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侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログです

和田城 その2(千葉県我孫子市)

千葉県我孫子市布佐 わだ幼稚園

土塁は幼稚園の園舎に沿って続く。
土塁上部f:id:shinsaku1234t501:20170311214936j:image下に降りてみても、その高さは明らかに2mを超すだろう。
幼稚園敷地内から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170311215056j:imageさらに、幼稚園の裏の住宅地から見ると、随分と高い垣根にしか見えない。実は、幼稚園の内と外では高低差があるため、敷地内の土塁の高さは2m強だが、低くなっている裏手の住宅地から見ると、その倍近く高く見える。
幼稚園裏手の住宅地から見た土塁f:id:shinsaku1234t501:20170311215150j:imageまた、土塁の中に無造作に置いてあるかのような祠の側面には「北條◻︎氏」と刻まれている。

土塁の中にある「◻︎◻︎社」の祠f:id:shinsaku1234t501:20170311215235j:image
最後に、近くの勝蔵院にも和田義盛巴御前・朝比奈義秀を祀る和田塚があり、近在には和田義盛の家臣の末裔と伝わる家もあるという。

千葉県我孫子市布佐 西光山勝蔵院 和田塚f:id:shinsaku1234t501:20170320200932j:image

長者山城(茨城県水戸市)

茨城県水戸市渡里町

一盛長者伝説地碑 f:id:shinsaku1234t501:20170320195115j:image石碑側面に刻まれている説明や伝説を調べる限り、永保3年(1083)、陸奥守に叙任されて後三年の役が勃発した任地に向かう源義家が10万余の大軍を率いて当地に立ち寄り、一盛長者なる主人より歓待を受けた。
後三年の役終結後、寛治2年(1088)、陸奥守を解任され帰洛途上の義家が再び立ち寄ったところ、前にも増した饗応を受けた。
これによって、義家は長者の財力を危険視して急襲。一旦は抜け穴に逃げ延びた一盛長者だったが、追い詰められると、家宝である黄金の鶏を抱いて那珂川に身を投げたと伝わる。

一盛長者伝説地碑側面の説明文f:id:shinsaku1234t501:20170320195134j:imageただ、こんにちのイメージにある資産家という単純なものではなく、おそらく平安時代における長者というのは財力・土地一円の支配力・軍事力を兼ね備えた土豪と考えられる。

また、義家が武士の面目にかけて壮絶なまでに戦った後三年の役は「朝廷の意向に基づかない私戦」と認定され、何らの褒賞もなかった。武士が命をかけて戦う一方で、諸国の長者が利権を得ていくさまが、彼の神経を逆撫でした、とも思える。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170320195150j:imageのちに義家のもとに諸国の百姓から荘園が寄進されるに及び、寛治5年(1091)朝廷が義家への荘園寄進を禁じる宣旨を出すことになる。本所・領家として君臨する摂関家や上級公家、預所・庄司として現地の荘園管理を担う下級公家。そのどれにもあてはまらない武士でしかない義家が諸国の名声を勝ち得ると同時に、荘園を所有する貴族化は許されざることだったに違いない。

奇しくも、源氏には長者伝説が付きまとう。

1、平治の乱で美濃大垣まで落ち延びた源義朝・朝長父子を匿った青墓長者。

2、義朝の子である範頼は、遠江池田宿の遊女の子とされているが、実は池田一帯の長者の娘であったらしい。

2、義朝の子で、奥州平泉を目指す若き義経三河矢作の兼高長者の世話になり、その娘である浄瑠璃姫と恋仲になるが、義経出立ののち、浄瑠璃姫は川に身を投げた。

土塁f:id:shinsaku1234t501:20170320195208j:image なお、義家が宿泊した折に、馬の飼料である煮豆の残り汁を発酵させたものが振る舞われたことから、納豆の発祥とも伝わる。

赤坂見附(東京都千代田区)

東京都千代田区紀尾井町

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221827j:image寛永13年(1636)、62の大名家に石垣、58の大名家に堀を担当させる形で飯田橋・四谷・赤坂・溜池の江戸城外堀普請がおこなわれた。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221104j:image寛永9年(1632)、栗山利章の訴えに端を発した筑前黒田騒動で改易を免れた黒田忠之としては、この天下普請は幕府に忠誠を示す絶好の機会となったのかもしれない。

赤坂見附御門石垣f:id:shinsaku1234t501:20170318221233j:imageこうして黒田家が築いた桝形石垣の上に、加藤正直・小川正則ら普請奉行が赤坂御門を完成させたのは寛永16年(1639)。

赤坂見附周辺の江戸城外堀(弁慶堀)f:id:shinsaku1234t501:20170318221300j:imageなお、明治5年(1872)に門が撤去された。

また、赤坂見附御門石垣から国道246号沿いに外堀(弁慶堀)に沿って歩き、弁慶橋を渡ってすぐの場所に紀伊和歌山藩邸址碑がある。ここからが紀尾井町となる。

紀伊和歌山藩邸址碑f:id:shinsaku1234t501:20170318221351j:image

野口館址(岐阜県各務原市)

岐阜県各務原市蘇原野口町 個人宅

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170312224500j:imageとにかくネットなどを駆使しても、この館の歴史は分からない。

野口館址空堀f:id:shinsaku1234t501:20170312224830j:image一部では中世の土豪の居館という説があるが、史料等に基づくものではないようだ。

野口館址土塁f:id:shinsaku1234t501:20170312224907j:imageさらなる不思議はその居館址に大垣城の鉄製の門が明治9年(1876)に払い下げされたこと。

平成21年(2009)まで現存した大垣城移築門f:id:shinsaku1234t501:20170312224421j:image長らく加納城移築門とされていたが、平成21年(2009)にこの館址から現在地である中山道鵜沼宿町屋館に寄贈されるにあたって解体した際に、安政4年(1857)の大垣藩大工奉行支配の人名の墨書が発見されたことで、実は加納城ではなく、大垣城の門と判明した。

大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣左側f:id:shinsaku1234t501:20170312224636j:image大垣城移築門を撤去した現在の虎口石垣右側f:id:shinsaku1234t501:20170312224734j:imageなお、現在の中山道鵜沼宿町屋館に移築されるにあたって修復が施されたので、私が投稿した写真よりは綺麗になっているが、一見をオススメする。

前林城(千葉県成田市)

千葉県成田市前林字城山

妙見神社までの道筋には民家も点在するが、周辺の道はかなり狭い。
妙見神社の鳥居が目印となり、その鎮座する場所も曲輪と言える。
鳥居前の道を下りていく切通しのような鬱蒼とした道筋の左右には土塁や堀址と思われる竹林が残る。

道沿いに残る土塁f:id:shinsaku1234t501:20170313232457j:image堀址f:id:shinsaku1234t501:20170314011736j:image
また、妙見神社が祀ってあることから千葉氏の一族に由来する城と思われる。

好き・嫌いの先の歴史観

歴史談義をする時に必ずつきまとう人物の好きと嫌い。人間、いちいちの事象に好き嫌いの感情があるのは仕方ないが、歴史を語る上でこれほど話の腰を折る面倒なものはない。

「家康が嫌い!」という言葉をよく聞く。それを聞くたびに「バカバカしい」と内心、呆れてしまう。確かに、同時代人の中で家康は嫌われる要素を多く有している。

1、成功者だから嫌い。

2、豊臣家をこれでもか!と滅ぼした。

3、信長や秀吉と比べて陰気で策謀家。

4、信長や秀吉の後ろにいて、努力もせずに天下を簒奪した卑怯者。

5、世界との交易を閉ざして内向的な江戸社会を創った。

6、司馬遼太郎作品の影響。

7、明治時代の徳川否定史観

8、関西以西に多い徳川への対抗心

こんなところだろうか・・・いずれにしても論破できる程度の話である。

私はこの手の話になると、よく言う。

「家康が嫌いということは、あなたの歴史は安土桃山時代の次は、いきなり明治ですよね(笑)」

 いや、もっと言えば楠木正成がもてはやされ、足利尊氏が逆賊設定になった戦前史観と同じ不気味さを感じる。本来は、天皇を奉じた楠木には理想があり、武士の不平不満を抱え込んだ尊氏には情勢不安や社会構造の現実と矛盾がある、と考察するのが歴史である。

時代転じて、薩長が正義で、幕府側は悪(その逆も然り)というのも学問上においては、もう少し相互の置かれた立場を理解すべきであろう。しかし、私自身の実体験として、会津では今でも幕末が人間関係の分水嶺になっている例もあるので、迂闊なことを言えない部分もある。

好き嫌いが先行すれば、それはもはや歴史ではなく、講釈やドラマ、映画、もっと言えばマンガである。

司馬遼太郎は、確かに徳川家康乃木希典に対する辛辣な印象を著作に色濃く残した。しかし、彼の作品を読むことでその影響を何の疑いもなく受け取るならば、それは司馬遼太郎の史観や著作をさも持論のように語っているにすぎない。

かの武田鉄矢は言う。

「オレは司馬遼太郎竜馬がゆくのことなら誰よりも知っている」

なるほど彼が得意なのは、史実としての龍馬ではなく、フィクション込みの「竜馬がゆく」の竜馬であること。だから、彼は熱が入り過ぎて「幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬」という映画や「お〜い!竜馬」という漫画を生み出した。

ところが、そんな武田鉄矢司馬遼太郎は言い放った。「いつまでも竜馬、竜馬ではない!」

この言葉の意味するところを理解できたから、武田鉄矢にはその後の役者としての活躍があったのだろう、と私は思う。

私も司馬遼太郎という小説家を敬愛してやまないが、彼の作品についてはさまざまな小説の中の一つの選択肢程度に読むことをオススメする。 

俗に司馬史観と呼ばれる彼の史観が悪いのではなく、彼の世界観に引き込まれるあまり、自身で思考することなく、それを歴史そのものと勘違いすることが問題なのである。

万喜城(千葉県いすみ市)

千葉県いすみ市万木字城山 万木城跡公園

万喜城遠望f:id:shinsaku1234t501:20170310162307j:image山麓にある機岳山海雄寺(左が土岐為頼墓、右が万木土岐家代々供養塔)f:id:shinsaku1234t501:20170310153613j:image万木土岐氏の系図には複数の説がある。

まずは頼元の子を為頼とする説。
海雄寺の墓誌を実際に確認する限り、初代城主とされる明応元年(1492)没の頼元(曽見院殿)と二代城主とされる天正11年(1583)没の為頼(慶含院殿)の没年差は91年。
親子であるならば為頼が91歳以上の長寿でないと辻褄が合わない。
同じ墓誌には頼元の嫡男(林叟幻華禅定門)が天正8年(1580)没とある。
やはり頼元の死から88年後に没ということは、この人物も88歳以上の長寿である必要が生じる。

一方で、頼元・頼房・頼定・為頼の順とする説もある。
頼房は頼元没の数年後の明応・文亀年間、里見義実の尖兵として上総真里谷城・佐貫城の合戦で活躍したとされる。
また、頼定は斎藤道三に美濃を逐われて上総に落ちた土岐頼芸とする説もある。

ともあれ、頼元と為頼の間に仮に頼房や頼定らが実在したとしても系図や城主に就任した事実は不明。
よって頼元が没してから為頼が家督相続するまでは城主不在とせざるを得ない。

万喜城展望台f:id:shinsaku1234t501:20170310153533j:image余談だが、為頼の嫡子、三代城主の頼春の頃にあたる天正17年(1589)11月、里見軍の大多喜城主、正木時茂が包囲した際、土岐軍の騎馬隊長として20名程度を率いた御子神典膳(のちの小野忠明)が互角に渡り合った。後日、その武勇を聞きつけた一刀流の開祖、伊東一刀斎が万喜城下に出向き、典膳と立ち合う。敗れた典膳は一刀斎に師事し、のち一刀流の後継者として小野派一刀流開祖となり、徳川秀忠の剣術指南役となるのは有名な話。

千葉県成田市寺台 永興寺 小野忠明f:id:shinsaku1234t501:20170310172136j:image話を戻すが、天正17年(1589)、庁南城の武田豊信・安房の里見義頼、大多喜の正木時茂などを相次いで撃退してきた万喜城も、翌年の小田原征伐の一環として本多忠勝に攻略され落城。三代城主、頼春の消息は不明。
翌年、大多喜城に移るまで忠勝の居城でもあった。

万喜城主郭の土塁f:id:shinsaku1234t501:20170310153708j:image