侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

多部田城(千葉県千葉市若葉区)

千葉県千葉市若葉区多部田町

城主については定かではないので「千葉実録」など諸説を拾遺して紹介する。
鎌倉時代、千葉常胤の四男である多部田四郎こと、大須賀胤信が地頭として在地したことから築城されたと推察される。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530205818j:image戦国時代の城主とされる白井胤治は、永禄9年(1566)の臼井城の戦いで上杉輝虎を相手に劇的な勝利をもたらした軍配師とされるが、全く別人の白井胤定とする説もあり、実在さえ定かではない。しかし、ここでは胤治の説に従って紹介する。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530210315j:image長らく男子が無かった胤治は、すでに真壁宗幹を養子としていたが、この勝利の年に胤隆、のちに胤邑と男子に恵まれた。しかし、あくまでも宗幹を嫡男とした。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530205912j:image天正18年(1590)、小田原征伐に際して宗幹・胤邑らが小田原に入城する一方、胤隆が多部田城を守備したが、本多忠勝平岩親吉麾下の攻撃を受けて降伏開城する。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210054j:image戦後、胤治・宗幹らは豊臣秀吉に仕えたと伝わるが、胤治については定かではない。
宗幹は秀吉の命で秀次の家老となったが、秀次事件では何らの処罰も受けず、また秀吉の直臣に戻っている。肥前名護屋城に詰めていたとする記述がある。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210125j:image一方で、宗幹の次男幹時には秀次事件に連座して浪人となり、帰農したとする説がある。
その幹時の長女、春が徳川家康の侍女だった縁で、弟の忠左衛門伊信が水戸徳川家に仕官する。頼房・光圀のもとで水戸藩大老城代家老を歴任し、子孫は重臣として幕末まで家名を保つことになる。
また、幹時の次女、良は淀殿の侍女(もしくは千姫付き侍女)となり、大坂夏の陣千姫を伴って脱出する。のち、八丈島代官となる旗本の豊島忠次に嫁ぎ、その長男の勝久が旗本白井家を興す。さらに、その家系から大奥年寄の江島(絵島)を輩出することになる。 

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530210222j:imageここで余談だが、慶長16年(1611)、徳川家康から豊臣秀頼との二条城会見を打診された淀殿は、秀頼の身を案じるあまり軍配師の白井龍伯に吉凶を占わせた。香占いを三度おこなっても全て「大凶」であったが、会見を拒否することで家康の心象を悪くしたくない片桐且元が「吉」と偽って言上したことで淀殿が納得し、会見が実現の運びとなる。会見終了後、龍伯は淀殿から褒美として白銀百枚を賜るが、内心自分の占いが外れたことを恥じて閑居したという。この龍伯も胤治の子孫の可能性がある。
奇しくも、上杉輝虎に勝利した胤治といい、この龍伯といい、占いにまつわるエピソードが共通なのは興味深い。

宝珠山最福寺 多部田城土塁及び空堀f:id:shinsaku1234t501:20170530205738j:imageなお、多部田村は江戸時代、旗本戸田氏の領するところであったが、城が利用された事実がないので、おそらく小田原征伐時の降伏開城をもって廃城になったと思われる。

宝珠山最福寺 多部田城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170530210605j:image太平洋戦争末期、米軍の九十九里上陸に備えて陸軍の一部隊が最福寺に駐屯した。これにより最福寺に残っていた城址遺構に防空壕が掘られるなど現状改変が施された。

多部田城址 最福寺の郭(左)と主郭(右)f:id:shinsaku1234t501:20170530210921j:imageまた、最福寺と道を挟んだ主郭においても堀を埋めて土橋を設けたり、装甲車を隠すために斜面を削るなどの改変が生じた。
それゆえ、全体的に遺構が良く残るとはいうものの、城の遺構と陸軍の塹壕の判別ができない部分がある。

多部田城主郭f:id:shinsaku1234t501:20170530205652j:image

小牧長久手戦跡 上末城(愛知県小牧市)

愛知県小牧市上末

国道155号線沿いにある上末城址f:id:shinsaku1234t501:20170606173607j:image小牧長久手合戦の関係城砦を地図で俯瞰すると非常に分かりやすい。
犬山城から南の小牧市方面に張り出すように展開する羽柴秀吉軍と小牧山城を中心とした織田信雄徳川家康軍が犬山城に向けて備える。

上末城はその狭間に位置する城で、身の振り方次第では羽柴軍の先鋒にも、織田・徳川軍の先鋒にもなりうる存在だった。

城跡碑f:id:shinsaku1234t501:20170606173648j:image当時の城主 落合安親・庄九郎親子にとってはかなり切迫した状況があったと推察される。元々が織田信長の家臣であった以上、尾張の領主となった信雄に仕えていた時期があるにも関わらず、羽柴軍に味方する道を選んだのである。

そして、徳川家康小牧山城近辺に出陣している間に、岡崎城を攻略しようとする三河中入りの作戦が持ち上がると、その道案内を務めることになり、羽柴軍の池田恒興・元助親子を先導して出陣する。しかし、中入り軍は長久手付近で徳川軍の追撃を受けて壊滅することになる。

説明板f:id:shinsaku1234t501:20170606173732j:imageなお、ほとんどのブログはこの長久手における敗戦を以って落合家を締めくくっているが、安親の長男頼親・その嫡男宗親が新田開発に従事したことが知られているので紹介する。

安親の孫にあたる宗親は、俗に言う「入鹿六人衆」として寛永5年(1628)からの入鹿池(愛知県犬山市)築造工事に関わった功により、寛永11年(1634)、尾張藩から新田頭に任命された。さらに、寛永17年(1640)には小牧原上原新田10石を賜ると同時に苗字帯刀を許された。即ち、安親が長久手合戦で負けたことにより、上末城は廃城、落合家は帰農したとされる。しかし、頼親・宗親父子が周辺の開発に尽力したことで、宗親が尾張藩から苗字帯刀を得たという事実は、それまで落合家が不遇の状況にあったことを示す。長久手の敗戦から落合家の再興までに56年かかった計算になる。

空堀f:id:shinsaku1234t501:20170606173909j:image土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606174009j:image城址南側に隣接している陶昌院は、重松秀村(尾張二宮 大縣神社祠官)の子孫とされる落合右近将監勝正が永禄7年(1564)に創建した菩提寺である。

愛知県小牧市大字上末中小路 久保山陶昌院 右から落合宗親墓・落合勝正墓・落合安親碑f:id:shinsaku1234t501:20180610203451j:image

宍戸城(茨城県笠間市)

宍戸城は鎌倉・安土桃山・江戸に大きな転機を迎える。

宇都宮宗綱の四男である八田知家が、源義朝の没落と頼朝・頼家の幕府体制に歴仕する中で常陸守護職に任じられる。

笠間市平町 新善光寺址(中央右 八田知家墓、左 宍戸家政墓)f:id:shinsaku1234t501:20170519181809j:image長男の知重こと常陸小田氏を宗家とし、次男の有知が美濃伊自良氏・三男の知基が下野茂木氏と分派する中、四男の家政は常陸宍戸を領す。こうして、家政が築いたのが宍戸古館である。

笠間市友部町橋爪 宍戸古館土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200705j:imageまた、この宍戸氏からは足利尊氏に従った功により安芸に下向して、のち毛利元就の縁戚になる安芸宍戸氏も派生する。
室町・戦国時代は宗家でもある小田氏と連携しながら佐竹氏と勢力争いを繰り広げるが、のち服属した。関ヶ原合戦後、宍戸義長は佐竹氏の出羽秋田移封には従わず土着したが、その一族の中には秋田に移住する者もいた。
代わって宍戸に移封されたのは、関ヶ原合戦で東軍に属したにも関わらず、出羽秋田20万石から太閤蔵入地を没収され、常陸宍戸5万2,440石に減封となった秋田実季である。これにより現在地に城郭としての宍戸城が整えられた。

実季は大坂の陣にも従軍するなど目立った問題行動があるようには見えなかったが、なぜか寛永7年(1630)、伊勢朝熊への配流に処せられる。出羽以来の家臣間の対立など不安定要素があったらしいが、特に嫡男俊季との不和が大きな原因と思われる。

というのも、実季正室(俊季生母)である円光院は細川昭元の娘である。すなわち、細川昭元と織田信長の妹であるお犬の方との間に生まれた女子である。もっと言えば、時の大御所、徳川秀忠正室崇源院と円光院は、ともに織田信長の姪であり、従姉妹同士にあたる。

この人間関係を踏まえた上で、実季と俊季の親子不和を考えた場合、幕府の判断は崇源院の血筋に繋がる俊季の家督相続を優先する可能性が大いに考えられる。それゆえ俊季の家督相続の障害となる実季を排除する必要があった。

その証拠に、実季が配流になりながらも宍戸藩自体は改易にはならなかった。当然、俊季が継ぐために宍戸藩は残さなければならないからである。

笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城址f:id:shinsaku1234t501:20170519181831j:image笠間市平町 末廣稲荷神社 宍戸城本丸土塁f:id:shinsaku1234t501:20170519181900j:image笠間市平町 宍戸城土塁f:id:shinsaku1234t501:20170606200803j:imageこうして幕命により家督相続した俊季が、正保2年(1645)、陸奥三春5万5,000石に移封されると、天領の時期を経て、天和2年(1682)に徳川光圀の弟の松平頼雄が水戸支藩として1万石で入封した。(宍戸陣屋)

笠間市土師 宍戸陣屋表門f:id:shinsaku1234t501:20170519181958j:image幕末の元治元年(1864)、9代藩主頼徳の頃、水戸で蜂起した天狗党の鎮圧に失敗し、切腹及び改易を命じられるという悲劇もあった。

笠間市大田町 松長山成就院養福寺 宍戸松平頼徳墓f:id:shinsaku1234t501:20170519182036j:image慶応4年、頼徳の父で8代藩主だった頼位が新政府の命により再相続して立藩することになった。

豊臣家臣団 その30

大坂夏の陣の後日譚として、直後におこなわれた京都の豊国神社(とよくにじんじゃ)破却が挙げられる。

後水尾天皇の勅許を得た家康は「正一位豊国大明神」という吉田神道の神号を剥奪したのみならず、神社及び豊国廟の破却に乗り出した。

滋賀県長浜市早崎町 巌金山宝厳寺唐門(豊国廟極楽門を移築)f:id:shinsaku1234t501:20180409191612j:image秀吉の正室高台院の懇願で社殿はかろうじて破却を免れたものの、以後、参道は封鎖されたという。現在の豊国神社境内に高台院が必死に守った馬塚が遺されているが、これこそ江戸時代を通じて秀吉の本当の墳墓とされてきたという。

京都府京都市東山区高台寺下河原町 鷲峰山高台寿聖禅寺 霊屋(北政所葬地)f:id:shinsaku1234t501:20180513112544j:image「神社や墓まで破壊しなくてもいいのではないか」という後味の悪さを覚えるのは尤もではあるが、「吾妻鏡」の源頼朝を模範とする家康からすれば、平家だけでなく奥州藤原氏義経や範頼ら将来の禍根となりうる可能性は片っ端から葬らねばならないとする仮想敵の掃討こそ最大の課題である。
徳川家の最大の対抗馬として君臨し続けた豊臣家を全否定することは、いわば幕府一強体制を公然の事実にするための力ずくの総仕上げと言える。当然、中途半端は許されない苛烈なまでの仕置を要する。それは豊臣家を奉じることを許さないのではなく、奉じるべき豊臣家がそもそも存在しないという現実を大名家や諸国の牢人に突きつけることを意味する。もちろん、その動きに豊臣恩顧の誰かが反論を唱えたという事実はない。

それでも、馬塚は「国泰院俊山雲龍大居士」という戒名を授けられた秀吉の供養墓として、江戸時代を通じて庶民に崇められたとする説があるが、定かではない。

対する家康は没後、南光坊天海の主張する山王一実神道により「正一位東照大権現」の宣命を受ける。後水尾天皇はその生涯において「豊国大明神」を剥奪する一方で、「東照大権現」を勅許したことになる。

京都府京都市東山区茶屋町 豊国神社 馬塚f:id:shinsaku1234t501:20180513120015j:imageまた、三代将軍家光が許可していた豊国神社再興案も酒井忠世らの反対で却下された。

ここまで豊臣家を亡き者にした徳川家を悪辣と考えるのは簡単だが、新しい支配体制を浸透させるために前時代を否定するのは、明治維新にも見られることであって、決して珍しいとは言えない。

但し、関ヶ原合戦の恨みが原動力となって薩長が討幕に邁進したとするのは適切とは言いがたい。薩摩藩島津斉彬・久光兄弟にしても幕政改革を望んでいただけであり、西郷隆盛も第一次長州征伐では幕府軍参謀を務めている。即ち、薩摩藩における討幕運動は成り行きでしかない。長州藩吉田松陰系列の木戸孝允高杉晋作が討幕を目指す一方、その反対派である 俗論党が藩内の要人を粛清してまで幕府に恭順の姿勢を表した時期もある。また、往時には豊臣恩顧だったはずの黒田家・浅野家・細川家・蜂須賀家・前田家なども、決して討幕の主戦力にはなっていない。それどころか、上杉家に至っては当初、奥羽越列藩同盟の一員として幕府側に就いている。幕末の一連の動きが豊臣家復権関ヶ原合戦の雪辱ではないことは容易に理解できよう。

世に「歴史は勝者によって作られる」という。この言葉自体は否定できない。しかし、敗者が全く歴史を残さなかったわけでもない。江戸時代を通じてタブー視されてきた豊臣家ではあるが、こんにちの我々が秀吉や秀頼の事績を知ることができるのは、何かしらの史料や伝承が連綿と伝えられてきたからに他ならない。表立っては「黙して語らず」を貫いた豊臣家臣団が伝えた可能性も大いにある。

最後に明治以降の豊臣家の復権を紹介する。以下はその主な遍歴である。

●慶応4年(1868)閏4月、大阪行幸に際して明治天皇が豊国神社再興を沙汰したことに端を発し、翌月には鳥羽伏見戦没者が合祀される。

明治6年(1873)、別格官幣社に列せられる。

明治8年(1875)、京都東山に社殿を建立。

明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡地に遷座して現在に至る。

明治30年(1897)、境外地である阿弥陀ヶ峰に豊国廟として五輪塔が建立される。

明治新政府明治6年(1873)6月9日、日光東照宮別格官幣社に列すると同時に、主祭神である家康の左神として豊臣秀吉、右神として源頼朝を配祀した。

また、日光東照宮同様、久能山東照宮にも信長と秀吉が相殿として祀られている。(完)

豊臣家臣団 その29

そもそも、合戦や戦争はどちらも正義を主張して譲らないからこそ発生するものである。どちらかだけに絶対的正義があるという事例などほぼ無い。逆説的に言えることは、豊臣家臣団の盛衰を的確に把握するためには、むしろ敵方の家康、もしくは彼に与した豊臣恩顧をしっかりと理解することが必要である。

にもかかわらず、三成の一途な忠義や真田信繁の武勇に一喜一憂しているだけでは、いつまでも「豊臣哀れ」・「家康憎し」という薄口な歴史観にしがみつくことになる。この点については、小説家の想像のほうが卓越、且つ先行し過ぎた感があり、考古学のように科学的傍証に基づいて慎重に議論されている分野よりも遥かにデフォルメされた俗説が罷り通っている。

例えば、家康と同時代の覇権を争った前田家・織田家・上杉家・島津家・毛利家・伊達家・北条家などは大名として命脈を保ち、没落したとはいえ武田家・今川家・大友家・三好家なども徳川家旗本として家名を伝えた。

一方、徳川家の姻戚にまでなった清正の加藤家は、寛永9年(1632)、忠広の代に改易された。福島家も元和5年(1619)に広島城の修築手続きの不備を問われて信濃高井野へ減封された。追い討ちをかけるように、寛永元年(1624)には正則没後の手続き不備を理由に改易されたものの、正利の代に旗本として再興された。

ちなみに、どちらの改易も家康没後のことである。即ち、生前の家康が清正や福島ら外様大名を特に問題がない限り、それなりに遇してきたことを物語る。それが改易に至るのは、二代将軍秀忠の冷徹なまでの地固め、三代将軍家光の独裁体制確立という次のステージが控えていたことを窺わせる。

即ち、初期江戸幕府の大名政策は家康が慰撫、秀忠が整理、家光が支配と、さながら三段階で完成した感がある。ゆえに、徳川三代という長期的な見方が不可欠と言える。

そう考えると、関ヶ原合戦で敵対した毛利家や島津家、上杉家などを家康が取り潰さなかったのは、秀吉から直接恩恵を受けてまだ存命中の諸大名をいたずらに刺激しないための一策であることが理解できよう。依然、大坂城豊臣秀頼が崇敬を集めている状況で、他の大名家と事を構えるのは得策ではない。家康は初代将軍、のち大御所として君臨しながらも、むしろ外様大名に細心の注意を払っていたと思われる。その深謀遠慮があったればこそ、大坂夏の陣後、代替わりした大名家の帰趨を見定める中で改易を断行した秀忠、さらに跡を継いだ家光の盤石な支配体制が到来したと考えるのが妥当である。

また、関ヶ原合戦から大坂の陣までの時期は、家康につき従ってきた武将中心の政治形態から土井利勝松平信綱酒井忠世などに代表される政策ブレーンが育成されるプロセスでもあった。軍事を以って力ずくで滅ぼす戦国の世から、幕府の権威を以って大名を統制する世の到来を模索する雌伏の時期とでも言うべきか。今に伝わる「元和偃武」とは、その支配体制が確立したというよりも、始動したことを示す言葉と解釈できる。

かの司馬遼太郎が著書の中で「家康の名家好き」と評した通り、家康は大名家や名臣の家柄を何かしらの形で残した。それは関ヶ原で西軍に属した大名家もまた然りである。とすれば、減封や転封はあるにせよ、豊臣家が柔軟な対応を見せてさえいれば存続しうる可能性はあったと考えられる。
にも関わらず、豊臣家は完膚なきまでに家系を絶たれたのである。

和歌山県伊都郡高野町高野山 奥之院 豊臣家墓f:id:shinsaku1234t501:20170919201931j:image

豊臣家臣団 その28

さて、同時代を生きた徳川家康だが、ただ座っていたら棚からぼた餅が落ちてきたわけではない。信長との同盟を堅守し、信玄とともに旧主今川を滅ぼし、秀吉に楯突くことなく常に支え、豊臣家を滅ぼしたのちに朝廷・公家・寺社までも制した。そこには、忠義、下剋上、誠意、謀略、軍事力、政治力、保身など上記の人物たちと変わらないキーワードが認められる。むしろ、同時代の人物と同様か、それ以上の執念と労苦、思考力・行動力を伴った人生である。「常在戦場」とは、彼の人生かもしれない。
にもかかわらず、なぜか彼だけが屈指の悪役にされるのは明治以降の曲学史観と判官贔屓に代表される善悪のレッテル貼りでしかない。なるほど英雄譚は血湧き肉躍るストーリーだが、歴史の部分的切り取りでしかない。しかし、残念ながらむしろその部分こそ誇張して伝えられている。

静岡県静岡市葵区駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170919203747j:imageちなみに、小説やドラマなどで主人公の武将が恒久平和を追い求めるような善人の設定をよく見かけるが、戦国乱世の時代に庶民まで視野に入れた平和を追求した武将など、おそらく唯の一人もいないであろう。

戦国大名と称される領主層の指す平和とは、自身が頂点に君臨し、権力を以って領国に号令することを意味する。また、家臣層からすれば合戦は手柄を立て、自身をアピールする立身出世の好機でもある。戦乱が失くなることは必ずしもありがたいことではない。大坂の陣の発生要因はその顕著な例でもある。

仮に秀吉没後の豊臣家が天下を統べることができたとしても、それは豊臣家隆盛のための天下でしかなく、三成ら家臣もそうなるように大名や庶民を仕置・統制したことであろう。太閤検地刀狩令バテレン追放令など代表的な施策を見ても、その原点は秀吉個人への集権化という発想でしかない。当時の日本に存在しない民権思想で平和を考えてはならない。

また、人によって解釈が違うと思うが、私は「豊臣政権」という歴史用語にすら違和感がある。厳密に政権と言える権能や機関を有していたか疑問だからである。

この「政権」を巡る解釈からすれば、家康は諸大名を率いて豊臣政権を破壊し、新たに徳川政権を樹立した革命家のような存在となる。一方、豊臣政権ではなく、豊臣家をただの私的な存在、もしくは諸国武家の中の盟主と解釈すれば、戦国の習いとして徳川家が取って変わっただけの現象である。

家康の江戸幕府とて、当初は戦国の気風よろしく徳川家、もしくは武士階層中心の法整備や町造りをおこなってきた。そして、豊臣家を滅ぼした次の段階で着手したのが朝廷・公家・寺院の規制であった。もっとも、町民や農民にまで政策が及ぶには、知っての通り家綱・綱吉の代まで待たねばならない。

長きに亘り豊臣家臣団を語ってきてあらためて思うことは、後世の我々がとやかく言うよりも、当事者たちがすでに答えを出していることである。後世の我々は、つい葉隠武士道の感覚で忠義を基準に物事を考えがちだが、そもそも葉隠武士道の成立は江戸中期である。もちろん、戦国・安土桃山時代にも時代に合った倫理観があったことは否定しないが、忠義や正義という興奮材料もさることながら、地に足がついた現実も選択されていたのである。

豊臣家臣団 その27

その一方で、対する家康は実に汚い手段や権謀術数を用いてまで、着々と「存続しうる家」を作っていったのである。家康には、ありとあらゆる手を使って天下を簒奪したという悪いイメージが根強いが、それは裏を返せば乱世を統一するに必要な政略を有していたという証拠でもある。そもそも歴史上の人物を善人・悪人という視点で分類することにさほど意味はないと考える。

例えば、北条早雲(伊勢宗瑞)は謀略で小田原城を奪うことで関東に覇を唱え、武田信玄は一方的に同盟や約束を破棄して版図を拡げ続けた人物でもある。

義を掲げる上杉謙信は助けを請う者を救うことなく撤退を繰り返し、毛利元就は陰謀の限りを尽くして敵を撹乱した。

織田信長は軍事力・経済力・政治力を併せ持つ稀有の存在として朝廷をも脅かす存在と化し、豊臣秀吉は粛清を繰り返して典型的な独裁者の道を歩んだ。

石田三成も止むに止まれぬ忠義とはいえ、豊臣家を保つためにおよそ政治力を駆使せず、逆に軍事力に訴えた点において首謀者の側面を持つ。さらに、戦場から敗走して捕縛されたのちに「大志を持つ者は命を惜しむ」と言い放った干し柿の話がつとに有名だが、それを言ってしまったら関ヶ原の戦場で奮戦の末に自害した大谷吉隆や戦死した嶋清興・平塚為広らは命を惜しまなかったことになる。本当に再起を図るためというならばどこへ逃れようとしたのか、もしくは命冥加で逃げただけなのか、美談や贔屓に引きずられることなく冷静に解釈する必要がある。そういった意味では、将たる資質にも疑問が残る。

上杉景勝は下野から引き返す東軍を追撃せずに無傷で帰してしまう裏切りともとれる失態を演じ、一方で戦局に直接影響がない最上義光を攻撃しただけである。

毛利輝元もまた、関ヶ原の主戦場ではなく、伊予出兵という局地戦に終始し、西軍の敗戦を知るや、あっさりと大坂城から退去するおよそ総大将とは思えない不甲斐なさである。
真田信繁にしても、関ヶ原の敗戦後に兄信之や本多忠勝らの助命嘆願で命拾いしながら、大坂方に与するという傍目から見れば恩知らずで自分本位な面があり、大坂城に籠城した牢人衆もまた戦乱を望み、功を立て名を挙げるという目的のために豊臣家を利用して滅亡に追い込む一役を担ったと非難されても仕方がない。

そして、肝心の豊臣秀頼は自身を巡る合戦でありながら、大坂の陣で唯の一度も出陣しないという奇妙な対応をした。現在判明している範囲で、この人物が能動的におこなったのは裏切者と目される人物を石垣の上から突き落としたことと自害だけであった。

京都府右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町 五台山清凉寺 秀頼公首塚f:id:shinsaku1234t501:20170919204615j:image