千葉県木更津市請西
真武根陣屋址碑真武根陣屋こと請西藩陣屋は幕末好きにはおなじみの場所である。
信濃守護である小笠原清宗の子、林光政は足利持氏に仕えたのち、林郷(長野県松本市里山辺)で隠棲していた頃に松平有親・親氏と出会った縁で三河野田に移住して松平家に出仕した。即ち、松平家から徳川家康に歴仕したのである。
7代当主の吉忠は大坂夏の陣に際し、秀忠麾下の大番頭、高木正次隊に属して明石全登との戦闘で戦死する。
この武功もあって三河以来の譜代旗本として連綿と続き、忠英の頃には将軍家斉のもとで若年寄に栄進、上総貝淵藩1万8千石の大名となる。
嘉永3年(1850)、忠英の嫡男忠旭が現在地に陣屋を移したことで上総請西藩となる。慶応3年(1867)、伏見奉行の忠交が急死すると、嫡男の忠弘が若年であることから甥の忠崇が藩主に就任する。
慶応4年(1868)、江戸を脱出した人見勝太郎・伊庭八郎ら旧幕府遊撃隊に協力を要請された忠崇は真武根陣屋に火を放ち、一部の藩士とともに遊撃隊に参加する。藩主自らが脱藩したことで請西藩は新政府により改易となった。
東京都中野区沼袋2丁目 永康山東正院貞源寺 伊庭八郎墓真武根陣屋空堀址
その後、徳川宗家存続の報に接した忠崇は仙台で新政府軍に降伏し、江戸に護送されると肥前唐津藩邸に幽閉される。
なお、その後半生は前代未聞と言っていい。明治5年(1872)に赦免されると請西村に戻って農家に間借りして農民となる。翌年には東京府十等属という下級官吏に転身するが、明治8年(1875)には退職する。心機一転、函館に赴き、とある商店の番頭を務めるが、倒産により職を失う。その後も、職を転々として宮内省東宮職庶務課に勤務したり、日光東照宮では神職も務めた。
昭和12年(1937)に浅野長勲(元安芸広島藩主)が没すると、生存する最後の大名と呼ばれ、昭和16年(1941)、次女に看取られて死去する。