侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その6

五十人にも満たない兵力で挑む、この戦いをことさら有利に展開するため、彼らはさまざまな演出を凝らしていた可能性がある。近隣邸・部外者に対しては、討ち入りの挨拶・火気の始末など、実にあっぱれな仕儀を見せ、結果的に旧赤穂家臣に寄せる同情や人気は世論さえも動かしつつあった。

一方、吉良邸内での旧赤穂家臣はあまつさえ寝込みを襲い、弓の弦を切断して無抵抗に追い込み、離れの建物には外から雨戸を打ちつけて閉じ込める、一人の敵を多勢で取り囲む、眠りから飛び起きた吉良方がほぼ丸腰なのに対して旧赤穂家臣は鎖帷子まで着込んでいるなど、およそ我々のイメージする武士道に適ったとは言い難いほどの手段を使ってまでの必勝体制である。しかし、これも無理はない。旧赤穂藩士の正々堂々たる討ち入りという建前よりも、千載一遇のチャンスを逃すことなく吉良の首級を挙げることにのみ主眼が置かれていた紛れも無い証拠である。戦国時代の合戦のように敵軍を総崩れに追い込めばいいというものではなく、たった1人の仇敵の首を挙げなければ成功にならないのが仇討ちである。

ただ、こうまでして挑んだ旧赤穂家臣を忠臣と言うならば、この乱戦の中で主君吉良義央のために闘って斃れた小林央通・清水一学・須藤与一右衛門・鳥居正次らもまた忠臣と呼ぶべきだろう。

東京都中野区上高田4丁目 龍寶山萬昌院功運寺 吉良家忠臣供養塔f:id:shinsaku1234t501:20181231195121j:image特に山吉盛侍の場合、元来は上杉綱憲の家臣でありながら義周(上杉綱憲次男)が養子縁組で吉良家に入った時に扈従してきた小姓でしかない。彼の主君は厳密には義周であって義央ではないのだが、義周を守護するためにも吉良家臣として闘わざるを得なかった。顔に深傷を負った山吉は、事件後に改易となって信州諏訪へ配流となった義周に最後まで付き従い、その死を看取る。これぞある意味、忠臣蔵と言えよう。

さて、夜明け前に夜着のまま引きすえられた吉良義央を前にして、大石の胸中にあったものは何か。もちろん、騒動の一方の当事者であるため恨みもあったとは思うが、幕府からなまじお咎めなしとされたため、このような生き恥・死に恥を晒した吉良への一抹の同情だったかもしれない。

東京都墨田区両国 吉良邸址 吉良上野介首洗い井戸f:id:shinsaku1234t501:20170606211819j:image

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その5

しかし、浅野長広を擁したお家再興が潰えた時、彼の中から一抹の期待さえもが奪われた。生への執着を捨てなければならない決断の瞬間でもある。元筆頭家老として、また同志盟約の長として、もっとも避けたかった方向に進まざるをえない。筆舌に尽くしがたい思いがあったことだろう。「これで後顧の憂いなく討ち入りに踏み切れる」と勇躍したようには思えない。

その後、神文返しをして同志の気持ちを試したとされる一件があるが、様々な事情や立場から討ち入りの覚悟が揺らぐ者を仲間に加えれば、討ち入り前に情報が漏れたり、血気にはやってぶち壊しになる恐れがある。あえて偽りをぶつけて慎重に人を見極める作業と伝わる。

これも見方によっては、「事情が許さない者を無理やりに巻き込みたくない」という配慮と解釈することもできる。大石自身、同志盟約の長として16歳の長男主税を同志に加えざるをえない立場にあるが、巻き添えを最小限にしたい気持ちは一人の親として当然あったと思われる。まさにその対極にある例として、矢頭長助が17歳の長男 右衛門七に同志加盟を遺言してこの世を去ったことが挙げられる。

本来、江戸時代において仇討ちが公的に認められた例は、父母や兄など尊属に関する案件のみが対象とされ、妻子弟妹などの卑属や他人(友人や主君)の場合は認められていない。即ち、内匠頭の仇討ちには義務も権利も存在しない。にもかかわらず、世論の昂まりと同志の勢いに翻弄され、引きずられてきたのは大石だったとさえ言える。冷静に考えた時、赤穂旧臣の討ち入りは公的にも、法的にも合致したものではなく、単なる暴動として処罰、もしくは鎮圧される恐れさえある。そんな結果のために、家族まで巻き込んで苦しい生活に甘んじる必要があるだろうか。前途ある若者を犠牲にする必要があるだろうか。

実際、改易から討ち入りまでの期間においてほとんどの旧赤穂家臣は逼迫した生活を余儀なく強いられた。無理もない。支配層に属していた武士がひとたび浪人となれば、そんなに器用に市井で通用するはずがない。一部、商才や技能を持ち合わせた者だけがうまく世の中に溶け込んだだけである。討ち入りだけを願って困窮に耐える旧臣たちに死に場所を与えるのも、このまま市井で平穏に生きる道を選ばせるのも、大石にとっては討ち入り前の大事な作業だったような気がする。

それを経て「やらざるをえない」という引きずられるような思いから「敢然とやるしかない」という不退転の決意で臨んだ大石は、将軍お膝元の江戸市中で一大決戦に臨むことになる。

東京都墨田区両国3丁目 墨田区立本所松坂町公園 吉良邸址f:id:shinsaku1234t501:20180612215854j:image

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その4

冷静に考えれば、将軍生母桂昌院の栄誉に関わる式典という場所柄もわきまえず、主君浅野長矩が刃傷に及んだ以上、将軍家の怒りは尤もであり、お家再興など極めて難しい。

願わくば、長矩の弟、長広が小さくでもお家を残すことさえできれば、これ幸いである。たとえ小禄でもお家が再興すれば、そうそう簡単に討ち入るわけにはいかなくなる。それが叶いさえすれば、長広を支える家老の道もある一方、隠居して長矩の菩提を弔う後半生を送ることもできる。大石の心境としては、血気にはやって討ち入りを叫ぶ急進派を見るにつけ、その純粋さ(悪く言えば単純さ)が危うくもあり、うらやましくもあったに違いない。

京都府京都市山科区西野山桜ノ馬場町 神遊山岩屋寺 大石良雄君隠棲舊址碑f:id:shinsaku1234t501:20170705184101j:imageそこで、池田久右衛門と称して山科閑居中の遊興三昧に溺れていく。巷間で取り沙汰されるような世間の目をごまかすための仮の姿ではなく、本当に酒と娯楽、女性が好きで楽しいことだけを追求したというのが真相ではなかろうか。もちろん、煩わしさも忘れたかった。「できるなら、このまま時が過ぎてほしい」という本音さえあったのではないか。そのほうがはるかに人間味を感じるというものである。ひょっとしたら、遠くない将来に討ち入りをしなければならない覚悟や不安から、「今を楽しんでおきたい」というような刹那の思いがあったかもしれない。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。討ち入りにおける自身の死の可能性や親族の連座などを想定して妻理玖と離縁しながら、女中のおかるとの間に子を成したという事実である。もし全てが世間を欺くための策略と言うならば、類が及ばないように妻子を遠ざける一方で、愛妾が身籠もるという矛盾をどう説明すべきか。そもそも妻理玖も離縁当時、身籠っていた。離縁した後の寂しさや虚しさをおかるに求めた結果の妊娠なのか。策略よりも、むしろ大石の人間の尾を見る感じがする。

確かに、当時の伏見奉行 建部政宇が吉良の遠縁ということもあり、吉良方の警戒を解くために偽りの遊興生活を演じる必要性はあったかもしれない。実際、この策略説は江戸時代からまことしやかに伝わっていた。

「内藏助もとより志厚く智深ければ、これより妻をも出し、親族にもはなれ、京山科のほとりに閑居し、いささかも武を講ずるさまはなさず。日夜倡家に出入し、酒に沈酔し、ひたすら無頼の淫行をあらはし、報讐の志などあるべくもなくふるまひしかば、吉良が方にも初こそあれ、この風説を聞つたへ、さては心安しとて、戒心もをのずからおこたりしとなり。」                                 (徳川実紀 常憲院殿御實紀 巻四十六)

赤穂事件から百年を経た文化6年(1809)に起稿した「徳川実紀」でさえ、この説を取り上げている。ひょっとしたら、徳川家の正史という位置付けであるこの歴史書でさえ歌舞伎など脚色された巷説の影響を受けたのかもしれない。

しかし、こんにちに至ってはこれらの巷説がエスカレートするに及んで吉良・上杉や柳沢の間者が大石の命を付け狙うというハードボイルドな話にまで発展する。赤穂事件が忠臣蔵というチャンバラ活劇に置き換えられる所以である。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その3

実際、当時の大石の胸中は複雑極まりないものだったと推察される。例えば、赤穂藩改易が決定した時、大石がまず藩札の交換整理に着手している、という事実は、彼が誰よりも早く「お取り潰し」という現実を冷静に受け止めていた証拠となる。時代劇などでは、籠城派の大石と開城恭順派の大野九郎兵衛が対立構図で描かれることが多いが、大石の本音はむしろ大野の主張する現実論を十分に理解したところにあったと考えられる。

後世の我々は江戸時代を語る時、まるで藩と領民が一体化しているような感覚を抱きがちだが、多くの領民は領主と繋がっているのではなく、土地・風土の中にある。その証拠に武士層が藩主に殉じる生き方を選ぶ一方で、領民は新しい領主を迎えて今までの場所で以前通りの営みを続けていくのが常である。それが分かっていたからこその藩札交換整理であり、筆頭家老としての責任でもあった。

東京都千代田区千代田 江戸城址 松之大廊下跡碑f:id:shinsaku1234t501:20181020171914j:image一方で、赤穂開城時に収城使へお家再興を嘆願して以降、さまざまな形で運動を展開していく。「お取り潰し」の決定を耳にした時点で不可能と判断しながらも、その不可能を可能にすべく嘆願を続けていくのである。彼自身、矛盾した行動をとりながら、その虚しさや諦めを意識していたことだろう。しかし、筆頭家老の立場としては無駄と分かっていても進めなければいけない責任がある。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その2

愛知県西尾市吉良町岡山山王山 片岡山華蔵寺 吉良義央f:id:shinsaku1234t501:20180612211706j:imageそこで、また疑問に思うことがある。大石良雄の本当の狙いは吉良の首にあらず、片手落ちな裁決を下した幕府に対する挑戦だという、いかにもエンタテインメント的な味付けである。

果たして、そうだろうか。主君浅野長矩の即日断罪、しかも庭先での切腹、改易、長矩の弟長広を擁してのお家再興不許可、一方で吉良義央にはお咎めなし、というのは主君が引き起こした刃傷事件という不調法があるにせよ、大石からすれば踏んだり蹴ったりでしかない。

確かに、大石からすれば度重なる仕打ちともとれる幕府の処置には、ほぞを噛む思いがあったかもしれない。
しかし、これほどまでに仕打ちを受けた人間の心理として、そんな幕府相手にそれでも真摯な反省を求めるような一抹の期待を持って討ち入りをおこなうものだろうか。

むしろ、幕府に対して「目にもの見せてやる」と開き直って一矢報いるための実際行動に奔ったという見方なら、その追い詰められた心境は分からないでもない。それにしても、その影響で一家眷属に至るまで類が及ぶというリスクを考えると、亡き主君のための一途な忠義というのは、それほどまでに粘着力があるものだろうか。

現代人はエンタテイメントに感情移入するあまり、簡単に忠義の何たるかを理解したかのように言うが、自分がまさに当事者だったら家族と死に別れるかもしれない刹那的な生き方を選べる人はそんなにはいないだろう。そう考えた場合、四十七士というのは、当初の盟約から多くが脱落した結果の「たったの47人」と考えるべきかもしれない。一方で、何かしらの事情で脱盟した旧臣達を「不忠」とは一概には言えまい。

即ち、演出としての忠臣蔵とは参加しなかった人々を削ぎ落として討ち入った面々だけを忠臣に仕立てることで成立した戯曲である。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その1

時代劇の定番にして、出尽くした感が強い「忠臣蔵」。

浅野側を「善玉」・吉良側を「悪玉」とした明確な勧善懲悪設定のもとで、討ち入った赤穂義士には毎回喝采が沸き起こる。

そもそも、この有名なストーリーは歌舞伎を上演するにあたり、幕府の目を憚って塩冶判官と高師直に置き換えた南北朝時代の設定で繰り広げられてきた。足利尊氏の腹心で、敵には恨まれ、味方にも恐れられた高師直は、そういった意味では格好の悪役であった。個人的には、その師直を配された吉良にはいささか同情する。

栃木県足利市菅田町 菅田山光得寺 高師直供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170310145748j:image実際の吉良義央は地元の三河吉良では名君と慕われる一面を持ち、風雅の道にも長けた人物でありながら、なにせ高師直なのである。この歌舞伎の演出が、数百年間にわたって吉良義央の人物像を歪曲し続けたことは間違いない。

昨今では、そのイメージを見直そうとする小説や研究も多々発表されているが、なお恐ろしいのは演劇となると吉良を主役、もしくは擁護する作品はない。それほど吉良の事情や心理から赤穂事件を描くことは難しいものなのか。かろうじて、吉良も犠牲者だという視点で描く作品では、必ずといっていいほど幕府(徳川綱吉柳沢吉保ら)を黒幕とする形になる。

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。

愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址前田利家卿誕生之遺址碑)f:id:shinsaku1234t501:20180812121034j:imageさて、その利昌には利春という別名がある。歴史上の人物には幼名や通称、別名、法名など、さまざまな名があるが、この利昌についてはいささか特異な事情がある。

宝永6年(1709)2月15日、翌日に予定されている新将軍 徳川家宣寛永寺参詣に関する老中奉書を回覧中、織田秀親(大和柳本藩主)が同役の前田利昌(加賀大聖寺新田藩主)に見せようとしなかった。かねてより仲が悪かったがゆえの嫌がらせと考えられる。

そして、翌日、織田秀親は寛永寺吉祥院にて前田利昌に殺害される。利昌の家臣 木村九左衛門が秀親を後ろから羽交い締めにした上で、利昌が刺殺したのである。有名な浅野内匠頭の刃傷事件から8年後の凶行であった。

武芸達者で体格の大きい秀親が厠に立った隙を突いて、打ち合わせ通り家来に羽交い締めをさせる用意周到な策だった。実は前日、利昌が腹心の木村に計画を打ち明け、「浅野内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられたはずだ」と語ったという。

18日、利昌は切腹し、お家断絶となった。思い返せば、前田利家の子孫が織田有楽斎の子孫を殺害したのである。この一件を受けて、加賀金沢前田家は幕府を憚って、祖先である利昌を利春に改名したという。祖先の利昌には何らの落ち度もないので気の毒な話ではあるが、刃傷事件を起こした子孫が未来永劫、「利昌」として世間に記憶されていく以上、同名の祖先を改名するしかなかったのだろう。こうして、利昌が利春と伝わったと考えられている。

戦国の世に前田家勃興の糸口を作った前田利昌は、後世、不始末を起こして没落した子孫によって前田利春と書き換えられるに至った。誠に稀有の例と言えよう。