侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

金ヶ作陣屋(千葉県松戸市)

千葉県松戸市常盤平陣屋前

金ヶ作陣屋跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170516023613j:image慶長19年(1614)に綿貫政家が家康より野馬奉行を拝命し世襲していることから、江戸初期に小金牧の原型が存在したことは明らかである。
江戸にほど近い地域における馬の生産地として、幕府が直轄してきた歴史がある。

松戸市殿平賀 熊耳山慶林寺 綿貫政家夫妻墓f:id:shinsaku1234t501:20170515000347j:image往年の時代劇「暴れん坊将軍」のオープニングで、徳川吉宗が波打ち際で馬を駆るシーンが印象的だが、まさにその吉宗が名馬育成のために小金牧を整備したのは興味深い。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140303j:imageそこで、幕府代官に任命された小宮山昌世は、辻守誠の四男で小宮山昌言の養子となった人物である。
小宮山氏といえば、戦国期に小金高城氏の家臣に小宮山土佐守という人物がいたことから地元出身とも考えられるが、小宮山昌○の名乗りであること、また昌世がその後、甲斐石和代官を歴任した事実を総合すると、武田遺臣の末裔の可能性は高い。

一方、享保の改革の一環として、現在の船橋市松戸市周辺の新田開発が推進された。松戸市内に残る高塚新田・田中新田・松戸新田・串崎新田などの地名は、吉宗の時代より前からすでに開発が始まっていたものもあるが、江戸時代を通じて幾度かの開発を経て現在に至る。

以上の重要拠点となったのが、金ヶ作陣屋こと常盤平陣屋である。

松戸市五香6丁目 五香十字路付近 野馬除土手f:id:shinsaku1234t501:20190903140435j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013819p:image

浄真寺(茨城県土浦市)

茨城県土浦市立田町3丁目 光照山浄真寺

藤井松平信一供養塔(浄真院弁誉道雄専水大居士)f:id:shinsaku1234t501:20170226151303j:image十八松平の一つ、藤井松平家出身である。藤井松平利長の嫡男で一貫して徳川家康の家臣を貫く。ちなみに、家康の祖父清康とは従兄弟にあたるが、年齢的には家康より4歳だけ年長にあたる。

永禄元年(1558)、尾張品野城合戦で織田勢50名あまりを討ち取る。また、三河一向一揆では左股を鉄砲で撃たれて負傷するも奮戦した。

特に有名なのは、家康の命で織田信長の援軍として派遣された永禄11年(1568)の観音寺城合戦において六角義賢・義治らの籠る近江箕作城に一番槍を果たしたことであろう。信長の覚えめでたき武将でもある。また、この出陣に際して家康から拝領した具足は木菟(みみずく)をモチーフとした変わり兜として有名である。

「八月、織田信長、西のかた近江を略し、来つて援兵を乞ふ。大夫、松平信一をして、二千余人を以て往かしむ。信長の将木下秀吉ら、箕作城を攻む。城固くして抜けず。信一疾く攻め、矢石を冒して進み、大に呼んで曰く、「三河の人松平信一、先登せり」と。諸隊継ぎ登る。城遂に陥る。信長、面のあたり信一を褒めて曰く、「卿、胆に毛を生ずと謂ふべし」と。桐号の胴服を賜ふ。」(日本外史

その後も家康の主要な合戦に従軍し、関東移封に際しては下総布川5千石を賜る。関ヶ原合戦では佐竹義宣を牽制すべく常陸江戸崎城を守備し、その功により常陸土浦3万5千石を賜る。

慶長9年(1604)、養子の信吉に家督を譲り、寛永元年(1624)、信吉の封地である丹波篠山にて没す。

光照山浄真寺という寺号は、光照院(信吉)と浄真院(信一)の法号に由来する。もっとも、本墓は京都府京都市上京区西熊町 称念寺である。

三河松平家の苦難の時代から家康を支え続けた武功派の印象を感じる。また、関ヶ原合戦後に佐竹氏を除封した常陸方面は治安が不安定な部分もあったので橋頭堡的な役割を担ったのであろう。

浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151424j:image浄真寺墓地に残る土浦城立田郭土塁f:id:shinsaku1234t501:20170226151547j:imagef:id:shinsaku1234t501:20240223013911p:image

越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)

埼玉県越谷市御殿町

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115145j:image「徳川実記 」慶長九年是年の条に記述がある。

「又埼玉郡增林村の御離館を越谷驛にうつされ、濱野藤右衞門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」

元々、現在地から北東に2キロ離れた増林村に御茶屋御殿があったのだが、奥州街道の宿駅として整備された越谷に屋敷を移転するにあたり、この地に鎌倉時代から屋敷を構える土豪、会田出羽守資久の陣屋に壮大な御殿を建設するに至った。その規模は、現在御殿町と呼ばれるほぼ全域であったという。

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115317j:image同じく慶長十八年(1613)には徳川家康が越ヶ谷御殿に滞在した記述が下記のように散見される。

十一月廿日 大御所には岩槻より越谷にわたらせらる。
廿一日 大御所、御鷹狩有て鶴三、鴈十六得給ふ。
廿五日 大御所、鶴、鴈、鴨あまた狩らせ給ふ。
廿六日 大御所、越谷に於て日々御放鷹あり。鶴十九得給ひ、御けしき大かたならず。明日は葛西にならせ給ふべしと仰出さる。
廿七日 越谷より葛西にならせられ、御道にて鶴六得たまふ。

東京都墨田区横網1丁目 江戸東京博物館にある鷹狩姿の徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170304122713j:imageしかし、明暦3年に発生した明暦の大火によって江戸城が焼失すると、二の丸再建のため越ヶ谷御殿を解体して運ぶことになり、その歴史的役割を終えた。

現在では、写真の通りの碑と「御殿町」の町名だけが残る。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605143143p:image

小牧長久手戦跡 野呂塚(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒前川原 野呂塚

野呂塚f:id:shinsaku1234t501:20170622152608j:image羽黒城址から少し離れた場所に、羽黒八幡林古戦場がある。写真の塚は羽黒小学校や羽黒八幡宮の東にある。

八幡林古戦場と野呂塚説明板f:id:shinsaku1234t501:20170622152638j:image天正12年(1584)、犬山城羽柴秀吉軍と小牧山城織田信雄徳川家康連合軍の睨み合いは小競り合い程度で推移していた。

この局面を打開しようと犬山城を出陣した秀吉軍の鬼武蔵こと森長可は、小牧山城を攻めるべく現在の犬山市羽黒の八幡林付近に布陣する。しかし、この動きを察知した小牧山城徳川家康は、家臣の酒井忠次榊原康政・奥平信昌らに森長可の襲撃を命じる。

夜陰に乗じて小牧山城を出撃した徳川軍は、3月17日早暁、森長可の陣を急襲した。不意をつかれた長可と軍監の尾藤知宣らは最寄りの羽黒城まで敗走して籠城の構えを見せたが、この乱戦の中、長可の家臣きっての剛の者、野呂助左衛門尉宗長(45歳)は群がる三河勢を次々となぎ倒して敢然と立ちはだかった。ひるむ三河勢の中で、酒井忠次軍に属していた若干17歳の形原松平家信はじめ数人が襲いかかり、組み合いの末に首を討った。

十八松平の一つ形原松平家出身の家信は、三河原城主を皮切りに、家康の関東移封により上総五井5千石・三河形原1万石・摂津高槻2万石・下総佐倉4万石と累進していく。

野呂助左ヱ門之碑(野呂助左衛門・助三郎父子の墓とされる)f:id:shinsaku1234t501:20170304195515j:imageさらに悲劇は連鎖する。
犬山方面に敗走途中、父の戦死を知った嫡男の助三郎宗政は近習の慰留を振り切り、仇討ちを決断する。そして、自らの髪を切って妻への形見として託し、戦場にとって返して戦死を遂げた。こうして壮烈果敢な最期を遂げた忠臣父子を顕彰する塚が今に残る。

野呂助左衛門顕彰碑f:id:shinsaku1234t501:20170304195441j:imageこの敗戦は小さなエピソード程度に語られるが、秀吉がいらだちを募らせ、長可がリベンジを焦る結果に繋がり、三河岡崎城への中入り(敵主力を引きつけているうちに別働隊で不在の城を襲撃する)という危うい策を許可する伏線となり、その途中で繰り広げられた長久手合戦で長可が戦死してしまう。

 「動かざること山の如し」とはよく言ったもので、森長可は羽黒八幡林合戦・長久手合戦と二度も沈黙を破って動いた結果、二度とも徳川家康に裏をかかれたことになる。

なお、野呂塚は犬山市及び野呂塚保存会によって大切に保護されているが、野呂助左衛門父子の地元、現在の江南市中般若地区では、今でも野呂姓を名乗る家があり、畑の中ほどにご子孫が建立した顕彰碑と供養塔がある。(完)

江南市中般若 野呂助左衛門顕彰碑と供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170607180559j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142319p:image

小牧長久手戦跡 羽黒城(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒城屋敷

羽黒城跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170516021614j:image興禅寺裏手に隣接して羽黒城址がある。

昔は民家の路地から竹藪となっている土饅頭に分け入り、蜘蛛の巣を掻き分けて鬱蒼とした頂上に着くと、城址碑を撮影するにはフラッシュ撮影が絶対だったが、写真の通り、今はかなり整備されている。平成18年(2006)NHK大河ドラマ功名が辻」放映に際しての整備であるとのこと。

前方後円墳の上にある城址f:id:shinsaku1234t501:20170516021705j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021731j:image興禅寺の項でも触れたように、梶原氏が代々治めてきたこの城は、本能寺の変あたりで一旦廃城となる。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170516021755j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021822j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021902j:imageしかし、わずか2年後の小牧長久手合戦の時には、秀吉軍の山内一豊堀尾吉晴らが羽黒城を修築して小牧山城に対する前線基地として守備することになった。その戦後、廃城となる。

北側の空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516022151j:imageさらにその北に隣接して磨墨塚史跡公園があり、ブランコなどの遊具に囲まれて名馬磨墨の墓があります。

隣接した磨墨塚史跡公園内にある磨墨塚f:id:shinsaku1234t501:20170516022210j:image梶原景時の嫡男、景季が頼朝から拝領して宇治川で先陣争いをした時のあの名馬である。(完)

磨墨塚内部(左 お隅の方墓・右 名馬磨墨塚)f:id:shinsaku1234t501:20170516022310j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142434p:image

オススメ! その1

自分で読み返しても随分と肩苦しい表現のブログだ!と反省する部分はあるが、閑話休題

房野史典「笑って泣いてドラマチックに学ぶ 超現代語訳 戦国時代」(幻冬舎 刊)を紹介する。

f:id:shinsaku1234t501:20170303175336j:image筆者はお笑いコンビ「ブロードキャスト‼︎」のツッコミ担当とのことだが、不勉強ゆえ存じ上げない(笑)

今風の漫画セリフを活字にしたような無責任言葉の連発だが、通読した感想としては意外と底流にはしっかりとした史実を感じる。史観はなさそうだが・・・(笑)

本の帯封に「又吉直樹さん大絶賛!」とあるが、なるほど私も大絶賛の書である。

そこで、一節を紹介する。

秀吉「家康ちゃん、今日も贈り物があるのよ」

家康「それはありがたい。・・・また妹ではないですよね?」

秀吉「そんな何人も妹贈らないよwww」

家康「ですよねwww」

秀吉「うちのお母さん」

家康「お母さんですか。いいですね。滅多に口にすることができない、希少価・・・お母さん⁉︎」

大政所(秀吉の実のお母さん)「人質になるね」

家康「あ、いや・・・いいんすか?」

お母さんもついてきました。

と、まぁこんな感じで、初心者が構えることなく流れを掴める一方、歴史を理解している人が肩の力を抜いて笑い飛ばすのも一興!(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605143026p:image

興禅寺(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒城屋敷 妙國山興禅寺

興禅寺山門脇にある開基梶原景時公碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160029j:image鎌倉幕府の功臣、梶原景時を開基とする興禅寺には景時夫妻の供養塔、梶原氏一族の墓、その子孫で織田信長家臣となった景義(景久)と東条松平忠吉付家老として犬山城主になった小笠原吉次の合葬供養塔がある。

梶原氏一族墓地f:id:shinsaku1234t501:20170621160055j:image梶原景時夫妻供養塔(右が景時、左が景時正室f:id:shinsaku1234t501:20170621160127j:imageなぜ、この地に梶原氏なのか?
景時・嫡男の景季・次男の景高らが駿河清見関の戦いで戦死したのち、景高の子 豊丸(のちの景親)を伴った乳母お隅の方が自分の出身地であるこの地まで連れてきたことにある。こうして、景親が羽黒城に土着したことによって、尾張梶原氏の子孫がこの地で脈々と代を重ね、景義(景久)織田信長(というより主に信忠)の家臣として石山合戦長島一向一揆戦、甲州征伐に従軍した。
しかし、「信長公記」によれば天正10年(1582)の本能寺の変明智軍の攻撃を受けて戦死したとされる。事実のほどは定かではないが、この頃に羽黒城が廃城となったのも、また事実である。

梶原景義・小笠原吉次合葬供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170621160203j:image関ヶ原合戦ののち、戦功著しかった家康の四男、東条松平忠吉が52万石の清洲城主として尾張に移封されると、これに際して家康の命を受けた小笠原吉次が付家老として犬山城に入った。忠吉が病没したのちも、小笠原吉次は下総佐倉・常陸笠間と移封したものの、慶長14年(1609)、家臣が家康に吉次の私曲を直訴したことで改易となり、以後は武蔵都筑郡池辺村に閑居し、元和6年(1620)に没した。

平成になってから梶原景義との合葬供養塔が建立された。おそらく慶長7年(1602)、吉次が犬山城下を整備する一環として興禅寺を羽黒城址である当地に移したことを顕彰する意味からであろう。

興禅寺裏に残る羽黒城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170621160239j:imageまた、興禅寺には山内一豊の母、法秀尼の生誕地碑もある。やはり梶原氏の出身と言われ、岩倉織田家の家臣である山内盛豊に嫁いで長男(早逝)・次男の十郎・三男の一豊・四男の康豊らを生んだ。(完)

法秀尼生誕地碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160310j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142923p:image