侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

勃興の前田利昌

前田利家は言わずと知れた加賀・能登の太守だが、その出身地は尾張海東郡(愛知県名古屋市中川区)である。正確な誕生地については、父利昌が天文年間まで居住していたとされる前田城、移住先の荒子城と2つの説が存在する。

出自も利仁流藤原氏を祖とする説と菅原氏とする説がある。ただ、菅原氏との関わりを窺わせる根拠として、利家の父、前田利昌が荒子城を築いた際、城内の鎮守として冨士浅間権現と天満神を勧請した。天満神とは即ち菅原道真を指す。のちに前田利家・嫡男利長らが転封したことで廃城となるが、現在も合祀した形で冨士大権現天満天神宮が残っている。

元々、蔵人利昌は尾張前田城を居城とする前田与十郎家の分家筋と伝わるが、実のところこれさえも系図が定かではない。ただ、本家とされる前田城の与十郎家の当主種利は、織田信長の家臣、佐久間信盛と姻戚関係を結びながら、立場としては林秀貞・通具兄弟の与力であったという。

愛知県名古屋市中川区前田西 岡部山速念寺 前田城址f:id:shinsaku1234t501:20180812121528j:image佐久間家も林家も信長の下で重臣となる家柄だが、それはのちの話であって、天文・弘治年間は敵味方と言っていい。というのは、佐久間信盛は信長側、林秀貞・通具らは信行(信勝)側という織田信秀の跡目相続争いの渦中にあった。秀貞は目立った反抗はしていないが、弟の美作守通具は弘治2年(1556)8月24日の稲生原合戦で信長の槍に斃れたほどの人物である。この戦いに種利の嫡子で当主の長定も参戦したという。

一説にはこれにより、信長が与十郎長定から荒子城を召し上げ、分家とされる前田利昌に二千貫で与えたという説もある。とすれば、利家の生誕地はそれ以前の前田城ということになる。

以後、与十郎家は姻戚でもある佐久間信盛の与力として、蔵人家は林秀貞の与力として織田信長に仕えていくことになる。

愛知県名古屋市中川区前田西 岡部山速念寺 前田与十郎家墓地f:id:shinsaku1234t501:20180812111022j:image

臼井城 後編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園

こうして、永らく臼井氏の居城だった臼井城は千葉胤富の家臣、原氏の時代を迎える。

しかし、永禄9年(1566)3月20日上杉輝虎の関東出兵に従う結城晴朝・酒井胤治ら、さらに呼応した里見義堯・里見義弘らの大軍に四方を包囲されるという最大の危機に瀕する。この時、結城晴朝の軍には臼井城を我が手に戻す意気込みの旧主 臼井久胤の姿があった。

千葉県佐倉市王子台 一夜城公園 謙信一夜城址f:id:shinsaku1234t501:20180712203249j:image戦局は多勢に無勢のため、「鑁阿寺文書」に「臼井之地実城堀一重ニ致之」とあるように、上杉・里見連合軍が堀を挟んで本丸にまで迫った。

臼井城本丸土塁と空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203343j:imageこの窮地に、原胤貞は多部田城主で軍配師の白井入道浄三こと、白井胤治(別人の白井胤定とする説もあり、実在も定かではない)に作戦を委ねる。胤治は占術で策を練った。

臼井城本丸空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203443j:imageまずは無数の敵軍が取り付いた頃合いを見計らって城壁ごと堀に突き落とすことで一瞬にして数百人を圧死させるなど、楠木正成さながらの奇策を用いて敵軍を翻弄した。さらに、北条氏康からの援軍 松田康郷が本丸から討って出ると「赤鬼」と呼ばれる鬼神の働きで敵軍をなぎ倒した。

臼井城本丸虎口f:id:shinsaku1234t501:20180712203523j:image海上年代記」に「房州人数三百余人打ち死に」とあることから、房州、即ち安房里見軍の戦死者数のみを伝えている。

一方、「戦国遺文」では上杉軍に数千人の死傷者が出たとしている。この上杉軍が里見軍を含めた人数なのか、また戦死者だけでなく、負傷者も混在した人数であることは気をつけなければならない。

また、「諸州古文書」によれば、北条氏政武田晴信に送った書には「敵数千人手負死人出来」と記載があり、正確な死傷者は分からないものの、やはり数千人と伝わっていたようである。

さらに、「豊前氏古文書抄」所収の豊前山城守宛て足利義氏の書では「去廿三日大責致し、五千余手負い死人出来せしめ、廿五敗北の段」として、3月23日の大敗で5,000人以上の死傷者と他に比べて具体的な数字を示しているだけでなく、25日に敗北したとしている。

臼井城本丸物見櫓址f:id:shinsaku1234t501:20180712203606j:imageこうして甚大な被害を被る中、輝虎の陣に近江矢島村滞在中の足利義秋から書(3月10日付)が届いた。北条氏康との和睦及び室町幕府再興のための上洛を要請する内容であった。それが原因か定かではないが、輝虎は4月半ばに撤兵を決断した。

臼井城本丸切岸f:id:shinsaku1234t501:20180712203658j:image余談ではあるが、上杉輝虎、即ち不識庵謙信は川中島合戦に代表されるように屈指の強さを誇る戦国大名の代表格とされるが、実のところ、関東管領職にありながら関東ではほぼ爪痕を残せなかったと言っていい。

俗に、北条氏・武田氏・上杉氏の攻防を指して「関東三国志」と例えるが、この上杉氏撤退を契機に北条氏は関東の守りを強固なものとし、武田氏は武蔵・上野など北関東への進出を図った。また、由良成繁(上野金山城主)は上杉氏から離反して北条氏に帰属、上杉氏の影響力が無くなった常陸では佐竹氏が台頭することになった。

臼井城 前編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園

下総臼井城は、千葉常兼の三男 臼井六郎常康の築城とされるが定かではない。

文明10年(1478)12月10日の境根原合戦(千葉県柏市)で太田道灌・千葉自胤らに敗れた千葉孝胤は、臼井俊胤の居城 臼井城に籠城した。

千葉県柏市光ヶ丘団地 酒井根合戦場址説明板f:id:shinsaku1234t501:20180712185109j:image千葉県柏市光ヶ丘団地 酒井根合戦場址 首塚か?胴塚か?f:id:shinsaku1234t501:20180712185212j:image翌年、太田道灌・千葉自胤らは臼井城を包囲し、同年7月に攻略した。しかし、籠城軍の総攻撃を受けた道灌の弟(もしくは甥)にあたる太田資忠が戦死するという代償も生じた。

臼井城三ノ丸 太田資忠墓 f:id:shinsaku1234t501:20170529001311j:imageその後、足利義明小弓公方を称すると、当時の城主 臼井景胤(臼井俊胤嫡男)は千葉勝胤(千葉孝胤嫡男)と決別して足利義明に仕える。しかし、天文7年(1538)の第一次国府台合戦で義明が戦死したため、千葉勝胤への帰属を選ぶ羽目になった。

これで平和が到来したと思いきや、下総屈指の要衝に、またしても危機が到来する。と言うのも、永禄4年(1561)、里見義堯の家臣、正木信茂の来襲を受け落城の憂き目に遭うのである。

外祖父である原胤貞の元で傀儡の状態にあった臼井久胤(臼井景胤嫡男)は落城の混乱に紛れて脱出し、下総結城城の結城晴朝を頼る。それから数年後、第二次国府台合戦で正木信茂が戦死すると、その機を逃さず原胤貞が城を奪還するに至った。

臼井城本丸虎口土塁f:id:shinsaku1234t501:20170529002015j:image

多部田城(千葉県千葉市若葉区)

千葉県千葉市若葉区多部田町

城主については定かではないので「千葉実録」など諸説を拾遺して紹介する。
鎌倉時代、千葉常胤の四男である多部田四郎こと、大須賀胤信が地頭として在地したことから築城されたと推察される。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530205818j:image戦国時代の城主とされる白井胤治は、永禄9年(1566)の臼井城の戦いで上杉輝虎を相手に劇的な勝利をもたらした軍配師とされるが、全く別人の白井胤定とする説もあり、実在さえ定かではない。しかし、ここでは胤治の説に従って紹介する。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530210315j:image長らく男子が無かった胤治は、すでに真壁宗幹を養子としていたが、この勝利の年に胤隆、のちに胤邑と男子に恵まれた。しかし、あくまでも宗幹を嫡男とした。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530205912j:image天正18年(1590)、小田原征伐に際して宗幹・胤邑らが小田原に入城する一方、胤隆が多部田城を守備したが、本多忠勝平岩親吉麾下の攻撃を受けて降伏開城する。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210054j:image戦後、胤治・宗幹らは豊臣秀吉に仕えたと伝わるが、胤治については定かではない。
宗幹は秀吉の命で秀次の家老となったが、秀次事件では何らの処罰も受けず、また秀吉の直臣に戻っている。肥前名護屋城に詰めていたとする記述がある。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210125j:image一方で、宗幹の次男幹時には秀次事件に連座して浪人となり、帰農したとする説がある。
その幹時の長女、春が徳川家康の侍女だった縁で、弟の忠左衛門伊信が水戸徳川家に仕官する。頼房・光圀のもとで水戸藩大老城代家老を歴任し、子孫は重臣として幕末まで家名を保つことになる。
また、幹時の次女、良は淀殿の侍女(もしくは千姫付き侍女)となり、大坂夏の陣千姫を伴って脱出する。のち、八丈島代官となる旗本の豊島忠次に嫁ぎ、その長男の勝久が旗本白井家を興す。さらに、その家系から大奥年寄の江島(絵島)を輩出することになる。 

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210222j:imageここで余談だが、慶長16年(1611)、徳川家康から豊臣秀頼との二条城会見を打診された淀殿は、秀頼の身を案じるあまり軍配師の白井龍伯に吉凶を占わせた。香占いを三度おこなっても全て「大凶」であったが、会見を拒否することで家康の心象を悪くしたくない片桐且元が「吉」と偽って言上したことで淀殿が納得し、会見が実現の運びとなる。会見終了後、龍伯は淀殿から褒美として白銀百枚を賜るが、内心自分の占いが外れたことを恥じて閑居したという。この龍伯も胤治の子孫の可能性がある。
奇しくも、上杉輝虎に勝利した胤治といい、この龍伯といい、占いにまつわるエピソードが共通なのは興味深い。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530205738j:imageなお、多部田村は江戸時代、旗本戸田氏の領するところであったが、城が利用された事実がないので、おそらく小田原征伐時の降伏開城をもって廃城になったと思われる。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530210605j:image太平洋戦争末期、米軍の九十九里上陸に備えて陸軍の一部隊が最福寺に駐屯した。これにより最福寺に残っていた城址遺構に防空壕が掘られるなど現状改変が施された。

多部田城址 最福寺の郭(左)と主郭(右)f:id:shinsaku1234t501:20170530210921j:imageまた、最福寺と道を挟んだ主郭においても堀を埋めて土橋を設けたり、装甲車を隠すために斜面を削るなどの改変が生じた。
それゆえ、全体的に遺構が良く残るとはいうものの、城の遺構と陸軍の塹壕の判別ができない部分がある。

多部田城主郭f:id:shinsaku1234t501:20170530205652j:image

小牧長久手戦跡 上末城(愛知県小牧市)

愛知県小牧市上末

国道155号線沿いにある上末城址f:id:shinsaku1234t501:20170606173607j:image小牧長久手合戦の関係城砦を地図で俯瞰すると非常に分かりやすい。
犬山城から南の小牧市方面に張り出すように展開する羽柴秀吉軍と小牧山城を中心とした織田信雄徳川家康軍が犬山城に向けて備える。

上末城はその狭間に位置する城で、身の振り方次第では羽柴軍の先鋒にも、織田・徳川軍の先鋒にもなりうる存在だった。

城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170606173648j:image当時の城主 落合安親・庄九郎親子にとってはかなり切迫した状況があったと推察される。元々が織田信長の家臣であった以上、尾張の領主となった信雄に仕えていた時期があるにも関わらず、羽柴軍に味方する道を選んだのである。

そして、徳川家康小牧山城近辺に出陣している間に、岡崎城を攻略しようとする三河中入りの作戦が持ち上がると、その道案内を務めることになり、羽柴軍の池田恒興・元助親子を先導して出陣する。しかし、中入り軍は長久手付近で徳川軍の追撃を受けて壊滅することになる。

説明板f:id:shinsaku1234t501:20170606173732j:imageなお、ほとんどのブログはこの長久手における敗戦を以って落合家を締めくくっているが、安親の長男頼親・その嫡男宗親が新田開発に従事したことが知られているので紹介する。

安親の孫にあたる宗親は、俗に言う「入鹿六人衆」として寛永5年(1628)からの入鹿池(愛知県犬山市)築造工事に関わった功により、寛永11年(1634)、尾張藩から新田頭に任命された。さらに、寛永17年(1640)には小牧原上原新田10石を賜ると同時に苗字帯刀を許された。即ち、安親が長久手合戦で負けたことにより、上末城は廃城、落合家は帰農したとされる。しかし、頼親・宗親父子が周辺の開発に尽力したことで、宗親が尾張藩から苗字帯刀を得たという事実は、それまで落合家が不遇の状況にあったことを示す。長久手の敗戦から落合家の再興までに56年かかった計算になる。

空堀f:id:shinsaku1234t501:20170606173909j:image土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606174009j:image城址南側に隣接している陶昌院は、重松秀村(尾張二宮 大縣神社祠官)の子孫とされる落合右近将監勝正が永禄7年(1564)に創建した菩提寺である。

愛知県小牧市大字上末中小路 久保山陶昌院 右から落合宗親墓・落合勝正墓・落合安親碑f:id:shinsaku1234t501:20180610203451j:image

宍戸城(茨城県笠間市)

宍戸城は鎌倉・安土桃山・江戸に大きな転機を迎える。

宇都宮宗綱の四男である八田知家が、源義朝の没落と頼朝・頼家の幕府体制に歴仕する中で常陸守護職に任じられる。

笠間市平町 新善光寺址(中央右 八田知家墓、左 宍戸家政墓)f:id:shinsaku1234t501:20170519181809j:image長男の知重こと常陸小田氏を宗家とし、次男の有知が美濃伊自良氏・三男の知基が下野茂木氏と分派する中、四男の家政は常陸宍戸を領す。こうして、家政が築いたのが宍戸古館である。

笠間市友部町橋爪 宍戸古館土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200705j:imageまた、この宍戸氏からは足利尊氏に従った功により安芸に下向して、のち毛利元就の縁戚になる安芸宍戸氏も派生する。
室町・戦国時代は宗家でもある小田氏と連携しながら佐竹氏と勢力争いを繰り広げるが、のち服属した。関ヶ原合戦後、宍戸義長は佐竹氏の出羽秋田移封には従わず土着したが、その一族の中には秋田に移住する者もいた。
代わって宍戸に移封されたのは、関ヶ原合戦で東軍に属したにも関わらず、出羽秋田20万石から太閤蔵入地を没収され、常陸宍戸5万2,440石に減封となった秋田実季である。これにより現在地に城郭としての宍戸城が整えられた。

実季は大坂の陣にも従軍するなど目立った問題行動があるようには見えなかったが、なぜか寛永7年(1630)、伊勢朝熊への配流に処せられる。出羽以来の家臣間の対立など不安定要素があったらしいが、特に嫡男俊季との不和が大きな原因と思われる。

というのも、実季正室(俊季生母)である円光院は細川昭元の娘である。すなわち、細川昭元と織田信長の妹であるお犬の方との間に生まれた女子である。もっと言えば、時の大御所、徳川秀忠正室崇源院と円光院は、ともに織田信長の姪であり、従姉妹同士にあたる。

この人間関係を踏まえた上で、実季と俊季の親子不和を考えた場合、幕府の判断は崇源院の血筋に繋がる俊季の家督相続を優先する可能性が大いに考えられる。それゆえ俊季の家督相続の障害となる実季を排除する必要があった。

その証拠に、実季が配流になりながらも宍戸藩自体は改易にはならなかった。当然、俊季が継ぐために宍戸藩は残さなければならないからである。

笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城址f:id:shinsaku1234t501:20170519181831j:image笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城本丸土塁f:id:shinsaku1234t501:20170519181900j:image笠間市平町 宍戸城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200803j:imageこうして幕命により家督相続した俊季が、正保2年(1645)、陸奥三春5万5,000石に移封されると、天領の時期を経て、天和2年(1682)に徳川光圀の弟の松平頼雄が水戸支藩として1万石で入封した。(宍戸陣屋)

笠間市土師 宍戸陣屋表門f:id:shinsaku1234t501:20170519181958j:image幕末の元治元年(1864)、9代藩主頼徳の頃、水戸で蜂起した天狗党の鎮圧に失敗し、切腹及び改易を命じられるという悲劇もあった。

笠間市大田町 松長山成就院養福寺 宍戸松平頼徳墓f:id:shinsaku1234t501:20170519182036j:image慶応4年、頼徳の父で8代藩主だった頼位が新政府の命により再相続して立藩することになった。

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。

後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺唐門(豊国廟極楽門を移築)f:id:shinsaku1234t501:20180409191612j:image秀吉の正室高台院の懇願で社殿はかろうじて破却を免れたものの、以後、参道は封鎖されたという。現在の豊国神社境内に高台院が必死に守った馬塚が遺されているが、これこそ江戸時代を通じて秀吉の本当の墳墓とされてきたという。

京都府京都市東山区高台寺下河原町 鷲峰山高台寿聖禅寺 霊屋(北政所葬地)f:id:shinsaku1234t501:20180513112544j:image「神社や墓まで破壊しなくてもいいのではないか」という後味の悪さを覚えるのは尤もではあるが、「吾妻鏡」の源頼朝を模範とする家康からすれば、平家だけでなく奥州藤原氏義経や範頼ら将来の禍根となりうる可能性は片っ端から葬らねばならないとする仮想敵の掃討こそ最大の課題である。
徳川家の最大の対抗馬として君臨し続けた豊臣家を全否定することは、いわば幕府一強体制を公然の事実にするための力ずくの総仕上げと言える。当然、中途半端は許されない苛烈なまでの仕置を要する。それは豊臣家を奉じることを許さないのではなく、奉じるべき豊臣家がそもそも存在しないという現実を大名家や諸国の牢人に突きつけることを意味する。もちろん、その動きに豊臣恩顧の誰かが反論を唱えたという事実はない。

それでも、馬塚は「国泰院俊山雲龍大居士」という戒名を授けられた秀吉の供養墓として、江戸時代を通じて庶民に崇められたとする説があるが、定かではない。

対する家康は没後、南光坊天海の主張する山王一実神道により「正一位東照大権現」の宣命を受ける。後水尾天皇はその生涯において「豊国大明神」を剥奪する一方で、「東照大権現」を勅許したことになる。

京都府京都市東山区茶屋町 豊国神社 馬塚f:id:shinsaku1234t501:20180513120015j:imageまた、三代将軍家光が許可していた豊国神社再興案も酒井忠世らの反対で却下された。

ここまで豊臣家を亡き者にした徳川家を悪辣と考えるのは簡単だが、新しい支配体制を浸透させるために前時代を否定するのは、明治維新にも見られることであって、決して珍しいとは言えない。

但し、関ヶ原合戦の恨みが原動力となって薩長が討幕に邁進したとするのは適切とは言いがたい。薩摩藩島津斉彬・久光兄弟にしても幕政改革を望んでいただけであり、西郷隆盛も第一次長州征伐では幕府軍参謀を務めている。即ち、薩摩藩における討幕運動は成り行きでしかない。長州藩吉田松陰系列の木戸孝允高杉晋作が討幕を目指す一方、その反対派である 俗論党が藩内の要人を粛清してまで幕府に恭順の姿勢を表した時期もある。また、往時には豊臣恩顧だったはずの黒田家・浅野家・細川家・蜂須賀家・前田家なども、決して討幕の主戦力にはなっていない。それどころか、上杉家に至っては当初、奥羽越列藩同盟の一員として幕府側に就いている。幕末の一連の動きが豊臣家復権関ヶ原合戦の雪辱ではないことは容易に理解できよう。

世に「歴史は勝者によって作られる」という。この言葉自体は否定できない。しかし、敗者が全く歴史を残さなかったわけでもない。江戸時代を通じてタブー視されてきた豊臣家ではあるが、こんにちの我々が秀吉や秀頼の事績を知ることができるのは、何かしらの史料や伝承が連綿と伝えられてきたからに他ならない。表立っては「黙して語らず」を貫いた豊臣家臣団が伝えた可能性も大いにある。

最後に明治以降の豊臣家の復権を紹介する。以下はその主な遍歴である。

●慶応4年(1868)閏4月、大阪行幸に際して明治天皇が豊国神社再興を沙汰したことに端を発し、翌月には鳥羽伏見戦没者が合祀される。

明治6年(1873)、別格官幣社に列せられる。

明治8年(1875)、京都東山に社殿を建立。

明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地に遷座して現在に至る。

明治30年(1897)、境外地である阿弥陀ヶ峰に豊国廟として五輪塔が建立される。

明治新政府明治6年(1873)6月9日、日光東照宮別格官幣社に列すると同時に、主祭神である家康の左神として豊臣秀吉、右神として源頼朝を配祀した。

また、日光東照宮同様、久能山東照宮にも信長と秀吉が相殿として祀られている。(完)