侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その11

8月23日、大垣城から岐阜城への援軍が出撃した場合に備えて後詰していた黒田長政藤堂高虎田中吉政らが岐阜城下に到着すると、もはや落城の様相を呈していた。

岐阜県岐阜市金華山天守岐阜城復興天守f:id:shinsaku1234t501:20170918011737j:imageそこで、手柄を求める彼らは独断で大垣城目指して進軍を開始した。そして、大垣城東方の合渡川付近で西軍らしき軍勢を確認した諸将は直ちに軍議を開いたが、連日の豪雨で増水した川の渡河を巡って議論がなかなか決しなかった。

その時、藤堂が黒田隊の後藤基次に諮問したところ、「軍議で無駄に時を費やすよりも、内府に面目を立てんとするなら討ち死を覚悟するのが本懐である」と返答をした。ここでも1人の人物の言葉が戦局を変えた。

こうして、合渡川合戦は後藤又兵衛が一番槍で濁流を渡河し、前野忠康(舞兵庫)率いる三成隊を駆逐した。墨俣に陣していた島津義弘は兵を整えて横合いから攻撃を加えれば勝てると力説したが、三成はこの意見を退けて大垣城へ退却する。

「義弘曰く、前軍敗ると雖も、吾と子と兵を整へ横撃せば則ち勝たんと。三成曰く、敵兵鋭進す。岐阜蓋し陥るならん。吾れ已に援くる能はず。何ぞ新勝の鋒に当るべけんやと。敗兵を収めて、倶に大垣に還る。」(日本外史

特に「吾れ已に援くる能はず」という表現に注目すれば、「三成が岐阜城を救援するのは無理だ」と匙を投げている、一矢を報いようともしていない、弱気な様子が見て取れる。その結果、戦勝の余勢を買った黒田隊を先頭に大垣城西北の赤坂まで進み、岡山(関ヶ原の勝利にちなんで、のち勝山と改称)を占拠した。翌日、岐阜城の東軍主力も赤坂周辺に布陣した。

同時期に大垣城に到着した宇喜多秀家が、赤坂の東軍陣地の夜襲を提案するが、やはり三成が却下する。西軍が全勢力を結集してから決戦に及ぶべしと言う理由だが、その頃には東軍も家康以下全軍が結集する可能性がある。「三成は年上、私は年下、年上と対立することはしないが、その代わり後悔はしないように」と、宇喜多の恨み節が垣間見える。

我が軍尽く至らば、則ち敵軍も亦た尽く至らん。勝其れ決すべけんや。然りと雖も、子は老輩の言を称す。吾は後生なり。敢て違はず。唯々子、これを悔ゆるなかれ」(日本外史

これらの勝報を得た家康は、愛妾お梶の方(関ヶ原の勝利にちなんで、のちお勝の方と改名)を同道して9月1日に江戸城を出陣、同14日昼頃に美濃赤坂の岡山に到着した。とうとう家康と合流した東軍の勢いは西軍の動揺を誘い、一部では兵の逃亡も発生した。そこで、西軍の士気低下を怖れた嶋清興は三成の許可を得て一戦を試みたのである。

同日夕刻、左近の手勢が赤坂の手前で刈田を仕掛けたところ、東軍の中村一栄と有馬豊氏らが杭瀬川付近まで深追いしてきた。このタイミングで一色村に潜んでいた伏兵が襲いかかり、作戦通り宇喜多秀家隊の明石守重も襲撃に加わった。結局、家康の命を受けた井伊直政本多忠勝らが出撃して殿軍として退却を完了したものの、中村一栄の家老 野一色助義はじめ40名ほどが戦死した。こうして、嶋左近の鬼謀が轟いた杭瀬川合戦は西軍が勝利した。

この直後の軍議において左近と島津義弘小西行長らは、赤坂岡山の家康本陣に対する夜襲を提案したが、三成によって却下された。さきの合渡川合戦における退却といい、今回の夜襲却下にも納得がいかない島津義弘は、いよいよ翌日の本戦における不参戦の覚悟を固め、またしても三成の勇の無さが左近の策を退けたことになる。

俗に「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われた左近であるが、これは単に左近が有能な人物であると言うだけでなく、その有能な人物を十二分に使いこなせていない三成への皮肉でもあり、献策を受け入れてもらえないにも関わらず、その三成に惜しみない忠義を尽くして死んでいった左近を惜しむ言葉にも聞こえる。

なお、巷で有名な三成が左近を破格の石高で招聘したというエピソードは、実は三成がまだ秀吉の小姓だった頃に知行5百石全てを投げ打って渡辺勘兵衛を雇った実話がベースと考えられる創作の可能性がある。普通に考えて、後から仕官してきた左近が三成の知行の半分で雇われたとなれば、古参の重臣が不愉快になるというものである。美談のように見えて、実はお家騒動の原因にもなりかねない。

豊臣家臣団 その10

こうして、家康が武断派を上手く自陣営に取り込み、三成ら文治派への憎悪の念を利用した結果、村越直吉の一言に奮起した東軍は、8月21日に上流隊と下流隊の二手に分かれて清洲城を出陣することになった。

池田照政・その実弟羽柴長吉(のちの池田長吉)浅野幸長山内一豊一柳直盛ら上流隊1万8千人は、8月22日明け方に河田の渡しで織田秀信隊と前哨戦を演じたのちに小屋場島で陣を整え、同日昼頃、さらに木曽川を渡った米野で石田三成からの援軍を含む織田隊との決戦に勝利、東南から岐阜城を目指して進軍した。

岐阜県各務原市川島笠田町6丁目 小屋場島の陣跡碑(池田照政・山内一豊ら東軍の木曽川渡河直前の陣地)f:id:shinsaku1234t501:20170911220919j:image米野の後方に布陣していた秀信は急ぎ退却して岐阜城に籠城した。秀信とは、亡き信忠の嫡男として清洲会議で織田家の家督相続者と位置づけられた三法師、その人である。当然、豊臣秀吉には大恩がある。

しかし、一方では家老の木造具康が「公、右府の嫡孫を以て、顧つて豊臣氏の家奴に役せらるるか」(日本外史)と再三に亘って西軍への同心、すなわち豊臣家の風下に就くことを反対していた。

岐阜県各務原市川島町 米野の戦い跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170914101201j:image一方の下流隊は福島正則・長岡忠興・黒田長政加藤嘉明藤堂高虎京極高知井伊直政本多忠勝ら1万6千人で構成され、河田の渡しよりもはるか下流の加賀野井から渡河、8月22日午前8時から午後4時ぐらいまでかけて杉浦重勝の籠る竹ヶ鼻城を攻略した。その後、西南方向から岐阜城に迫ったが、すでに岐阜城下に入っている池田・浅野らの隊に追いつくための夜間強行軍だったようで、長岡忠興などは馬上で湯漬けを食したという。

岐阜城下に到着すると、池田照政ら上流隊に出し抜かれた怒りをぶつけた福島が池田に対して刀に手をかけるほどの喧嘩を始め、長岡や加藤嘉明らが必死に止めに入る場面すらあった。家康からの目付として従軍していた井伊直政本多忠勝らの心労は察して余りあるだろう。

こうして岐阜城下に集結した東軍は、8月23日、たった一日にして岐阜城を攻略した。落城寸前に自害しようとしていた織田秀信を説得して思いとどまらせたのは池田照政であり、その戦いぶりを賞賛し、自らの武功と引き換えに家康に助命嘆願したのは福島正則高野山まで送り届けたのは浅野幸長であった。

秀信は岐阜城下で剃髪の上で高野山蟄居となったが、信長と対立した過去を持つ高野山側としては、その孫を受け入れるのにはかなりの抵抗があり、入山はできたものの周囲の冷ややかな対応に耐え切れず、5年後に下山した直後、麓の村で生涯を終えたというのは誠に気の毒である。

往時、織田信秀・信長の二代に亘り斎藤氏を斃して攻略するまでにかなりの年月を要した岐阜城は、信長の孫の代になったら一日で陥落した。攻め手の中に岐阜城を熟知している旧城主 池田照政がいるという具体的な理由もあるが、東軍の勢いが優っていたと見るべきか、各方面に散らばるあまり岐阜城を全面的に応援できなかった西軍の事情があるのか、およそ天下分け目とは思えないあっけない前哨戦である。

豊臣家臣団 その9

8月19日、家康の命で村越直吉が清洲城に到着した。江戸城に腰を落ち着けて出陣する気配すらない家康に不満を抱く諸将からの抗議に対して「敵方と戦端を開けば、江戸を出馬するだろう」と言い放った。

「茂助申し候は、御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)

「一先ず手合わせの一戦し、敵味方手きれの証拠をきつと見せられ候はば、悦び思し召すべく候」(関原始末記)

かつて秀吉から引き抜きを受け、のちには老中格にまで出世する村越だが、一つ間違えれば東軍諸将の怒りを買わないとも限らない挑発的な言葉である。

東軍は家康という最大の実力者を擁してはいるものの、その実は豊臣恩顧がかなりの割合を占めている外様大名の混成部隊である。村越はその事実に配慮するどころか、戦う姿勢を見せない諸将を「家康は信用していない」と露骨に言ってしまった。家康があの手この手で諸将を繋ぎ止めているのとは真逆の言葉である。

果たして家康が村越に託した言葉なのか、それとも沸き立つ清洲城内の雰囲気を受けて咄嗟に口を突いて出た村越の方便なのかは分からないが、もし家康が言わせた言葉ならば、承久の乱において出陣する鎌倉武士を前にした北条政子の檄を彷彿とさせる。この時も、鎌倉武士の中には朝廷を敵にすることに躊躇を覚える者が少なくなかった。

そもそも「敵味方手切れの証拠を見せろ」とまで強気な態度に出られるのには理由がある。前述の通り、会津上杉征伐からの一貫した流れの中で討伐目標が変更しただけで、今でも東軍は秀頼を擁した軍勢なのである。「西軍と戦わないのは(秀頼に対する)不忠であり、家康はそんな不忠者を信用できない」というロジックが成立するのである。こういう狡猾な部分が、後世家康の嫌われる所以と思われるが、一方で巧みな政治力と評価することもできる。

こうして、まさに火がついた東軍は木曽川を渡河した勢いそのまま、8月23日には岐阜城を攻略した。このワンシーンに登場した村越の一言が、膠着していた戦線を劇的に変えたと言っても過言ではない。東軍諸将は家康の幕下のつもりだったのだろうが、一転して秀頼を奉じた家康に与力する自覚を強くした。さらに、西軍に勝つというよりも、東軍の中で諸将が手柄を競う状況まで発生したのである。

俯瞰して見ると、家康が戦ったのは関ヶ原本戦だけである。それまでの前哨戦は全て東軍諸将及び濃尾の地元衆の活躍によるものである。村越のエピソードも含め、家康の武将の使い方が際立った結果でもある。

美濃の地図において岐阜城を中央とすれば、西には西軍主力が屯集する大垣城、東には尾張に入り込む形で犬山城がある。その岐阜城を中央突破した東軍は西の大垣城に肉迫する。

残る犬山城も援軍を出すことすらできず岐阜落城を見届けるしかなかった。その後、東軍の攻撃を受けると、稲葉貞通稲葉典通稲葉方通加藤貞泰関一政竹中重門ら西軍の援軍として籠城していた美濃衆が、こぞって東軍の井伊直政に内通を申し出た。孤立した城主 石川貞清はやむなく開城し、関ヶ原の本戦では宇喜多秀家隊の一翼を担った。

愛知県犬山市犬山北古巻 犬山城天守f:id:shinsaku1234t501:20170918001156j:image

豊臣家臣団 その8

「打倒三成」を合言葉に熱量を帯びた東軍に引き換え、密かに家康に通じる増田長盛・いきがかりで西軍に属すことになった島津義弘・家中分裂の後味が悪い宇喜多秀家・一族の意見統一が図られない毛利輝元、調略の手が深く入り込んだ小早川秀秋(のちの小早川秀詮)など、西軍には東軍の比にならないほどのマイナス要因が内蔵されていた。

もちろん、山城伏見城合戦以降、伊勢松坂城・丹後田辺城・伊勢安濃津城・近江大津城など前哨戦において軍勢が各地に分散するあまり、連絡の不徹底や準備が整わない状況があったことは否めない。とても、三成だけに責任転嫁はできない。

西軍としては当初、福島正則の居城 清洲城まで飲み込み、三河との国境を戦場とする策であったが、なにせ東軍は下野近辺から全くの無傷で進軍してきたこともあり意気揚々である。犬山城は確保できたものの、清洲城代 大崎長行が家中の意見を統一して籠城の構えを見せたことで尾張に橋頭堡を築くことができなかった西軍は、木曽川を挟んだ美濃で東軍を待ち受けるしかなかった。「関ヶ原の勝利は大崎宇右衛門(玄蕃允)が清洲城を丈夫に持った手柄にある」とは、家康がのちのちまで語った言葉である。

愛知県清須市清洲古城 清洲古城公園 清洲古城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20170718003932j:imageその昔、承久の乱において木曽川を挟んで迎撃した朝廷方が敗れた故事にもあるように、複数の隊が川の上流・中流下流のいたる所から同時渡河を敢行した場合、迎撃する側は戦線が伸びきって軍勢が細分化する対応を迫られる。「吾妻鏡」を愛読していた家康なら承久の乱の渡河戦に学んで、川を渡る側に利があることを知っていた可能性は十分にある。

8月14日、清洲城に集結した東軍諸将の中で福島正則・池田照政・山内一豊一柳直盛織田有楽斎・生駒一正・生駒宗直(のちの生駒利豊)小坂雄長兼松正吉森可政森可成の弟)などは、いずれも尾張出身者である。

愛知県江南市小折町八反畑 宝頂山墓地 手前の石廟が生駒利豊墓、奥の石廟が正室(遠山友政女)墓f:id:shinsaku1234t501:20170921092841j:image中でも生駒宗直の場合、美濃岐阜城織田秀信は従兄弟である信忠の子にあたる。当然、姻戚の縁を頼って岐阜城から西軍への同心要請が再三に亘ってあったが、それよりも先に清洲城福島正則会津上杉征伐に出陣する際に小折城に立ち寄り、きたるべき時の同心を約束した事実もあり、東軍同心の姿勢を貫いた。

また、森可政は木曽川に面した尾張葉栗郡の蓮台城出身であり、一柳直盛(尾張黒田城主)と兼松正吉(尾張島村城主)も木曽川にほど近い地を領していた。おのずと地の利がある。

愛知県一宮市木曽川町黒田字古城 黒田城址f:id:shinsaku1234t501:20170929203738j:imageその証拠に、いち早く8月16日に清洲城を出陣した東軍の別働隊(尾張赤目城の横井時泰・美濃松ノ木城の徳永寿昌・美濃今尾城の市橋長勝ら)は、大垣以西に分布する西軍と伊勢方面の遮断のために福束城・高須城などを攻略して、南濃方面を崩した。

もちろん、西軍にも美濃の小領主が多数いたが、東軍の尾張・美濃衆が別働隊として局地戦を巧みに展開したのに対し、西軍の美濃衆は後詰、もしくは与力のような形に置かれ、およそ活躍が見られなかったと言える。

後述するが、西軍が尾張はともかく木曽川から大垣、さらに関ヶ原と戦線を徐々に後退していった背景の一つとして、両軍の地元衆の動きにかなりの差があると考えられる。

豊臣家臣団 その7

また、三成は督戦という形で伏見城攻撃に姿を現しただけで、丹後田辺城・伊勢松坂城・同安濃津城・近江大津城などの攻城戦には関わっていない。そこには重要な共通点があるように思われる。

伏見城鳥居元忠はじめ家康家臣が相手であるが、他の城はいずれも豊臣恩顧が相手である。そのせいか、松坂城以外は降伏開城となったものの、城主を血祭りにはしていない。

三重県松阪市殿町 松坂城f:id:shinsaku1234t501:20170911120548j:image丹後田辺城の長岡藤孝は、東軍の長岡忠興の父である。籠城の末、勅命に従って開城し、西軍の前田茂勝前田玄以嫡男)に迎えられ、丹波亀山城に移った。

伊勢安濃津城の富田信高分部光嘉らは、高野山青巌寺の元住職 木食応其の仲介で開城勧告に応じたのち、高野山に蟄居した。

三重県津市丸之内 津城天守f:id:shinsaku1234t501:20170914130246j:image近江大津城の京極高次は、東軍の京極高知の兄である。当初は西軍であったが、東軍に寝返って籠城した。これも木食応其の仲介で開城勧告に応じたのち、高野山に蟄居した。

福島正則の居城 清洲城にしても、城明け渡しを要求しただけで軍勢すら向けていない。

徳川家の伏見城を力ずくで落城に追い込んで梟首までおこなったのに比べて、豊臣恩顧の城には明らかに寛大、いや腰の引けた対応である。特に京極高次の場合、西軍から東軍に寝返って籠城したこともあるので、処刑、もしくは切腹に値すると思うが、蟄居で赦されている。それもこれも、豊臣恩顧を敵に回したくない気持ちの表れなのか。

もちろん、攻城に直接関与していないので、三成の意思によるかどうかも定かではないが、開城の条件がしっかりと遵守された感はある。

よくよく考えると、東軍の武断派諸将が三成を襲撃するほど憎んでいたのに対し、三成は関ヶ原合戦終結まで不思議なほどに豊臣恩顧の武将を害していない。同じ豊臣家臣団としてどこかで寝返ってくれることを最後の最後まで期待していたのであろうか。

ともかくも、東軍との決戦を前に、これらの地方戦を長引かせるのは西軍としては得策ではない。降伏させることができれば御の字という部分はある。

しかし、歴史的結果として丹後田辺城の戦いでは小野木重次・前田茂勝ら、近江大津城の攻城戦では、毛利元康・立花宗茂筑紫広門らを釘付けにして関ヶ原への合流を許さなかった点において、西軍の勢力を削ぐに十分な効果があった。

京都府京都市左京区田中門前町 長徳山功徳院百萬遍知恩寺 鳥居元忠f:id:shinsaku1234t501:20170831011827j:image

豊臣家臣団 その6

そもそも、豊臣家の一奉行でしかなかった三成が、毛利家や島津家の上に立って西軍を指揮するカリスマにはなれるはずもない。彼は豊臣家の忠実な吏僚の立場で誰よりも家康を警戒するがゆえに手を組むことを許さなかっただけである。

本来、石田三成長束正家らは計数管理ができる有能な行政官吏であった。しかし、秀吉没後の混沌とした政治情勢に必要なのは計数ではない。

一方で、あの家康がおこなったのは往年の秀吉の立ち回り、すなわち「人たらし」である。秀吉没後から婚姻関係を結んだり、関ヶ原合戦終結まで夥しい数の書簡を送って微に入り細に入り、諸大名の心を掴む努力をしていたと言える。

のちの項で詳しく述べることになるが、家康の娘(養女を含む)と婚姻を結んだ大名からすれば、家康のほうから人質を差し出されたことを光栄とも、信頼されているとも受け取るだろう。また、自分自身、もしくは一族が家康から諱を賜ることも恐れ多いことである。関ヶ原前後の筆まめとも言うべき書簡の数も言うに及ばずである。

対して三成の誤算は、西軍の掲げた「内府ちかひの条々」という大義名分さえあれば、家康に従うつもりだった大名が翻意すると本気で思っていたことにあるのではないか。おそらく前項で紹介した大谷や左近の本音からすれば、秀頼の名義を得ていないこのスローガンにどれほどの説得力があるかなど推して知るべしだったと思われる。

ちなみに関ヶ原合戦大義名分は、会津上杉征伐からの流れである以上、東軍が一貫して秀頼の台命による軍勢である。西軍が「内府ちかひの条々」を発して家康を糾弾したとしても、それは秀頼の名義ではなく、増田・長束・前田玄以ら三奉行の連署でしかない。むしろ、秀頼の名義ではない勝手な言い分を押し立てて挙兵した西軍は、亡き秀吉の定めた惣無事令に違反して私戦に及んだことになる。家康からすれば、豊臣家の名の下、遠慮なく叩き潰せるとほくそ笑んだかもしれない。

しかし、東軍に奔った武断派諸将にとっては大義名分といった理屈よりも、三成らが許せないのである。家康の力を借りて三成ら文治派を排斥できれば豊臣家の安泰は図られると信じている。

さらには大義名分が十二分に威力を発揮するためには、計数ではなく、政治力と軍事力が備わっていなければならない。

滋賀県彦根市古沢町 弘徳山龍潭寺 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170726203352j:image三成にとっての仮想敵は家康でしかないが、当の家康は三成の正面に武断派の豊臣恩顧を当ててきたのである。さすがの三成も嫌われてはいるものの、同じ豊臣恩顧の福島正則浅野幸長らと矛を交えるにはいささかの躊躇がある。むしろ味方につけたい気持ちすらある。

その気持ちは、大名の妻子を人質に取ったことに如実に現れている。家康のように約定の証し・友好関係の保持を目的とした意味での婚姻や出仕という人質ではなく、東軍に属している諸将を西軍に寝返らせる手段としての強制収容を発したのである。

しかし、家族可愛さのあまり西軍に味方する者が現れるだろうという計算は見事なまでに外れ、むしろ東軍諸将の三成への憎悪が増しただけ逆効果であった。また、西軍は大義名分のためには人質という卑劣な手段を使うという矛盾とイメージの悪さを持たれてしまった。長岡忠興(のちの細川忠興正室ガラシャの死はその最たる例である。

大阪府大阪市中央区玉造2丁目 大阪カテドラル聖マリア大聖堂 細川ガラシャf:id:shinsaku1234t501:20170726210034j:imageさきに大義名分について述べたが、家康が大義名分に必要な政治力を発揮して武断派という軍事力を手に入れたのに対し、三成は人質の強制収容に軍事力を発動したことで政治力の無さを露呈してしまったというのは、誠に皮肉と言える。 

豊臣家臣団 その5

また、家康の密命を受けた柳生宗矩が、同じ大和出身の嶋清興(石田三成家臣)を調略すべく訪問した時の会話も「常山紀談」に所収されている。嶋左近は三成について語った。

「然るに去年より度々仕課すべき圖を空しく外し給ふ事多し。既に時を失ひぬ。能々世の有様を見るに、石田の家を悪む人々、大かた徳川殿に心を寄せたり。當家の存亡計るべからず。一日の過ぐるも殘り多し。只理を非に曲げて、唯今まで疎遠の諸大將達へも遜りて、遺恨無く計ひて交り親しみ、暫く時を待つべきも一つの計策にてこそ

先に紹介した大谷吉継の三成評にも共通するが、三成は勇(決断力)が足りないばかりに大事な局面で空しき失策が多い。また、石田家を憎むほとんどの人々が、徳川家に心を寄せている。この際は、今まで疎遠になっている武断派ほか諸将にへりくだってでも誤解や遺恨を解消し、親しく交際することで時を待つのも一策、と献策したが、三成が受け入れるはずがない。

「常山紀談」は、関ヶ原合戦から170年を経た明和7年(1770)に完成した逸話集なので、当時の事実がどれほど反映されているかは、もちろん懐疑的である。
また、大谷が友人関係ゆえに三成に忌憚の無い意見をするのは大いにあり得ることだが、嶋左近が敵方の柳生宗矩に主君三成への批判を詳細に話すというのはいかがなものか。

しかしながら、話のシチュエーションはさておき、盟友である大谷、股肱の臣である左近、二人が三成に抱く不安がほぼ共通しているというのは注目に値する。彼らが奇しくも家康の声望を十二分に理解しながら、危うき三成に殉じたからこそ、その壮絶な戦死に後世の我々は魅了されるのであろう。さしもの足利尊氏という敵を理解しながらも立ち向かった楠木正成に似た心境であろうか。

結果、豊臣家第一主義者である三成は秀頼に殉じたつもりだろうが、現実的なビジョンを持っていたこの二人はその三成に殉じたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 笹尾山 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170929204012j:imageまた、増田長盛にしても西軍に属して大坂城に留まりながら、家康に上方の情勢を密書で送るなど、密かに誼を通じていた。

ところで、関ヶ原で西軍が勝利していたら、三成はどのような世を創るつもりだったのか。その政治構想を伝える書は見つかっていない。「大一大万大吉」の旗印に象徴される万民の平和を請い願う人物なのだろうか。近江佐和山の領民には慕われていたと思うが、地元民に支援されるのは、こんにちの政治家とて同じである。その程度で名君と断じることはできない。

まず言えることは、関ヶ原前後の諸将との関係性を見ても、彼は徹頭徹尾たる豊臣家第一主義者でしかない。仮に徳川家が滅びても、豊臣家に対する次の仮想敵を想定して政争を始める雰囲気を受ける。

そもそも、彼の理想が多くの人々に受容されるものならば、紹介したような「常山紀談」のエピソードはありえないし、もう少し賛同者がいてもいいはずである。

嶋左近の献策通り、馬が合わない武断派と相互理解を深めることで豊臣恩顧の分裂を防ぎ、家康との戦いを回避して秀頼の成長を見守るという臣下の道もあったはずである。その深謀遠慮をせず決戦に及んだということは、彼にはそれ以上のビジョンが無かった、もしくは見えていなかったと言われても仕方がない。

某所 石田三成f:id:shinsaku1234t501:20170724175952j:image