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侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログです

甲陽鎮撫隊から新選組へ その1

新選組新選組を名乗らなかった時期を語る。

鳥羽伏見の戦いから江戸への東帰と、慶応4年(1868)正月から新選組の立場は驚くほどに転がり始めた。

江戸に帰った新選組は、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を警護していたが、幕臣として大久保剛の名を賜った近藤勇、内藤隼人の名を賜った土方歳三らに率いられて甲府城攻略に挑むことになる。

その際に、以前からの新選組隊士約80名に、浅草弾左衛門の声がかりで急募した200名を加え、新選組あらため甲陽鎮撫隊と改称したとされるが、当時の文献でこの隊名を記載したものは全く無い。佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)の長男、俊宣がこの生き残り隊士であり、大正時代に著した「今昔備忘録」で初めてこの隊名を記載したところ、子母沢寛新選組始末記」で世に流布されたことにより定着したようである。所属していた元隊士の記述である以上、おそらく実際に使用していた隊名だろうとは思われる。

ともあれ、甲陽鎮撫隊は3月6日の甲州勝沼の敗戦を受けて兵の脱走が相次いだ。江戸に帰ると永倉新八原田左之助ら古参隊士までもが意見の相違から袂を分かち、12日には靖兵隊(靖共隊)という別組織を結成する。

大久保剛から大久保大和に名を変えた近藤は、3月13日、甲陽鎮撫隊48名を率いて浅草を発ち、同日夜に五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)に到着した。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家表門f:id:shinsaku1234t501:20170521191947j:image3月15日には内藤ら約50名が合流し、4月1日までこの地に駐屯した。大久保や内藤らは名主見習の金子健十郎家に宿営する。

この家に伝わる「金子家文書」(新選組関係資料 足立区登録有形文化財)から史実が見えてくる。金子家としては一夜だけの宿泊のつもりが、翌々日に内藤ら約50名が合流することで収容しきれず、また日を追うにつれて人数が増えていくため、近在の家や観音寺に分宿することになった。

足立区綾瀬 観音寺本堂f:id:shinsaku1234t501:20170526163203j:image金子家が迷惑していたという土地の話が伝わるが、ひとまず村をあげて食材を提供するなど協力体制で対応したという。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家 当時の母屋の復元と思われるf:id:shinsaku1234t501:20170521191921j:imageまた、この資料の中には大久保大和率いる一行が宿泊していることを土地の年寄 大室源右衛門が代官所に届け出た書付があり、代官 佐々井半十郎も把握していたことが裏付けられる。

足立区綾瀬 大室源右衛門家f:id:shinsaku1234t501:20170526163107j:image

石田堤(埼玉県行田市〜鴻巣市)

最初は忍城に力攻めを仕掛けたが撃退され、のち方針を変更して豊臣秀吉を真似た水攻めをしたものの、開城に至らなかった。すなわち、石田三成は戦下手というのが通説だが、資料によると、悉く逆のようである。

行田市佐間 さきたま古墳公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306200829j:image秀吉からの水攻め命令は当初より伝わっており、そこにあとから参陣したのが石田三成である。水攻めという作戦が前提であることから兵の士気は低く、「どうせほどなく開城するだろう」と攻める気配すらない。そこに秀吉からの書が届く。

「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命乞儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共、定一万計も可有之候歟、然者隣郷可成荒所候間相助、城内、小田原ニ相籠者共、足弱以下者端城ヘ片付、何茂請取候」(天正十八年六月十二日 豊臣秀吉朱印状)

行田市堤根 石田堤碑f:id:shinsaku1234t501:20170306201253j:image三成は陣中に蔓延する「どうせ水攻めだから・・・」という楽観的な雰囲気を下記のように浅野長吉・木村常陸介宛て文書で嘆き、力攻めを主張している。

「然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之、御理ニまかせ有之事候、城内御手筋へ御理、半人数を出候ハゝ、遅々たるへく候哉、但人数を出候共、御詫言之筋目ハ、其かまい有之間敷候ハゝ、先可押詰候哉、御報待入候、猶口上申含候」(天正十八年六月十三日 浅野長吉宛書状)

行田市堤根 石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170315212633j:imageさらなる秀吉からの文書では、油断なく水攻めの普請をおこなうよう命じ、堤普請が大体できあがった頃には使者を派遣すると伝える。

水責普請之事、無由断、申付候者、尤候、浅野弾正真田両人、重而被遣候間、相談、弥堅可申付候、普請大形出来候者、被遣御使者、手前ニ、可被為見候条、成其意、各可入精旨、可申聞候也」(天正十八年六月二十日 豊臣秀吉朱印状)

  のち、秀吉の命により浅野長吉が参陣し、忍城下の皿尾口で三十余の首級を取るほどの戦功を秀吉に報告するが、下記の文書の通り、その程度の戦功は当たり前のような扱いで、とにかく水攻めを履行するよう強調される。

「一昨日朔日さろう口乗破、首三十余討捕之由、絵図被成御覧候、破候て可然所候條、尤被思召候、菟角水責ニ被仰付事候間、其段可申付候也、」(天正十八年七月三日 豊臣秀吉朱印状)

行田市白川戸 西明寺f:id:shinsaku1234t501:20170306201137j:imageこうして、白川戸村の西明寺から丸墓山古墳を経由して久下村に至る総延長28kmにわたる石田堤ができたものの、映画のように津波が起きることはなく、ジワジワと水が城に迫る感じだったとのこと。
なおかつ、陸に上がりたい多数の蛇が城まで泳いできたため、城兵は困ったあげく、蛇をいかにして食すべきか思案したという話が伝わっている。

鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤上部f:id:shinsaku1234t501:20170306201438j:image鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306201526j:image鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園付近にある堀切橋f:id:shinsaku1234t501:20170306201621j:image

意外と体育会系?・・・徳川家康 後編

さらに、家康は弓を取れば竹林派の石堂藤右衛門に師事して免許を取得した。そのおかげなのか、三方ヶ原合戦の敗走中、追いすがる武田兵数人を騎射で仕留めて逃げ切ったという。必死の形相で逃げただけではなく、実際に敵を討ち取りながらの敗走ゆえに、恐怖のあまり脱糞にも気づかなかったと考えるほうが無理はない。余談だが、実は脱糞について触れたのは「改正三河風土記」(天保8年刊)のみであり、なおかつ三方ヶ原合戦ではなく、その前哨戦となった一言坂合戦におけるエピソードとなっている。ちなみに、家康が一言坂合戦に出陣していないことから事実関係を疑う説もある。

砲術については、関ヶ原合戦前夜、長岡忠興正室ガラシャが自害した際に脱出したことで、忠興から恨まれたその家臣、稲富祐直を助命した縁で、師事して稲富流免許を得る。祐直はさらに、尾張清洲松平忠吉、その跡を受けて名古屋城主となった徳川義利(のちの徳川義直)にも仕えた。家康のみならず、次々にその子に仕えたという事実を見れば、いかに重用されたかが分かる。

実際、家康は毎日鉄砲の訓練を欠かさず、100メートル先の鶴を仕留めた事実もある。

もともと家康と鉄砲の出会いは非常にほろ苦いものであった。永禄年間の三河統一の過程において、小笠原安重(幡豆寺部城主)・小笠原安元(幡豆欠城主)らを走り付けの浜まで追撃した結果、敵軍の鉄砲(空砲)の轟音に驚いて敗走した「走り付けの戦い」と称する不名誉な合戦がある。

こうして、鉄砲の効なり害なりを知る家康は、慶長12年(1607)に国産鉄砲の製造を近江坂本郡国友村に限定し、鉄砲代官を設置して幕府の許可による案件のみと厳しく取り締まった。これは日本史上において鉄砲が厳しく取り締まられた初めとされ、ゆえに銃社会にならなかった所以と評価されている。

しかし、元和元年(1615)1月11日、家康は国友村に大量の鉄砲を発注する。ちょうど、その時期は大坂城の堀埋め立てを巡る大坂方とのせめぎ合いがおこなわれていた時期でしかない。すでにこの頃に再びの合戦を視野に入れていた証拠である。

また、大坂冬の陣において片桐且元が下知した最新式の鋼鉄製ガルバリン砲の砲弾が大坂城に命中することで、大坂方が和睦に至るくだりがあるが、これは家康家臣である田付景澄が砲撃したものである。田付が輸入銃器担当の砲術家であるのに対し、国産銃器の製造は井上正継が担当した。

長巻(薙刀)は三河時代、有馬貞時に3年間師事し、新当流(有馬流)の奥義皆伝となるが、ほどなく貞時が亡くなったことで、家康がこの流派の後継者として宗家を襲名し、のち貞時の孫にあたる有馬秋重が家康に師事する形で皆伝を授けたという事実もある。
また、「徳川実紀」などの記載をつぶさに見ても、若年から死の直前まで鷹狩に勤しんでいた頻度を考えると、かなり活動的な印象を受ける。

以上の事実から考えると、動きの鈍い太った殿様のイメージとはほど遠い。
伊賀越えは確かに少ない家臣と軍事的備えがない状況下であったため、彼の一生における窮地には違いないが、必要以上に怯えていたとするのは脚本家の認識の問題でしかない。

愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418233351j:image同様に、三方ヶ原合戦で脱糞しながら敗走したこと、大坂夏の陣真田幸村に本陣を抜かれて命からがら逃げたことなど、みっともない姿が描かれがちだが、実際は同時代の大名の中では、まずもって第一級の武人と言っていい。

意外と体育会系?・・・徳川家康 前編

平成28年NHK大河ドラマ真田丸」の序盤、伊賀越えのシーンにおいて内野聖陽扮する徳川家康が、滑稽なほどに怖気づいた表情に違和感を感じた。そこで、ネット検索したところ、全く同じ疑問を持った人がいた。

むしろ、家康は同時代の大名の中では武芸に優れた人物だったはず、と記憶している人にとっては、それほどに納得がいかないシーンだったのである。

まず、家康の生涯最初の剣術指南役として有馬神道流の有馬満盛が挙げられるようだが、のちほど触れることになる有馬貞時と混同される部分もあり、詳細は不明。

特に有名な剣術指南役は奥山公重(休賀斎)であろう。元来、公重は奥平貞能三河亀山城主)の家臣、奥平貞久の七男であり奥平孫次郎定国と称した。若い頃から三河では高名な剣客であったが、さらなる道を極めんと甲斐に滞在中の上泉信綱に師事して2年ほど寝食をともにする旅の中で新陰流印可を受ける。

その後、故郷三河に戻ったものの、さらに今の浜松市北区引佐町にある奥山明神(現 奥山神社)に籠り、孤独な修行をした前後に奥山と改姓したようである。当時の遠江国引佐郡で「奥山」と言えば、井伊直虎の家臣に関係があったと考えざるを得ない。

元亀元年(1570)、奥平貞能の嫡男、定昌(のちの奥平信昌)が姉川合戦で戦功著しかったことから、家康が剣術の流派を尋ねたところ、「奥山流」と答えた。これにより召し出されて家康に仕官することになり、「公」の一字を賜って奥山公重と改名。ここから家康の剣術指南役となり約7年間にわたって、時には家康が失神するほどの厳しい修行もあったらしい。

この功により公重は天正2年(1574)、御台所御守役(築山御前付き)を命じられたが、のち病のため致仕して旧主奥平貞能のもとに戻ったという。

その後、家康は柳生宗矩から新陰流、小野忠明から一刀流の指南を受けたのみならず、九男の義利(のちの義直)に剣法書を書き残した。

静岡県静岡市葵区 駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418232306j:imageなお、家康は馬術においては大坪流と八条流を修め、印可皆伝まで極めた。

松野氏館(埼玉県さいたま市見沼区)

宇都宮氏の支族で、武蔵に移住した松野助信がこの地に館を構えて太田道灌に仕える。(松野氏館)

松野氏館跡案内板f:id:shinsaku1234t501:20170321225107j:image
子の助正は太田氏房の家臣として小田原征伐で浪人となるが、ほどなく家康旗本になる。
子の資信が寛永2年に200石を賜って旧領であるこの地に陣屋を構えた。(御蔵陣屋)
ということは助正の代はここに居住していたのか?など細かい疑問は残る。
助正が家康から賜った本領安堵状でもあればいいのだが・・・
後北条→徳川旗本という典型パターンの一例である。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170321225149j:image

十九首塚(静岡県掛川市)

静岡県掛川市十九首

十九首塚由来説明板f:id:shinsaku1234t501:20170515001959j:image天慶3年(940)2月14日、新皇を称して関東一円に君臨した平将門は、下総猿島の戦いにおいて戦死する。将門を討ち果たした俵藤太こと藤原秀郷は、将門とその家臣の首級を携え上洛の途につく。

その一行がこの地に差しかかった時、勅使と合流した。勅使の目的は将門の首実検であり、早速、近くの下俣川で次々と首級を洗い、橋の欄干に掛けて検視をおこなった。勅使は目的を終えた首級を破棄するように伝えたが、秀郷は「仮にも将門はひとかどの武将である」として、十九の首級を川畔に丁重に葬り、将門の念持仏を祀る寺(庵)を建立した。

このエピソードから、首級を洗った下俣川は「血洗川」と伝えられ、埋葬された地は「十九首」と呼ばれ、将門の念持仏である薬師如来を祀った寺はのちに「東光寺」と名を変えて現在地に残り、橋の欄干に首級を掛けたことから「懸川(掛川)」という地名になったと言われる。

下俣川 f:id:shinsaku1234t501:20170401171207j:image時を経て、この地に悲劇が起きる。

永禄3年(1560)の桶狭間合戦今川義元が戦死し、今川家から独立した松平元康の三河統一が図られるさなかの永禄5年(1562)、井伊谷城主 井伊肥後守直親が松平家への接近を目論んだという噂が流れる。

井伊直親駿府今川氏真に弁明するために井伊谷を出発して駿河に向かうが、一行がまさにこの地に差しかかった時、氏真の命を受けていた掛川城朝比奈泰朝の襲撃を受けて主従ともども惨殺された。

現在の十九首塚(中央の五輪塔平将門f:id:shinsaku1234t501:20170401171134j:image相馬小太郎将門

御厨三郎将頼

大葦原四郎将平

大葦原五郎将為

大葦原六郎将武

御厨別当多治経明

御厨別当文屋好兼

藤原玄茂

藤原玄明

坂上遂高

武藤五郎貞世

鷲沼庄司光則

鷲沼太郎光武

隅田忠次直文

隅田九郎将貞

長狭七郎保時

大須賀平内時茂

東三郎氏敦

堀江入道周鍳

しかし、将門の首塚といえば、埼玉県幸手市の浄誓寺、東京都千代田区大手町や岐阜県大垣市の御首神社にも由来するがゆえに、この地の首塚は将門ではなく、井伊直親とその家臣を祀るものという言い伝えもあるらしい。また、当初、十九基あったはずの首塚は時代を経ていく中で次第に数が減っていき、中央の将門の首塚とされるものを残すだけとなっていたが、近年、場所を移動して写真の通り整備された。

なるほど疑問は多々ある。まず、将門らの首をこの地で洗ったというのはいかがなものか。

本来、戦場における首実検の段階で洗い清めるべきであり、日が経ってから洗ったとしてもこびりついた血痕が綺麗になるものだろうか。腐敗も始まっているかもしれない。

また、将門は若き頃、京にいた時期があるものの、首実検にあたって顔を知っている存在が勅使の中にいるのか。

さらに、この地に伝わっている将門の名が「小太郎」というのはおかしい。正しくは「小次郎」であるはず。

一方で、井伊直親が連れていた家臣が十数人程度だった可能性は十分にあること。

敵地で殺された直親の遺体を井伊谷まで持ち帰る南渓瑞聞が、ひっそりと供養塔を建立した可能性も考えられないわけではない。それを平将門首塚と称することができれば、祟りを怖れるあまり撤去されないのではないか。

なにせ、井伊家出身とはいえ、南渓は今川義元の葬儀の導師を務めた名僧であるがゆえ、今川家としてもひっそりと供養塔を建てるぐらいは目をつぶったのではないかなど、この首塚については興趣が尽きない。

もっとも、南渓が持ち帰った直親の遺体は、都田川畔で荼毘に付し、現在の浜松市北区細江町に墓がある。

いずれにせよ、十九首は非業の死を遂げた人物の鎮魂の場であることに違いはないらしい。

長者山城(茨城県水戸市)

茨城県水戸市渡里町

一盛長者伝説地碑 f:id:shinsaku1234t501:20170514234830j:image石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。
後三年の役終結後、寛治2年(1088)、陸奥守を解任され帰洛途上の義家が再び立ち寄ったところ、前にも増した饗応を受けた。
これによって、義家は長者の財力を危険視して急襲。一旦は抜け穴に逃げ延びた一盛長者だったが、追い詰められると、家宝である黄金の鶏を抱いて那珂川に身を投げたと伝わる。

一盛長者伝説地碑側面の説明文f:id:shinsaku1234t501:20170514235204j:imageただ、こんにちのイメージにある資産家という単純なものではなく、おそらく平安時代における長者というのは財力・土地一円の支配力・軍事力を兼ね備えた土豪と考えられる。

また、義家が武士の面目にかけて壮絶なまでに戦った後三年の役は「朝廷の意向に基づかない私戦」と認定され、何らの褒賞もなかった。武士が命をかけて戦う一方で、諸国の長者が利権を得ていくさまが、彼の神経を逆撫でした、とも思える。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170514235525j:imageのちに義家のもとに諸国の百姓から荘園が寄進されるに及び、寛治5年(1091)、朝廷が義家への荘園寄進を禁じる宣旨を出すことになる。本所・領家として君臨する摂関家や上級公家、預所・庄司として現地の荘園管理を担う下級公家。そのどれにもあてはまらない武士でしかない義家が諸国の名声を勝ち得ると同時に、荘園を所有する貴族化は許されざることだったに違いない。

奇しくも、源氏には長者伝説が付きまとう。

1、平治の乱で美濃大垣まで落ち延びた源義朝・朝長父子を匿った青墓長者

2、義朝の子である範頼は、遠江池田宿の遊女の子とされているが、実は池田一帯の長者の娘であったらしい

2、義朝の子で、奥州平泉を目指す若き義経三河矢作の兼高長者の世話になり、その娘である浄瑠璃姫と恋仲になるが、義経出立ののち、浄瑠璃姫は川に身を投げた

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170320195208j:image なお、義家が宿泊した折に、馬の飼料である煮豆の残り汁を発酵させたものが振る舞われたことから、納豆の発祥とも伝わる。