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侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログです

意外と体育会系?・・・徳川家康 前編

平成28年NHK大河ドラマ真田丸」の序盤、伊賀越えのシーンにおいて内野聖陽扮する徳川家康が、滑稽なほどに怖気づいた表情に違和感を感じた。そこで、ネット検索したところ、全く同じ疑問を持った人がいた。

むしろ、家康は同時代の大名の中では武芸に優れた人物だったはず、と記憶している人にとっては、それほどに納得がいかないシーンだったのである。

まず、家康の生涯最初の剣術指南役として有馬神道流の有馬満盛が挙げられるようだが、のちほど触れることになる有馬貞時と混同される部分もあり、詳細は不明。

特に有名な剣術指南役は奥山公重(休賀斎)であろう。元来、公重は奥平貞能三河亀山城主)の家臣、奥平貞久の七男であり奥平孫次郎定国と称した。若い頃から三河では高名な剣客であったが、さらなる道を極めんと甲斐に滞在中の上泉信綱に師事して2年ほど寝食をともにする旅の中で新陰流印可を受ける。

その後、故郷三河に戻ったものの、さらに今の浜松市北区引佐町にある奥山明神(現 奥山神社)に籠り、孤独な修行をした前後に奥山と改姓したようである。当時の遠江国引佐郡で「奥山」と言えば、井伊直虎の家臣に関係があったと考えざるを得ない。

元亀元年(1570)、奥平貞能の嫡男、定昌(のちの奥平信昌)が姉川合戦で戦功著しかったことから、家康が剣術の流派を尋ねたところ、「奥山流」と答えた。これにより召し出されて家康に仕官することになり、「公」の一字を賜って奥山公重と改名。ここから家康の剣術指南役となり約7年間にわたって、時には家康が失神するほどの厳しい修行もあったらしい。

この功により公重は天正2年(1574)、御台所御守役(築山御前付き)を命じられたが、のち病のため致仕して旧主奥平貞能のもとに戻ったという。

その後、家康は柳生宗矩から新陰流、小野忠明から一刀流の指南を受けたのみならず、九男の義利(のちの義直)に剣法書を書き残した。

静岡県静岡市葵区 駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418232306j:imageなお、家康は馬術においては大坪流と八条流を修め、印可皆伝まで極めた。

松野氏館(埼玉県さいたま市見沼区)

宇都宮氏の支族で、武蔵に移住した松野助信がこの地に館を構えて太田道灌に仕える。(松野氏館)

松野氏館跡案内板f:id:shinsaku1234t501:20170321225107j:image
子の助正は太田氏房の家臣として小田原征伐で浪人となるが、ほどなく家康旗本になる。
子の資信が寛永2年に200石を賜って旧領であるこの地に陣屋を構えた。(御蔵陣屋)
ということは助正の代はここに居住していたのか?など細かい疑問は残る。
助正が家康から賜った本領安堵状でもあればいいのだが・・・
後北条→徳川旗本という典型パターンの一例である。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170321225149j:image

十九首塚(静岡県掛川市)

静岡県掛川市十九首

十九首塚由来説明板f:id:shinsaku1234t501:20170401171504j:image天慶3年(940)2月14日、新皇を称して関東一円に君臨した平将門は、下総猿島の戦いにおいて戦死する。将門を討ち果たした俵藤太こと藤原秀郷は、将門とその家臣の首級を携え上洛の途につく。

その一行がこの地に差しかかった時、勅使と合流した。勅使の目的は将門の首実検であり、早速、近くの下俣川で次々と首級を洗い、橋の欄干に掛けて検視をおこなった。勅使は目的を終えた首級を破棄するように伝えたが、秀郷は「仮にも将門はひとかどの武将である」として、十九の首級を川畔に丁重に葬り、将門の念持仏を祀る寺(庵)を建立した。

このエピソードから、首級を洗った下俣川は「血洗川」と伝えられ、埋葬された地は「十九首」と呼ばれ、将門の念持仏である薬師如来を祀った寺はのちに「東光寺」と名を変えて現在地に残り、橋の欄干に首級を掛けたことから「懸川(掛川)」という地名になったと言われる。

下俣川 f:id:shinsaku1234t501:20170401171207j:image時を経て、この地に悲劇が起きる。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦今川義元が戦死し、今川家から独立した松平元康の三河統一が図られるさなかの永禄5年(1562)、井伊谷城主 井伊肥後守直親が松平家への接近を目論んだという噂が流れる。

井伊直親駿府今川氏真に弁明するために井伊谷を出発して駿河に向かうが、一行がまさにこの地に差しかかった時、氏真の命を受けていた掛川城朝比奈泰朝の襲撃を受けて主従ともども惨殺された。

現在の十九首塚(中央の五輪塔平将門f:id:shinsaku1234t501:20170401171134j:image相馬小太郎将門

御厨三郎将頼

大葦原四郎将平

大葦原五郎将為

大葦原六郎将武

御厨別当多治経明

御厨別当文屋好兼

藤原玄茂

藤原玄明

坂上遂高

武藤五郎貞世

鷲沼庄司光則

鷲沼太郎光武

隅田忠次直文

隅田九郎将貞

長狭七郎保時

大須賀平内時茂

東三郎氏敦

堀江入道周鍳

しかし、将門の首塚といえば、埼玉県幸手市の浄誓寺、東京都千代田区大手町や岐阜県大垣市の御首神社にも由来するがゆえに、この地の首塚は将門ではなく、井伊直親とその家臣を祀るものという言い伝えもあるらしい。また、当初、十九基あったはずの首塚は時代を経ていく中で次第に数が減っていき、中央の将門の首塚とされるものを残すだけとなっていたが、近年、場所を移動して写真の通り整備された。

なるほど疑問は多々ある。まず、将門らの首をこの地で洗ったというのはいかがなものか。

本来、戦場における首実検の段階で洗い清めるべきであり、日が経ってから洗ったとしてもこびりついた血痕が綺麗になるものだろうか。腐敗も始まっているかもしれない。

また、将門は若き頃、京にいた時期があるものの、首実検にあたって顔を知っている存在が勅使の中にいるのか。

さらに、この地に伝わっている将門の名が「小太郎」というのはおかしい。正しくは「小次郎」であるはず。

一方で、井伊直親が連れていた家臣が十数人程度だった可能性は十分にあること。

敵地で殺された直親の遺体を井伊谷まで持ち帰る南渓瑞聞が、ひっそりと供養塔を建立した可能性も考えられないわけではない。それを平将門首塚と称することができれば、祟りを怖れるあまり撤去されないのではないか。

なにせ、井伊家出身とはいえ、南渓は今川義元の葬儀の導師を務めた名僧であるがゆえ、今川家としてもひっそりと供養塔を建てるぐらいは目をつぶったのではないかなど、この首塚については興趣が尽きない。

もっとも、南渓が持ち帰った直親の遺体は、都田川畔で荼毘に付し、現在の浜松市北区細江町に墓がある。

いずれにせよ、十九首は非業の死を遂げた人物の鎮魂の場であることに違いはないらしい。

長者山城(茨城県水戸市)

茨城県水戸市渡里町

一盛長者伝説地碑 f:id:shinsaku1234t501:20170320195115j:image石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。
後三年の役終結後、寛治2年(1088)、陸奥守を解任され帰洛途上の義家が再び立ち寄ったところ、前にも増した饗応を受けた。
これによって、義家は長者の財力を危険視して急襲。一旦は抜け穴に逃げ延びた一盛長者だったが、追い詰められると、家宝である黄金の鶏を抱いて那珂川に身を投げたと伝わる。

一盛長者伝説地碑側面の説明文f:id:shinsaku1234t501:20170320195134j:imageただ、こんにちのイメージにある資産家という単純なものではなく、おそらく平安時代における長者というのは財力・土地一円の支配力・軍事力を兼ね備えた土豪と考えられる。

また、義家が武士の面目にかけて壮絶なまでに戦った後三年の役は「朝廷の意向に基づかない私戦」と認定され、何らの褒賞もなかった。武士が命をかけて戦う一方で、諸国の長者が利権を得ていくさまが、彼の神経を逆撫でした、とも思える。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170320195150j:imageのちに義家のもとに諸国の百姓から荘園が寄進されるに及び、寛治5年(1091)朝廷が義家への荘園寄進を禁じる宣旨を出すことになる。本所・領家として君臨する摂関家や上級公家、預所・庄司として現地の荘園管理を担う下級公家。そのどれにもあてはまらない武士でしかない義家が諸国の名声を勝ち得ると同時に、荘園を所有する貴族化は許されざることだったに違いない。

奇しくも、源氏には長者伝説が付きまとう。

1、平治の乱で美濃大垣まで落ち延びた源義朝・朝長父子を匿った青墓長者。

2、義朝の子である範頼は、遠江池田宿の遊女の子とされているが、実は池田一帯の長者の娘であったらしい。

2、義朝の子で、奥州平泉を目指す若き義経三河矢作の兼高長者の世話になり、その娘である浄瑠璃姫と恋仲になるが、義経出立ののち、浄瑠璃姫は川に身を投げた。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170320195208j:image なお、義家が宿泊した折に、馬の飼料である煮豆の残り汁を発酵させたものが振る舞われたことから、納豆の発祥とも伝わる。

赤坂見附(東京都千代田区)

東京都千代田区紀尾井町

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221827j:image寛永13年(1636)、62の大名家に石垣、58の大名家に堀を担当させる形で飯田橋・四谷・赤坂・溜池の江戸城外堀普請がおこなわれた。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221104j:image寛永9年(1632)、栗山利章の訴えに端を発した筑前黒田騒動で改易を免れた黒田忠之としては、この天下普請は幕府に忠誠を示す絶好の機会となったのかもしれない。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221233j:imageこうして黒田家が築いた桝形石垣の上に、加藤正直・小川正則ら普請奉行が赤坂御門を完成させたのは寛永16年(1639)。

赤坂見附周辺の江戸城外堀(弁慶堀)f:id:shinsaku1234t501:20170318221300j:imageなお、明治5年(1872)に門が撤去された。

また、赤坂見附御門石垣から国道246号沿いに外堀(弁慶堀)に沿って歩き、弁慶橋を渡ってすぐの場所に紀伊和歌山藩邸址碑がある。ここからが紀尾井町となる。

紀伊和歌山藩邸址碑f:id:shinsaku1234t501:20170318221351j:image

野口館址(岐阜県各務原市)

岐阜県各務原市蘇原野口町 個人宅

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170312224500j:imageとにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。

野口館址空堀f:id:shinsaku1234t501:20170312224830j:image一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170312224907j:imageさらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の門が明治9年(1876)に払い下げされたこと。

平成21年(2009)まで現存した大垣城移築門f:id:shinsaku1234t501:20170312224421j:image長らく加納城移築門とされていたが、平成21年(2009)にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政4年(1857)の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の門と判明した。

大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣左側f:id:shinsaku1234t501:20170312224636j:image大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣右側f:id:shinsaku1234t501:20170312224734j:imageなお、現在の中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施されたので、私が投稿した写真よりは綺麗になっているが、一見をオススメする。

前林城(千葉県成田市)

千葉県成田市前林字城山

妙見神社までの道筋には民家も点在するが、周辺の道はかなり狭い。
妙見神社の鳥居が目印となり、その鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。

道沿いに残る土塁f:id:shinsaku1234t501:20170313232457j:image堀址f:id:shinsaku1234t501:20170314011736j:image
また、妙見神社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。