侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

真武根陣屋(千葉県木更津市)

千葉県木更津市請西

真武根陣屋址碑f:id:shinsaku1234t501:20200503233026j:image真武根陣屋こと請西藩陣屋は幕末好きにはおなじみの場所である。

信濃守護である小笠原清宗の子、林光政は足利持氏に仕えたのち、林郷(長野県松本市里山辺)で隠棲していた頃に松平有親・親氏と出会った縁で三河野田に移住して松平家に出仕した。即ち、松平家から徳川家康に歴仕したのである。

7代当主の吉忠は大坂夏の陣に際し、秀忠麾下の大番頭、高木正次隊に属して明石全登との戦闘で戦死する。
この武功もあって三河以来の譜代旗本として連綿と続き、忠英の頃には将軍家斉のもとで若年寄に栄進、上総貝淵藩1万8千石の大名となる。

嘉永3年(1850)、忠英の嫡男忠旭が現在地に陣屋を移したことで上総請西藩となる。慶応3年(1867)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから甥の忠崇が藩主に就任する。

慶応4年(1868)、江戸を脱出した人見勝太郎・伊庭八郎ら旧幕府遊撃隊に協力を要請された忠崇は真武根陣屋に火を放ち、一部の藩士とともに遊撃隊に参加する。藩主自らが脱藩したことで請西藩は新政府により改易となった。

東京都中野区沼袋2丁目 永康山東正院貞源寺 伊庭八郎墓f:id:shinsaku1234t501:20170310153907j:image真武根陣屋空堀f:id:shinsaku1234t501:20170310152556j:image
その後、徳川宗家存続の報に接した忠崇は仙台で新政府軍に降伏し、江戸に護送されると肥前唐津藩邸に幽閉される。

なお、その後半生は前代未聞と言っていい。明治5年(1872)に赦免されると請西村に戻って農家に間借りして農民となる。翌年には東京府十等属という下級官吏に転身するが、明治8年(1875)には退職する。心機一転、函館に赴き、とある商店の番頭を務めるが、倒産により職を失う。その後も、職を転々として宮内省東宮職庶務課に勤務したり、日光東照宮では神職も務めた。

昭和12年(1937)に浅野長勲(元安芸広島藩主)が没すると、生存する最後の大名と呼ばれ、昭和16年(1941)、次女に看取られて死去する。

中村彰彦「脱藩大名の戊辰戦争」に詳しい。

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和田城 後編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

土塁は幼稚園の園舎に沿って続く。
土塁上部f:id:shinsaku1234t501:20170920185116j:image下に降りてみても、その高さは明らかに2mを超すだろう。
幼稚園敷地内から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920183903j:imageさらに、幼稚園の裏の住宅地から見ると、随分と高い垣根にしか見えない。実は、幼稚園の内と外では高低差があるため、敷地内の土塁の高さは2m強だが、低くなっている裏手の住宅地から見ると、その倍近く高く見える。
幼稚園裏手の住宅地から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170920185009j:imageまた、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條◻︎氏」と刻まれている。

土塁の中にある「◻︎◻︎社」の祠f:id:shinsaku1234t501:20170920185219j:image
最後に、近くの勝蔵院にも和田義盛巴御前・朝比奈義秀を祀る和田塚があり、近在には和田義盛の家臣の末裔と伝わる家もあるという。(完)

我孫子市布佐 西光山勝蔵院 和田塚f:id:shinsaku1234t501:20170920190133j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223014147p:image

和田城 前編(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

幼稚園敷地内にある土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235737j:imageネット検索しても十中八九、「遺構は消滅」とされているが、ある1件のサイトだけが写真入りでこの遺構を紹介していた。場所はわだ幼稚園の敷地内、園舎の裏にある土塁である。

幼稚園入口付近から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170620235807j:image見学を申し込むと快諾をいただき、早速、送迎バス車庫の裏にある土塁の石段を登る。

土塁の石段 f:id:shinsaku1234t501:20170305222452j:image土塁の上に到着すると、稲荷神社の祠と宝篋印塔などの墓石群がある。

土塁の頂上部 f:id:shinsaku1234t501:20170305222620j:image稲荷社の祠f:id:shinsaku1234t501:20170311213952j:image墓石群(左は伝 和田義盛墓・中央は明應九年板碑)f:id:shinsaku1234t501:20170311214158j:image墓石群の最前列左にある和田義盛墓と伝わる宝篋印塔には、和田氏を表す梵字が刻まれている。また、中央の板碑には「明應九年」(1500年)の銘がある。和田義盛とは全く年代が合わない室町中期にあたるが、実はこれより7年前の延徳5年(1493)に、この城で合戦があり、城主 豊島次郎左衛門ほか諸人が討死にした、と「本土寺過去帳」に記載がある。豊島氏ということは、ここからほどなくの栄橋を渡った利根川の対岸、茨城県北相馬郡利根町の布川城主の一族が勢力拡大を図ったものと推察される。

また、天正元年(1573)、北条氏堯・氏照ら6,000余の軍勢が我孫子周辺に侵攻すると、時の城主 豊島半之允は芝原城主の河村山城守、柴崎城主の荒木三河守らと連合して2,000余の軍勢で迎撃したが敗れる。この戦いで北条軍は我孫子連合軍の首級270余りを討ち取ったという。

さらに、天正13年(1585)田部主水が城主の時、豊島頼継(下総布川城主)・栗林義長らに攻められたという説もある。

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金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)

千葉県松戸市常盤平陣屋前

金ヶ作陣屋跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170516023613j:image慶長19年(1614)に綿貫政家が家康より野馬奉行を拝命し世襲していることから、江戸初期に小金牧の原型が存在したことは明らかである。
江戸にほど近い地域における馬の生産地として、幕府が直轄してきた歴史がある。

松戸市殿平賀 熊耳山慶林寺 綿貫政家夫妻墓f:id:shinsaku1234t501:20170515000347j:image往年の時代劇「暴れん坊将軍」のオープニングで、徳川吉宗が波打ち際で馬を駆るシーンが印象的だが、まさにその吉宗が名馬育成のために小金牧を整備したのは興味深い。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140303j:imageそこで、幕府代官に任命された小宮山昌世は、辻守誠の四男で小宮山昌言の養子となった人物である。
小宮山氏といえば、戦国期に小金高城氏の家臣に小宮山土佐守という人物がいたことから地元出身とも考えられるが、小宮山昌○の名乗りであること、また昌世がその後、甲斐石和代官を歴任した事実を総合すると、武田遺臣の末裔の可能性は高い。

一方、享保の改革の一環として、現在の船橋市松戸市周辺の新田開発が推進された。松戸市内に残る高塚新田・田中新田・松戸新田・串崎新田などの地名は、吉宗の時代より前からすでに開発が始まっていたものもあるが、江戸時代を通じて幾度かの開発を経て現在に至る。

以上の重要拠点となったのが、金ヶ作陣屋こと常盤平陣屋である。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140435j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013819p:image

浄真寺(茨城県土浦市)

茨城県土浦市立田町3丁目 光照山浄真寺

藤井松平信一供養塔(浄真院弁誉道雄専水大居士)f:id:shinsaku1234t501:20170226151303j:image十八松平の一つ、藤井松平家出身である。藤井松平利長の嫡男で一貫して徳川家康の家臣を貫く。ちなみに、家康の祖父清康とは従兄弟にあたるが、年齢的には家康より4歳だけ年長にあたる。

永禄元年(1558)、尾張品野城合戦で織田勢50名あまりを討ち取る。また、三河一向一揆では左股を鉄砲で撃たれて負傷するも奮戦した。

特に有名なのは、家康の命で織田信長の援軍として派遣された永禄11年(1568)の観音寺城合戦において六角義賢・義治らの籠る近江箕作城に一番槍を果たしたことであろう。信長の覚えめでたき武将でもある。また、この出陣に際して家康から拝領した具足は木菟(みみずく)をモチーフとした変わり兜として有名である。

「八月、織田信長、西のかた近江を略し、来つて援兵を乞ふ。大夫、松平信一をして、二千余人を以て往かしむ。信長の将木下秀吉ら、箕作城を攻む。城固くして抜けず。信一疾く攻め、矢石を冒して進み、大に呼んで曰く、「三河の人松平信一、先登せり」と。諸隊継ぎ登る。城遂に陥る。信長、面のあたり信一を褒めて曰く、「卿、胆に毛を生ずと謂ふべし」と。桐号の胴服を賜ふ。」(日本外史

その後も家康の主要な合戦に従軍し、関東移封に際しては下総布川5千石を賜る。関ヶ原合戦では佐竹義宣を牽制すべく常陸江戸崎城を守備し、その功により常陸土浦3万5千石を賜る。

慶長9年(1604)、養子の信吉に家督を譲り、寛永元年(1624)、信吉の封地である丹波篠山にて没す。

光照山浄真寺という寺号は、光照院(信吉)と浄真院(信一)の法号に由来する。もっとも、本墓は京都府京都市上京区西熊町 称念寺である。

三河松平家の苦難の時代から家康を支え続けた武功派の印象を感じる。また、関ヶ原合戦後に佐竹氏を除封した常陸方面は治安が不安定な部分もあったので橋頭堡的な役割を担ったのであろう。

浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151424j:image浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151547j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013911p:image

越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)

埼玉県越谷市御殿町

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115145j:image「徳川実記 」慶長九年是年の条に記述がある。

「又埼玉郡增林村の御離館を越谷驛にうつされ、濱野藤右衞門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」

元々、現在地から北東に2キロ離れた増林村に御茶屋御殿があったのだが、奥州街道の宿駅として整備された越谷に屋敷を移転するにあたり、この地に鎌倉時代から屋敷を構える土豪、会田出羽守資久の陣屋に壮大な御殿を建設するに至った。その規模は、現在御殿町と呼ばれるほぼ全域であったという。

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115317j:image同じく慶長十八年(1613)には徳川家康が越ヶ谷御殿に滞在した記述が下記のように散見される。

十一月廿日 大御所には岩槻より越谷にわたらせらる。
廿一日 大御所、御鷹狩有て鶴三、鴈十六得給ふ。
廿五日 大御所、鶴、鴈、鴨あまた狩らせ給ふ。
廿六日 大御所、越谷に於て日々御放鷹あり。鶴十九得給ひ、御けしき大かたならず。明日は葛西にならせ給ふべしと仰出さる。
廿七日 越谷より葛西にならせられ、御道にて鶴六得たまふ。

東京都墨田区横網1丁目 江戸東京博物館にある鷹狩姿の徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170304122713j:imageしかし、明暦3年に発生した明暦の大火によって江戸城が焼失すると、二の丸再建のため越ヶ谷御殿を解体して運ぶことになり、その歴史的役割を終えた。

現在では、写真の通りの碑と「御殿町」の町名だけが残る。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605143143p:image

小牧長久手戦跡 野呂塚(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒前川原 野呂塚

野呂塚f:id:shinsaku1234t501:20170622152608j:image羽黒城址から少し離れた場所に、羽黒八幡林古戦場がある。写真の塚は羽黒小学校や羽黒八幡宮の東にある。

八幡林古戦場と野呂塚説明板f:id:shinsaku1234t501:20170622152638j:image天正12年(1584)、犬山城羽柴秀吉軍と小牧山城織田信雄徳川家康連合軍の睨み合いは小競り合い程度で推移していた。

この局面を打開しようと犬山城を出陣した秀吉軍の鬼武蔵こと森長可は、小牧山城を攻めるべく現在の犬山市羽黒の八幡林付近に布陣する。しかし、この動きを察知した小牧山城徳川家康は、家臣の酒井忠次榊原康政・奥平信昌らに森長可の襲撃を命じる。

夜陰に乗じて小牧山城を出撃した徳川軍は、3月17日早暁、森長可の陣を急襲した。不意をつかれた長可と軍監の尾藤知宣らは最寄りの羽黒城まで敗走して籠城の構えを見せたが、この乱戦の中、長可の家臣きっての剛の者、野呂助左衛門尉宗長(45歳)は群がる三河勢を次々となぎ倒して敢然と立ちはだかった。ひるむ三河勢の中で、酒井忠次軍に属していた若干17歳の形原松平家信はじめ数人が襲いかかり、組み合いの末に首を討った。

十八松平の一つ形原松平家出身の家信は、三河原城主を皮切りに、家康の関東移封により上総五井5千石・三河形原1万石・摂津高槻2万石・下総佐倉4万石と累進していく。

野呂助左ヱ門之碑(野呂助左衛門・助三郎父子の墓とされる)f:id:shinsaku1234t501:20170304195515j:imageさらに悲劇は連鎖する。
犬山方面に敗走途中、父の戦死を知った嫡男の助三郎宗政は近習の慰留を振り切り、仇討ちを決断する。そして、自らの髪を切って妻への形見として託し、戦場にとって返して戦死を遂げた。こうして壮烈果敢な最期を遂げた忠臣父子を顕彰する塚が今に残る。

野呂助左衛門顕彰碑f:id:shinsaku1234t501:20170304195441j:imageこの敗戦は小さなエピソード程度に語られるが、秀吉がいらだちを募らせ、長可がリベンジを焦る結果に繋がり、三河岡崎城への中入り(敵主力を引きつけているうちに別働隊で不在の城を襲撃する)という危うい策を許可する伏線となり、その途中で繰り広げられた長久手合戦で長可が戦死してしまう。

 「動かざること山の如し」とはよく言ったもので、森長可は羽黒八幡林合戦・長久手合戦と二度も沈黙を破って動いた結果、二度とも徳川家康に裏をかかれたことになる。

なお、野呂塚は犬山市及び野呂塚保存会によって大切に保護されているが、野呂助左衛門父子の地元、現在の江南市中般若地区では、今でも野呂姓を名乗る家があり、畑の中ほどにご子孫が建立した顕彰碑と供養塔がある。(完)

江南市中般若 野呂助左衛門顕彰碑と供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170607180559j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142319p:image