愛知県犬山市羽黒前川原 野呂塚
野呂塚羽黒城址から少し離れた場所に、羽黒八幡林古戦場がある。写真の塚は羽黒小学校や羽黒八幡宮の東にある。
八幡林古戦場と野呂塚説明板天正12年(1584)、犬山城の羽柴秀吉軍と小牧山城の織田信雄・徳川家康連合軍の睨み合いは小競り合い程度で推移していた。
この局面を打開しようと犬山城を出陣した秀吉軍の鬼武蔵こと森長可は、小牧山城を攻めるべく現在の犬山市羽黒の八幡林付近に布陣する。しかし、この動きを察知した小牧山城の徳川家康は、家臣の酒井忠次・榊原康政・奥平信昌らに森長可の襲撃を命じる。
夜陰に乗じて小牧山城を出撃した徳川軍は、3月17日早暁、森長可の陣を急襲した。不意をつかれた長可と軍監の尾藤知宣らは最寄りの羽黒城まで敗走して籠城の構えを見せたが、この乱戦の中、長可の家臣きっての剛の者、野呂助左衛門尉宗長(45歳)は群がる三河勢を次々となぎ倒して敢然と立ちはだかった。ひるむ三河勢の中で、酒井忠次軍に属していた若干17歳の形原松平家信はじめ数人が襲いかかり、組み合いの末に首を討った。
十八松平の一つ形原松平家出身の家信は、三河形原城主を皮切りに、家康の関東移封により上総五井5千石・三河形原1万石・摂津高槻2万石・下総佐倉4万石と累進していく。
野呂助左ヱ門之碑(野呂助左衛門・助三郎父子の墓とされる)さらに悲劇は連鎖する。
犬山方面に敗走途中、父の戦死を知った嫡男の助三郎宗政は近習の慰留を振り切り、仇討ちを決断する。そして、自らの髪を切って妻への形見として託し、戦場にとって返して戦死を遂げた。こうして壮烈果敢な最期を遂げた忠臣父子を顕彰する塚が今に残る。
野呂助左衛門顕彰碑この敗戦は小さなエピソード程度に語られるが、秀吉がいらだちを募らせ、長可がリベンジを焦る結果に繋がり、三河岡崎城への中入り(敵主力を引きつけているうちに別働隊で不在の城を襲撃する)という危うい策を許可する伏線となり、その途中で繰り広げられた長久手合戦で長可が戦死してしまう。
「動かざること山の如し」とはよく言ったもので、森長可は羽黒八幡林合戦・長久手合戦と二度も沈黙を破って動いた結果、二度とも徳川家康に裏をかかれたことになる。
なお、野呂塚は犬山市及び野呂塚保存会によって大切に保護されているが、野呂助左衛門父子の地元、現在の江南市中般若地区では、今でも野呂姓を名乗る家があり、畑の中ほどにご子孫が建立した顕彰碑と供養塔がある。(完)
江南市中般若 野呂助左衛門顕彰碑と供養塔