺の道はかなり狭い。
妙見神社の鳥居が目印となり、その鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。

道沿いに残る土塁f:id:shinsaku1234t501:20170313232457j:image堀址f:id:shinsaku1234t501:20170515002349j:image
また、妙見神社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。

好き・嫌いの先の歴史観

歴史談義をする時に必ずつきまとう人物の好きと嫌い。人間、いちいちの事象に好き嫌いの感情があるのは仕方ないが、歴史を語る上でこれほど話の腰を折る面倒なものはない。

「家康が嫌い!」という言葉をよく聞く。それを聞くたびに「バカバカしい」と内心、呆れてしまう。確かに、同時代人の中で家康は嫌われる要素を多く有している。

1、成功者だから嫌い。

2、豊臣家をこれでもか!と滅ぼした。

3、信長や秀吉と比べて陰気で策謀家。

4、信長や秀吉の後ろにいて、努力もせずに天下を簒奪した卑怯者。

5、世界との交易を閉ざして内向的な江戸社会を創った。

6、司馬遼太郎作品の影響。

7、明治時代の徳川否定史観

8、関西以西に多い徳川への対抗心

こんなところだろうか・・・いずれにしても論破できる程度の話である。私はこの手の話になると、よく言う。

「家康が嫌いということは、あなたの歴史は安土桃山時代の次は、いきなり明治ですよね(笑)」

 いや、もっと言えば楠木正成がもてはやされ、足利尊氏が逆賊設定になった戦前史観と同じ不気味さを感じる。本来は、天皇を奉じた楠木には忠義があり、武士の不平不満を抱え込んだ尊氏には情勢不安や社会構造の現実と矛盾がある、と考察するのが歴史である。

時代転じて、薩長が正義で、幕府側は悪(その逆も然り)というのも学問上においては、もう少し相互の置かれた立場を理解すべきであろう。しかし、私自身の実体験として、会津では今でも幕末が人間関係の分水嶺になっている例もあるので、迂闊なことを言えない部分もある。

好き嫌いが先行すれば、それはもはや歴史ではなく、マンガである。

司馬遼太郎は、確かに徳川家康乃木希典に対する辛辣な印象を著作に色濃く残した。しかし、彼の作品を読むことでその影響を何の疑いもなく受け取るならば、それは司馬遼太郎の史観や著作をさも持論のように語っているにすぎない。

かの武田鉄矢氏は言う。

「オレは司馬遼太郎竜馬がゆくのことなら誰よりも知っている」

なるほど彼が得意なのは、史実としての龍馬ではなく、フィクション込みの「竜馬がゆく」の竜馬であること。だから、彼は熱が入り過ぎて「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画や「お〜い!竜馬」という漫画を生み出した。

ところが、そんな武田鉄矢氏に司馬遼太郎は言い放った。「いつまでも竜馬、竜馬ではない!」

この言葉の意味するところを理解できたから、武田氏にはその後の役者としての活躍があったのだろう、と私は思う。

私も司馬遼太郎という小説家を敬愛してやまないが、彼の作品についてはさまざまな小説の中の一つの選択肢程度に読むことをオススメする。 

俗に司馬史観と呼ばれる彼の史観が悪いのではなく、彼の世界観に引き込まれるあまり、自身で思考することなく、それを歴史そのものと勘違いすることが問題なのである。

万喜城(千葉県いすみ市)

千葉県いすみ市万木字城山 万木城跡公園

万喜城遠望f:id:shinsaku1234t501:20170310162307j:image山麓にある機岳山海雄寺(左が土岐為頼墓、右が万木土岐家代々供養塔)f:id:shinsaku1234t501:20170310153613j:image万木土岐氏の系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説。
海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年(1492)没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年(1583)没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年。
親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年(1580)没とある。
やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。
頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。
また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明。
よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

万喜城展望台f:id:shinsaku1234t501:20170310153533j:image余談だが、為頼の嫡子、三代城主の頼春の頃にあたる天正17年(1589)11月、里見軍の大多喜城主、正木時茂が包囲した際、土岐軍の騎馬隊長として20名程度を率いた御子神典膳(のちの小野忠明)が互角に渡り合った。後日、その武勇を聞きつけた一刀流の開祖、伊東一刀斎が万喜城下に出向き、典膳と立ち合う。敗れた典膳は一刀斎に師事し、のち一刀流の後継者として小野派一刀流開祖となり、徳川秀忠の剣術指南役となるのは有名な話。

成田市寺台 永興寺 小野忠明f:id:shinsaku1234t501:20170310172136j:image話を戻すが、天正17年(1589)、庁南城の武田豊信・安房の里見義頼、大多喜の正木時茂などを相次いで撃退してきた万喜城も、翌年の小田原征伐の一環として本多忠勝に攻略され落城。三代城主、頼春の消息は不明。
翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

万喜城主郭の土塁f:id:shinsaku1234t501:20170310153708j:image

真武根陣屋(千葉県木更津市)

千葉県木更津市請西

真武根陣屋址碑f:id:shinsaku1234t501:20170310152508j:image真武根陣屋こと請西藩陣屋は幕末好きにはおなじみの場所である。

信濃守護である小笠原清宗の子、林光政は足利持氏に仕えたのち、林郷(松本市里山辺)で隠棲していた頃に松平有親・親氏と出会った縁で三河野田に移住して松平家に出仕。
7代当主の吉忠は大坂夏の陣に際し、秀忠麾下の大番頭、高木正次隊に属して明石全登との戦闘で戦死。
この武功もあって三河以来の譜代旗本として連綿と続き、忠英の頃には将軍家斉のもとで若年寄に栄進、上総貝淵藩1万8千石の大名となる。

嘉永3年(1850)、忠旭が現在地に陣屋を移して上総請西藩となる。
慶応3年(1867)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから甥の忠崇が藩主に就任する。

慶応4年(1868)、江戸を脱出した人見勝太郎・伊庭八郎ら旧幕府遊撃隊に協力を要請された忠崇は陣屋に火を放ち、一部の藩士とともに遊撃隊に参加。
藩主自らが脱藩したことで請西藩は改易となる。

東京都中野区 貞源寺 伊庭八郎墓f:id:shinsaku1234t501:20170310153907j:image真武根陣屋空堀f:id:shinsaku1234t501:20170310152556j:image
その後、徳川宗家存続の報に接した忠崇は仙台で新政府軍に降伏。

昭和12年(1937)に浅野長勲が没すると、生存する最後の大名と呼ばれ、昭和16年(1941)没。

中村彰彦「脱藩大名の戊辰戦争」に詳しい。

和田城 後編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

土塁は幼稚園の園舎に沿って続く。
土塁上部f:id:shinsaku1234t501:20170311214936j:image下に降りてみても、その高さは明らかに2mを超すだろう。
幼稚園敷地内から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170311215056j:imageさらに、幼稚園の裏の住宅地から見ると、随分と高い垣根にしか見えない。実は、幼稚園の内と外では高低差があるため、敷地内の土塁の高さは2m強だが、低くなっている裏手の住宅地から見ると、その倍近く高く見える。
幼稚園裏手の住宅地から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170311215150j:imageまた、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條◻︎氏」と刻まれている。

土塁の中にある「◻︎◻︎社」の祠f:id:shinsaku1234t501:20170311215235j:image
最後に、近くの勝蔵院にも和田義盛巴御前・朝比奈義秀を祀る和田塚があり、近在には和田義盛の家臣の末裔と伝わる家もあるという。

我孫子市布佐 西光山勝蔵院 和田塚f:id:shinsaku1234t501:20170320200932j:image

和田城 前編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

幼稚園敷地内にある土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235737j:imageネット検索しても十中八九、「遺構は消滅」とされているが、ある1件のサイトだけが写真入りでこの遺構を紹介していた。場所はわだ幼稚園の敷地内、園舎の裏にある土塁である。

幼稚園入口付近から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235807j:image見学を申し込むと快諾をいただき、早速、送迎バス車庫の裏にある土塁の石段を登る。

土塁の石段 f:id:shinsaku1234t501:20170305222452j:image土塁の上に到着すると、稲荷神社の祠と宝篋印塔などの墓石群がある。

土塁の頂上部 f:id:shinsaku1234t501:20170305222620j:image稲荷社の祠f:id:shinsaku1234t501:20170311213952j:image墓石群(左は伝 和田義盛墓・中央は明應九年板碑)f:id:shinsaku1234t501:20170311214158j:image墓石群の最前列左にある和田義盛墓と伝わる宝篋印塔には、和田氏を表す梵字が刻まれている。また、中央の板碑には「明應九年」(1500年)の銘がある。和田義盛とは全く年代が合わない室町中期にあたるが、実はこれより7年前の延徳5年(1493)に、この城で合戦があり、城主 豊島次郎左衛門ほか諸人が討死にした、と「本土寺過去帳」に記載がある。豊島氏ということは、ここからほどなくの栄橋を渡った利根川の対岸、茨城県北相馬郡利根町の布川城主の一族が勢力拡大を図ったものと推察される。

また、天正元年(1573)、北条氏堯・氏照ら6,000余の軍勢が我孫子周辺に侵攻すると、時の城主 豊島半之允は芝原城主の河村山城守、柴崎城主の荒木三河守らと連合して2,000余の軍勢で迎撃したが敗れる。この戦いで北条軍は我孫子連合軍の首級270余りを討ち取ったという。

さらに、天正13年(1585)田部主水が城主の時、豊島頼継(下総布川城主)・栗林義長らに攻められたという説もある。