侍を語る記

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歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

越ヶ谷御殿(埼玉県越谷市)

埼玉県越谷市御殿町

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115145j:image「徳川実記 」慶長九年是年の条に記述がある。

「又埼玉郡增林村の御離館を越谷驛にうつされ、濱野藤右衞門某に勤番を仰付らる。(この御殿は明暦三年の災後江戸城に移されかりやに用らる。今も御殿跡といふ地名あり)」

元々、現在地から北東に2キロ離れた増林村に御茶屋御殿があったのだが、奥州街道の宿駅として整備された越谷に屋敷を移転するにあたり、この地に鎌倉時代から屋敷を構える土豪、会田出羽守資久の陣屋に壮大な御殿を建設するに至った。その規模は、現在御殿町と呼ばれるほぼ全域であったという。

元荒川に面した越ヶ谷御殿跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170304115317j:image同じく慶長十八年(1613)には徳川家康が越ヶ谷御殿に滞在した記述が下記のように散見される。

十一月廿日 大御所には岩槻より越谷にわたらせらる。
廿一日 大御所、御鷹狩有て鶴三、鴈十六得給ふ。
廿五日 大御所、鶴、鴈、鴨あまた狩らせ給ふ。
廿六日 大御所、越谷に於て日々御放鷹あり。鶴十九得給ひ、御けしき大かたならず。明日は葛西にならせ給ふべしと仰出さる。
廿七日 越谷より葛西にならせられ、御道にて鶴六得たまふ。

東京都墨田区横網1丁目 江戸東京博物館にある鷹狩姿の徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170304122713j:imageしかし、明暦3年に発生した明暦の大火によって江戸城が焼失すると、二の丸再建のため越ヶ谷御殿を解体して運ぶことになり、その歴史的役割を終えた。

現在では、写真の通りの碑と「御殿町」の町名だけが残る。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605143143p:image

小牧長久手戦跡 野呂塚(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒前川原 野呂塚

野呂塚f:id:shinsaku1234t501:20170622152608j:image羽黒城址から少し離れた場所に、羽黒八幡林古戦場がある。写真の塚は羽黒小学校や羽黒八幡宮の東にある。

八幡林古戦場と野呂塚説明板f:id:shinsaku1234t501:20170622152638j:image天正12年(1584)、犬山城羽柴秀吉軍と小牧山城織田信雄徳川家康連合軍の睨み合いは小競り合い程度で推移していた。

この局面を打開しようと犬山城を出陣した秀吉軍の鬼武蔵こと森長可は、小牧山城を攻めるべく現在の犬山市羽黒の八幡林付近に布陣する。しかし、この動きを察知した小牧山城徳川家康は、家臣の酒井忠次榊原康政・奥平信昌らに森長可の襲撃を命じる。

夜陰に乗じて小牧山城を出撃した徳川軍は、3月17日早暁、森長可の陣を急襲した。不意をつかれた長可と軍監の尾藤知宣らは最寄りの羽黒城まで敗走して籠城の構えを見せたが、この乱戦の中、長可の家臣きっての剛の者、野呂助左衛門尉宗長(45歳)は群がる三河勢を次々となぎ倒して敢然と立ちはだかった。ひるむ三河勢の中で、酒井忠次軍に属していた若干17歳の形原松平家信はじめ数人が襲いかかり、組み合いの末に首を討った。

十八松平の一つ形原松平家出身の家信は、三河原城主を皮切りに、家康の関東移封により上総五井5千石・三河形原1万石・摂津高槻2万石・下総佐倉4万石と累進していく。

野呂助左ヱ門之碑(野呂助左衛門・助三郎父子の墓とされる)f:id:shinsaku1234t501:20170304195515j:imageさらに悲劇は連鎖する。
犬山方面に敗走途中、父の戦死を知った嫡男の助三郎宗政は近習の慰留を振り切り、仇討ちを決断する。そして、自らの髪を切って妻への形見として託し、戦場にとって返して戦死を遂げた。こうして壮烈果敢な最期を遂げた忠臣父子を顕彰する塚が今に残る。

野呂助左衛門顕彰碑f:id:shinsaku1234t501:20170304195441j:imageこの敗戦は小さなエピソード程度に語られるが、秀吉がいらだちを募らせ、長可がリベンジを焦る結果に繋がり、三河岡崎城への中入り(敵主力を引きつけているうちに別働隊で不在の城を襲撃する)という危うい策を許可する伏線となり、その途中で繰り広げられた長久手合戦で長可が戦死してしまう。

 「動かざること山の如し」とはよく言ったもので、森長可は羽黒八幡林合戦・長久手合戦と二度も沈黙を破って動いた結果、二度とも徳川家康に裏をかかれたことになる。

なお、野呂塚は犬山市及び野呂塚保存会によって大切に保護されているが、野呂助左衛門父子の地元、現在の江南市中般若地区では、今でも野呂姓を名乗る家があり、畑の中ほどにご子孫が建立した顕彰碑と供養塔がある。(完)

江南市中般若 野呂助左衛門顕彰碑と供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170607180559j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142319p:image

小牧長久手戦跡 羽黒城(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒城屋敷

羽黒城跡説明板f:id:shinsaku1234t501:20170516021614j:image興禅寺裏手に隣接して羽黒城址がある。

昔は民家の路地から竹藪となっている土饅頭に分け入り、蜘蛛の巣を掻き分けて鬱蒼とした頂上に着くと、城址碑を撮影するにはフラッシュ撮影が絶対だったが、写真の通り、今はかなり整備されている。平成18年(2006)NHK大河ドラマ功名が辻」放映に際しての整備であるとのこと。

前方後円墳の上にある城址f:id:shinsaku1234t501:20170516021705j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021731j:image興禅寺の項でも触れたように、梶原氏が代々治めてきたこの城は、本能寺の変あたりで一旦廃城となる。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170516021755j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021822j:image空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516021902j:imageしかし、わずか2年後の小牧長久手合戦の時には、秀吉軍の山内一豊堀尾吉晴らが羽黒城を修築して小牧山城に対する前線基地として守備することになった。その戦後、廃城となる。

北側の空堀f:id:shinsaku1234t501:20170516022151j:imageさらにその北に隣接して磨墨塚史跡公園があり、ブランコなどの遊具に囲まれて名馬磨墨の墓があります。

隣接した磨墨塚史跡公園内にある磨墨塚f:id:shinsaku1234t501:20170516022210j:image梶原景時の嫡男、景季が頼朝から拝領して宇治川で先陣争いをした時のあの名馬である。(完)

磨墨塚内部(左 お隅の方墓・右 名馬磨墨塚)f:id:shinsaku1234t501:20170516022310j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142434p:image

オススメ! その1

自分で読み返しても随分と肩苦しい表現のブログだ!と反省する部分はあるが、閑話休題

房野史典「笑って泣いてドラマチックに学ぶ 超現代語訳 戦国時代」(幻冬舎 刊)を紹介する。

f:id:shinsaku1234t501:20170303175336j:image筆者はお笑いコンビ「ブロードキャスト‼︎」のツッコミ担当とのことだが、不勉強ゆえ存じ上げない(笑)

今風の漫画セリフを活字にしたような無責任言葉の連発だが、通読した感想としては意外と底流にはしっかりとした史実を感じる。史観はなさそうだが・・・(笑)

本の帯封に「又吉直樹さん大絶賛!」とあるが、なるほど私も大絶賛の書である。

そこで、一節を紹介する。

秀吉「家康ちゃん、今日も贈り物があるのよ」

家康「それはありがたい。・・・また妹ではないですよね?」

秀吉「そんな何人も妹贈らないよwww」

家康「ですよねwww」

秀吉「うちのお母さん」

家康「お母さんですか。いいですね。滅多に口にすることができない、希少価・・・お母さん⁉︎」

大政所(秀吉の実のお母さん)「人質になるね」

家康「あ、いや・・・いいんすか?」

お母さんもついてきました。

と、まぁこんな感じで、初心者が構えることなく流れを掴める一方、歴史を理解している人が肩の力を抜いて笑い飛ばすのも一興!(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605143026p:image

興禅寺(愛知県犬山市)

愛知県犬山市羽黒城屋敷 妙國山興禅寺

興禅寺山門脇にある開基梶原景時公碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160029j:image鎌倉幕府の功臣、梶原景時を開基とする興禅寺には景時夫妻の供養塔、梶原氏一族の墓、その子孫で織田信長家臣となった景義(景久)と東条松平忠吉付家老として犬山城主になった小笠原吉次の合葬供養塔がある。

梶原氏一族墓地f:id:shinsaku1234t501:20170621160055j:image梶原景時夫妻供養塔(右が景時、左が景時正室f:id:shinsaku1234t501:20170621160127j:imageなぜ、この地に梶原氏なのか?
景時・嫡男の景季・次男の景高らが駿河清見関の戦いで戦死したのち、景高の子 豊丸(のちの景親)を伴った乳母お隅の方が自分の出身地であるこの地まで連れてきたことにある。こうして、景親が羽黒城に土着したことによって、尾張梶原氏の子孫がこの地で脈々と代を重ね、景義(景久)織田信長(というより主に信忠)の家臣として石山合戦長島一向一揆戦、甲州征伐に従軍した。
しかし、「信長公記」によれば天正10年(1582)の本能寺の変明智軍の攻撃を受けて戦死したとされる。事実のほどは定かではないが、この頃に羽黒城が廃城となったのも、また事実である。

梶原景義・小笠原吉次合葬供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170621160203j:image関ヶ原合戦ののち、戦功著しかった家康の四男、東条松平忠吉が52万石の清洲城主として尾張に移封されると、これに際して家康の命を受けた小笠原吉次が付家老として犬山城に入った。忠吉が病没したのちも、小笠原吉次は下総佐倉・常陸笠間と移封したものの、慶長14年(1609)、家臣が家康に吉次の私曲を直訴したことで改易となり、以後は武蔵都筑郡池辺村に閑居し、元和6年(1620)に没した。

平成になってから梶原景義との合葬供養塔が建立された。おそらく慶長7年(1602)、吉次が犬山城下を整備する一環として興禅寺を羽黒城址である当地に移したことを顕彰する意味からであろう。

興禅寺裏に残る羽黒城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170621160239j:imageまた、興禅寺には山内一豊の母、法秀尼の生誕地碑もある。やはり梶原氏の出身と言われ、岩倉織田家の家臣である山内盛豊に嫁いで長男(早逝)・次男の十郎・三男の一豊・四男の康豊らを生んだ。(完)

法秀尼生誕地碑f:id:shinsaku1234t501:20170621160310j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142923p:image

嵯峨源氏と箕田館(埼玉県鴻巣市)

埼玉県鴻巣市箕田

氷川八幡社 箕田碑 f:id:shinsaku1234t501:20170620183314j:image嵯峨天皇第十二皇子、源融陽成天皇光孝天皇に仕え、左大臣を歴任した嵯峨源氏融流の初代である。
その次男の源昇も大納言となる。昇の次男の源仕武蔵国司として赴任したのが当地である。(箕田源氏初代)
この仕の嫡男が武蔵権介の源宛(箕田源氏二代目)で、当地で生まれたことから箕田源次と名乗ったが、21歳で早逝した。
宛の嫡男は源綱(箕田源氏三代目)だが、父の早逝により、摂津源氏 多田満仲の娘婿である源敦の養子となった。それに伴い、摂津西成郡渡辺に移住したことから渡辺源次を名乗る。
この渡辺綱は、のち摂津源氏 源頼光に仕えて四天王と称され、大江山鬼退治や一条戻橋で鬼の腕を切り落としたという伝説の存在となる。
その時の太刀が「髭切り」であるのは有名。また、この話から「全国の渡辺(渡部)姓を名乗る人の所には節分の鬼がやって来ない」という伝承が生まれた。

氷川八幡社 説明板f:id:shinsaku1234t501:20170620185105j:imageその子孫の摂津渡辺党は住吉付近で隠然たる勢力を保持し続けた。
綱の曾孫 渡辺久は松浦党として九州で活躍。
徳川家康の家臣で尾張藩付家老の渡辺守綱も子孫である。
なお、箕田二号墳は源仕夫妻の墓との伝承があり、宝持寺には源融から渡辺綱までの嵯峨源氏五代の供養塔が建立された。

箕田二号墳 説明板f:id:shinsaku1234t501:20170620185204j:image箕田二号墳(伝 源仕夫妻墓)f:id:shinsaku1234t501:20170620185245j:imageその発起人として嵯峨源氏顕彰会や全国渡辺会が名を連ねているのは以上の理由からである。(完)

曹傳山美源院宝持寺 嵯峨源氏供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170620185315j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142811p:image

木田余城 後編(茨城県土浦市)

茨城県土浦市木田余

信太範宗墓案内板f:id:shinsaku1234t501:20170226230823j:image信太範宗・正室・嫡男の墓f:id:shinsaku1234t501:20170226230918j:image木田余城址と線路を隔てた反対側の住宅地には信太範宗・正室・嫡男紀八の墓(市指定史跡)がある。範宗が殺害された後、正室と嫡男の紀八は自殺したとある。(完)

周辺の土塁と思われる高低差f:id:shinsaku1234t501:20170226230959j:imagef:id:shinsaku1234t501:20230605142703p:image