侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その4

冷静に考えれば、将軍生母桂昌院の栄誉に関わる式典という場所柄もわきまえず、主君浅野長矩が刃傷に及んだ以上、将軍家の怒りは尤もであり、お家再興など極めて難しい。

願わくば、長矩の弟、長広が小さくでもお家を残すことさえできれば、これ幸いである。たとえ小禄でもお家が再興すれば、そうそう簡単に討ち入るわけにはいかなくなる。それが叶いさえすれば、長広を支える家老の道もある一方、隠居して長矩の菩提を弔う後半生を送ることもできる。大石の心境としては、血気にはやって討ち入りを叫ぶ急進派を見るにつけ、その純粋さ(悪く言えば単純さ)が危うくもあり、うらやましくもあったに違いない。

京都府京都市山科区西野山桜ノ馬場町 神遊山岩屋寺 大石良雄君隠棲舊址碑f:id:shinsaku1234t501:20170705184101j:imageそこで、池田久右衛門と称して山科閑居中の遊興三昧に溺れていく。巷間で取り沙汰されるような世間の目をごまかすための仮の姿ではなく、本当に酒と娯楽、女性が好きで楽しいことだけを追求したというのが真相ではなかろうか。もちろん、煩わしさも忘れたかった。「できるなら、このまま時が過ぎてほしい」という本音さえあったのではないか。そのほうがはるかに人間味を感じるというものである。ひょっとしたら、遠くない将来に討ち入りをしなければならない覚悟や不安から、「今を楽しんでおきたい」というような刹那の思いがあったかもしれない。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。討ち入りにおける自身の死の可能性や親族の連座などを想定して妻理玖と離縁しながら、女中のおかるとの間に子を成したという事実である。もし全てが世間を欺くための策略と言うならば、類が及ばないように妻子を遠ざける一方で、愛妾が身籠もるという矛盾をどう説明すべきか。そもそも妻理玖も離縁当時、身籠っていた。離縁した後の寂しさや虚しさをおかるに求めた結果の妊娠なのか。策略よりも、むしろ大石の人間の尾を見る感じがする。

確かに、当時の伏見奉行 建部政宇が吉良の遠縁ということもあり、吉良方の警戒を解くために偽りの遊興生活を演じる必要性はあったかもしれない。実際、この策略説は江戸時代からまことしやかに伝わっていた。

「内藏助もとより志厚く智深ければ、これより妻をも出し、親族にもはなれ、京山科のほとりに閑居し、いささかも武を講ずるさまはなさず。日夜倡家に出入し、酒に沈酔し、ひたすら無頼の淫行をあらはし、報讐の志などあるべくもなくふるまひしかば、吉良が方にも初こそあれ、この風説を聞つたへ、さては心安しとて、戒心もをのずからおこたりしとなり。」                                 (徳川実紀 常憲院殿御實紀 巻四十六)

赤穂事件から百年を経た文化6年(1809)に起稿した「徳川実紀」でさえ、この説を取り上げている。ひょっとしたら、徳川家の正史という位置付けであるこの歴史書でさえ歌舞伎など脚色された巷説の影響を受けたのかもしれない。

しかし、こんにちに至ってはこれらの巷説がエスカレートするに及んで吉良・上杉や柳沢の間者が大石の命を付け狙うというハードボイルドな話にまで発展する。赤穂事件が忠臣蔵というチャンバラ活劇に置き換えられる所以である。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その3

実際、当時の大石の胸中は複雑極まりないものだったと推察される。例えば、赤穂藩改易が決定した時、大石がまず藩札の交換整理に着手している、という事実は、彼が誰よりも早く「お取り潰し」という現実を冷静に受け止めていた証拠となる。時代劇などでは、籠城派の大石と開城恭順派の大野九郎兵衛が対立構図で描かれることが多いが、大石の本音はむしろ大野の主張する現実論を十分に理解したところにあったと考えられる。

後世の我々は江戸時代を語る時、まるで藩と領民が一体化しているような感覚を抱きがちだが、多くの領民は領主と繋がっているのではなく、土地・風土の中にある。その証拠に武士層が藩主に殉じる生き方を選ぶ一方で、領民は新しい領主を迎えて今までの場所で以前通りの営みを続けていくのが常である。それが分かっていたからこその藩札交換整理であり、筆頭家老としての責任でもあった。

東京都千代田区千代田 江戸城址 松之大廊下跡碑f:id:shinsaku1234t501:20181020171914j:image一方で、赤穂開城時に収城使へお家再興を嘆願して以降、さまざまな形で運動を展開していく。「お取り潰し」の決定を耳にした時点で不可能と判断しながらも、その不可能を可能にすべく嘆願を続けていくのである。彼自身、矛盾した行動をとりながら、その虚しさや諦めを意識していたことだろう。しかし、筆頭家老の立場としては無駄と分かっていても進めなければいけない責任がある。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その2

愛知県西尾市吉良町岡山山王山 片岡山華蔵寺 吉良義央f:id:shinsaku1234t501:20180612211706j:imageそこで、また疑問に思うことがある。大石良雄の本当の狙いは吉良の首にあらず、片手落ちな裁決を下した幕府に対する挑戦だという、いかにもエンタテインメント的な味付けである。

果たして、そうだろうか。主君浅野長矩の即日断罪、しかも庭先での切腹、改易、長矩の弟長広を擁してのお家再興不許可、一方で吉良義央にはお咎めなし、というのは主君が引き起こした刃傷事件という不調法があるにせよ、大石からすれば踏んだり蹴ったりでしかない。

確かに、大石からすれば度重なる仕打ちともとれる幕府の処置には、ほぞを噛む思いがあったかもしれない。
しかし、これほどまでに仕打ちを受けた人間の心理として、そんな幕府相手にそれでも真摯な反省を求めるような一抹の期待を持って討ち入りをおこなうものだろうか。

むしろ、幕府に対して「目にもの見せてやる」と開き直って一矢報いるための実際行動に奔ったという見方なら、その追い詰められた心境は分からないでもない。それにしても、その影響で一家眷属に至るまで類が及ぶというリスクを考えると、亡き主君のための一途な忠義というのは、それほどまでに粘着力があるものだろうか。

現代人はエンタテイメントに感情移入するあまり、簡単に忠義の何たるかを理解したかのように言うが、自分がまさに当事者だったら家族と死に別れるかもしれない刹那的な生き方を選べる人はそんなにはいないだろう。そう考えた場合、四十七士というのは、当初の盟約から多くが脱落した結果の「たったの47人」と考えるべきかもしれない。一方で、何かしらの事情で脱盟した旧臣達を「不忠」とは一概には言えまい。

即ち、演出としての忠臣蔵とは参加しなかった人々を削ぎ落として討ち入った面々だけを忠臣に仕立てることで成立した戯曲である。

演出の忠臣蔵と本音の赤穂事件 その1

時代劇の定番にして、出尽くした感が強い「忠臣蔵」。

浅野側を「善玉」・吉良側を「悪玉」とした明確な勧善懲悪設定のもとで、討ち入った赤穂義士には毎回喝采が沸き起こる。

そもそも、この有名なストーリーは歌舞伎を上演するにあたり、幕府の目を憚って塩冶判官と高師直に置き換えた南北朝時代の設定で繰り広げられてきた。足利尊氏の腹心で、敵には恨まれ、味方にも恐れられた高師直は、そういった意味では格好の悪役であった。個人的には、その師直を配された吉良にはいささか同情する。

栃木県足利市菅田町 菅田山光得寺 高師直供養塔f:id:shinsaku1234t501:20170310145748j:image実際の吉良義央は地元の三河吉良では名君と慕われる一面を持ち、風雅の道にも長けた人物でありながら、なにせ高師直なのである。この歌舞伎の演出が、数百年間にわたって吉良義央の人物像を歪曲し続けたことは間違いない。

昨今では、そのイメージを見直そうとする小説や研究も多々発表されているが、なお恐ろしいのは演劇となると吉良を主役、もしくは擁護する作品はない。それほど吉良の事情や心理から赤穂事件を描くことは難しいものなのか。かろうじて、吉良も犠牲者だという視点で描く作品では、必ずといっていいほど幕府(徳川綱吉柳沢吉保ら)を黒幕とする形になる。

没落の前田利昌

前田利昌は、嫡男の利久をはじめ利玄・安勝・利家・良之・秀継などの男子に恵まれる。中でも、四男の利家と五男の佐脇良之は織田信長の家中で出色の人物と言える。

愛知県名古屋市中川区荒子4丁目 冨士大権現天満天神宮 荒子城址前田利家卿誕生之遺址碑)f:id:shinsaku1234t501:20180812121034j:imageさて、その利昌には利春という別名がある。歴史上の人物には幼名や通称、別名、法名など、さまざまな名があるが、この利昌についてはいささか特異な事情がある。

宝永6年(1709)2月15日、翌日に予定されている新将軍 徳川家宣寛永寺参詣に関する老中奉書を回覧中、織田秀親(大和柳本藩主)が同役の前田利昌(加賀大聖寺新田藩主)に見せようとしなかった。かねてより仲が悪かったがゆえの嫌がらせと考えられる。

そして、翌日、織田秀親は寛永寺吉祥院にて前田利昌に殺害される。利昌の家臣 木村九左衛門が秀親を後ろから羽交い締めにした上で、利昌が刺殺したのである。有名な浅野内匠頭の刃傷事件から8年後の凶行であった。

武芸達者で体格の大きい秀親が厠に立った隙を突いて、打ち合わせ通り家来に羽交い締めをさせる用意周到な策だった。実は前日、利昌が腹心の木村に計画を打ち明け、「浅野内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられたはずだ」と語ったという。

18日、利昌は切腹し、お家断絶となった。思い返せば、前田利家の子孫が織田有楽斎の子孫を殺害したのである。この一件を受けて、加賀金沢前田家は幕府を憚って、祖先である利昌を利春に改名したという。祖先の利昌には何らの落ち度もないので気の毒な話ではあるが、刃傷事件を起こした子孫が未来永劫、「利昌」として世間に記憶されていく以上、同名の祖先を改名するしかなかったのだろう。こうして、利昌が利春と伝わったと考えられている。

戦国の世に前田家勃興の糸口を作った前田利昌は、後世、不始末を起こして没落した子孫によって前田利春と書き換えられるに至った。誠に稀有の例と言えよう。

勃興の前田利昌

前田利家は言わずと知れた加賀・能登の太守だが、その出身地は尾張海東郡(愛知県名古屋市中川区)である。正確な誕生地については、父利昌が天文年間まで居住していたとされる前田城、移住先の荒子城と2つの説が存在する。

出自も利仁流藤原氏を祖とする説と菅原氏とする説がある。ただ、菅原氏との関わりを窺わせる根拠として、利家の父、前田利昌が荒子城を築いた際、城内の鎮守として冨士浅間権現と天満神を勧請した。天満神とは即ち菅原道真を指す。のちに前田利家・嫡男利長らが転封したことで廃城となるが、現在も合祀した形で冨士大権現天満天神宮が残っている。

元々、蔵人利昌は尾張前田城を居城とする前田与十郎家の分家筋と伝わるが、実のところこれさえも系図が定かではない。ただ、本家とされる前田城の与十郎家の当主種利は、織田信長の家臣、佐久間信盛と姻戚関係を結びながら、立場としては林秀貞・通具兄弟の与力であったという。

愛知県名古屋市中川区前田西 岡部山速念寺 前田城址f:id:shinsaku1234t501:20180812121528j:image佐久間家も林家も信長の下で重臣となる家柄だが、それはのちの話であって、天文・弘治年間は敵味方と言っていい。というのは、佐久間信盛は信長側、林秀貞・通具らは信行(信勝)側という織田信秀の跡目相続争いの渦中にあった。秀貞は目立った反抗はしていないが、弟の美作守通具は弘治2年(1556)8月24日の稲生原合戦で信長の槍に斃れたほどの人物である。この戦いに種利の嫡子で当主の長定も参戦したという。

一説にはこれにより、信長が与十郎長定から荒子城を召し上げ、分家とされる前田利昌に二千貫で与えたという説もある。とすれば、利家の生誕地はそれ以前の前田城ということになる。

以後、与十郎家は姻戚でもある佐久間信盛の与力として、蔵人家は林秀貞の与力として織田信長に仕えていくことになる。

愛知県名古屋市中川区前田西 岡部山速念寺 前田与十郎家墓地f:id:shinsaku1234t501:20180812111022j:image

臼井城 後編(千葉県佐倉市)

千葉県佐倉市臼井田 臼井城址公園

こうして、永らく臼井氏の居城だった臼井城は千葉胤富の家臣、原氏の時代を迎える。

しかし、永禄9年(1566)3月20日上杉輝虎の関東出兵に従う結城晴朝・酒井胤治ら、さらに呼応した里見義堯・里見義弘らの大軍に四方を包囲されるという最大の危機に瀕する。この時、結城晴朝の軍には臼井城を我が手に戻す意気込みの旧主 臼井久胤の姿があった。

千葉県佐倉市王子台 一夜城公園 謙信一夜城址f:id:shinsaku1234t501:20180712203249j:image戦局は多勢に無勢のため、「鑁阿寺文書」に「臼井之地実城堀一重ニ致之」とあるように、上杉・里見連合軍が堀を挟んで本丸にまで迫った。

臼井城本丸土塁と空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203343j:imageこの窮地に、原胤貞は多部田城主で軍配師の白井入道浄三こと、白井胤治(別人の白井胤定とする説もあり、実在も定かではない)に作戦を委ねる。胤治は占術で策を練った。

臼井城本丸空堀f:id:shinsaku1234t501:20180712203443j:imageまずは無数の敵軍が取り付いた頃合いを見計らって城壁ごと堀に突き落とすことで一瞬にして数百人を圧死させるなど、楠木正成さながらの奇策を用いて敵軍を翻弄した。さらに、北条氏康からの援軍 松田康郷が本丸から討って出ると「赤鬼」と呼ばれる鬼神の働きで敵軍をなぎ倒した。

臼井城本丸虎口f:id:shinsaku1234t501:20180712203523j:image海上年代記」に「房州人数三百余人打ち死に」とあることから、房州、即ち安房里見軍の戦死者数のみを伝えている。

一方、「戦国遺文」では上杉軍に数千人の死傷者が出たとしている。この上杉軍が里見軍を含めた人数なのか、また戦死者だけでなく、負傷者も混在した人数であることは気をつけなければならない。

また、「諸州古文書」によれば、北条氏政武田晴信に送った書には「敵数千人手負死人出来」と記載があり、正確な死傷者は分からないものの、やはり数千人と伝わっていたようである。

さらに、「豊前氏古文書抄」所収の豊前山城守宛て足利義氏の書では「去廿三日大責致し、五千余手負い死人出来せしめ、廿五敗北の段」として、3月23日の大敗で5,000人以上の死傷者と他に比べて具体的な数字を示しているだけでなく、25日に敗北したとしている。

臼井城本丸物見櫓址f:id:shinsaku1234t501:20180712203606j:imageこうして甚大な被害を被る中、輝虎の陣に近江矢島村滞在中の足利義秋から書(3月10日付)が届いた。北条氏康との和睦及び室町幕府再興のための上洛を要請する内容であった。それが原因か定かではないが、輝虎は4月半ばに撤兵を決断した。

臼井城本丸切岸f:id:shinsaku1234t501:20180712203658j:image余談ではあるが、上杉輝虎、即ち不識庵謙信は川中島合戦に代表されるように屈指の強さを誇る戦国大名の代表格とされるが、実のところ、関東管領職にありながら関東ではほぼ爪痕を残せなかったと言っていい。

俗に、北条氏・武田氏・上杉氏の攻防を指して「関東三国志」と例えるが、この上杉氏撤退を契機に北条氏は関東の守りを強固なものとし、武田氏は武蔵・上野など北関東への進出を図った。また、由良成繁(上野金山城主)は上杉氏から離反して北条氏に帰属、上杉氏の影響力が無くなった常陸では佐竹氏が台頭することになった。