侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その2

さらに、積極的に仕掛けていった引き抜きや改易した大名家旧臣の直臣化により、下記の家臣を得た。

斎藤龍興旧臣】加藤光泰

明智光秀旧臣】木村吉清平塚為広

【柴田勝豊旧臣】小川祐忠

丹羽長秀旧臣】長束正家桑山重晴太田牛一戸田勝成上田重安太田一吉

 愛知県稲沢市長束町沙弥 長束正家邸址f:id:shinsaku1234t501:20170606172328j:image【豊臣秀保旧臣】藤堂高虎宇多頼忠小堀政一杉若無心本多俊政横浜一庵寺田光吉桑山元晴

北条氏直旧臣】岡野融成板部岡江雪斎

織田信雄家臣】前田玄以土方雄久滝川雄利

宇喜多直家家臣】小西行長

徳川家康家臣】石川数正松下之綱

静岡県浜松市南区頭陀寺町 頭陀寺第一公園 頭陀寺城址(松下嘉兵次屋敷跡)f:id:shinsaku1234t501:20170713160237j:image大友宗麟家臣】立花宗茂

【龍造寺政家家臣】鍋島直茂

堀秀政家臣】山中長俊

また、上杉景勝家臣の直江兼続、長岡忠興家臣の松井康之、伊達政宗家臣の片倉景綱などにも直臣に取り立てる引き抜きのような話があったのは、つとに有名である。

毛利家の安国寺恵瓊にしても、秀吉から石高を賜ったと伝わる点においては微妙な立場である。

京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町 東山建仁寺 安国寺恵瓊首塚f:id:shinsaku1234t501:20170712194303j:imageまた、徳川家康の家臣に対しては、かなり露骨であった。本多忠勝には「秀吉の恩と家康の恩のどちらが重いか」と謎かけをしてみたり、井伊直政榊原康政・高力清長・大久保忠隣・奥平家昌・内藤清成・松平康重・三浦重成・永井直勝・阿部正勝・徳川秀忠らには豊臣姓を下賜、村越直吉にも引き抜きを仕掛け、隠居後の酒井忠次には京都桜井の屋敷と隠居料千石を与えている。

もっとも、重臣を引き抜くという露骨な方法で、他家の弱体化を図ったのかどうかは定かではない。しかし、無邪気に、もしくは悪気なく単純に他家の家臣を欲しがったにしても、相手の大名家にとっては内心迷惑な話であろう。

こうして考えると、秀吉が魅力ある他家の家臣をコレクションしようとしたのは、生まれつきの譜代家臣を持たないコンプレックスの裏返しだったのかもしれない。

豊臣家臣団 その1

織田信長徳川家康はもちろんのこと、ほとんどの戦国武将には代々仕える譜代家臣が存在した。平時には主家の家政に従事し、戦時には参陣して身を以って忠誠を尽くす存在である。ただ、出自明らかではない木下藤吉郎には当然、生まれもっての家臣はいない。信長に武家奉公したのち、その命令によって附けられた与力を得ることで初めて家臣団が形成されていったのである。

例えば、ごく初期の家臣である蜂須賀正勝前野長康稲田稙元といった川並衆は、信長の家臣という立場からその命によって秀吉の与力となった。

愛知県江南市前野町西 前野家屋敷址f:id:shinsaku1234t501:20170606212139j:imageまた、秀吉の縁戚である浅野長勝・婿養子の長吉(のちの浅野長政は信長の譜代家臣の家柄であり、竹中重治山内一豊堀尾吉晴一柳直高仙石秀久神子田正治脇坂安治なども信長への直仕を経ての秀吉家臣である。

愛知県岩倉市下本町下市場地内 神明生田神社 山内一豊公誕生地碑 f:id:shinsaku1234t501:20170612234834j:imageこうして、本人の好む好まざるとに関わらず信長の命令によって与力となった家臣団を主軸とする一方で、弟の小一郎長秀(のちの豊臣秀長杉原家利木下家定青木重矩小出秀政などの一門衆が加わることになり、加藤清正福島正則宮部吉継(のちの豊臣秀次三好小吉(のちの豊臣秀勝など次世代の成長によってさらに層が厚くなっていく。

一方で、秀吉の長浜城主時代に仕官した、いわゆる近江衆が台頭してくる。石田三成片桐且元大谷吉継宮田光次増田長盛加藤嘉明戸田勝隆などが代表格であるが、実は増田長盛尾張出身者との説もあり、加藤嘉明三河出身で父とともに徳川家康の元を出奔した浪人である。

愛知県西尾市上永良町 神明社 加藤嘉明生誕地碑f:id:shinsaku1234t501:20170606170757j:imageちなみに、「老人雑話」によれば「武勇第一の人あり」と評された宮田光次は播磨で戦死するのだが、彼の死後、竹中重治が酒席において「宮田没後、羽柴軍の戦闘力が低下した」と呟いたところ、秀吉も頷いたという逸話がある。

この他に、有馬則頼黒田孝高宇喜多直家をはじめとする戦地での現地仕官者が増える。

小牧長久手戦跡 宮後城 後編(愛知県江南市)

江南市前飛保寺町 日輪山曼荼羅寺 蜂須賀家政公顕彰碑f:id:shinsaku1234t501:20170629222808j:image幼少期の家政が市内にある曼荼羅寺の塔頭 梅養軒(現 本誓院)で昌運上人を師と仰いで学問修業をおこなった縁、また寛永9年(1632)に御所紫宸殿を模して曼陀羅寺正堂(本堂)を再建したこともあり、写真のような顕彰碑が建立されている。ちなみに、本誓院には家政の使用した文机や位牌が残されている。

江南市前飛保寺町 本誓院 本誓院由緒沿革碑f:id:shinsaku1234t501:20170610035222j:image蜂須賀正勝・家政父子が羽柴秀吉の家臣として転戦していた時期の宮後城の詳細は分からないが、天正12年(1584)の小牧合戦において修築された。但し、羽柴軍の拠点なのか、織田・徳川軍なのか、諸説あって判然としない。和睦成立後に破却されたという。

また、宮後城の外郭にあたる地に宮後八幡社が鎮座する。本丸としての宮後城に対して、出城の役割を期したものであり、写真の通り野面積みの石垣で囲われている。

 江南市宮後町八幡 宮後八幡社石垣f:id:shinsaku1234t501:20170628191403j:image但し、この八幡社の創建時期については疑義がある。

天正15年(1587)に創建され、寛永元年(1624)、蜂須賀家政によって再建されたとする説が散見されるが、「武功夜話」には正勝が居城していた永禄年間(1558〜1570)には、すでに宮後城主 安井氏が勧請して三輪若狭(蜂須賀正勝正室大匠院まつの兄)が関与していた八幡社があったとしている。

余談だが、大匠院の父親を三輪吉高とするならば、確かに宮後八幡社の社家と伝わり、若狭に相当する人物は吉英と推定できる。しかし、その一方で大匠院の父親を正勝家臣の益田持正とする説もある。戸部新十郎の小説「蜂須賀小六」(光文社時代小説文庫)は、真清田(益田)持正説を採用している。

江南市宮後町八幡 宮後八幡社f:id:shinsaku1234t501:20170628191444j:imageまた、天正15年創建説を採用した場合、小牧合戦終結後に宮後城が取り壊されているにも関わらず、その3年後に八幡社が出城機能を有して築かれたという辻褄の合わない話になる。

小牧長久手戦跡 宮後城 前編(愛知県江南市)

愛知県江南市宮後町八幡・上河原

江南市宮後町八幡 宮後城跡碑 f:id:shinsaku1234t501:20170607182609j:image武功夜話」によれば、文和年間(1352〜1355)に美濃土岐氏目代として安井小次郎(甲斐逸見氏庶流という)が居住したことから安井屋敷と紹介されているが、ともかくも応永年間(1394〜1428)には安井氏が居城していたようである。近くに井出之宮(現 井出神社)があることから、宮後城という別名が生じたと考えられる。

安井重幸が城主の時、その娘(安井御前)が尾張海東郡蜂須賀の城主、蜂須賀正利の側室となり、長男の小六正勝が生まれたという。ちなみに「武功夜話」では、正勝の生誕地を宮後城としている。

しかし、尾張領内に住しながら美濃の斎藤道三に仕える正利を快く思わない織田信秀の襲撃を受けて蜂須賀城を逐われることになった。正利は正室の実家である大橋家に身を寄せ、正勝は生母の実家である宮後城に逃れる羽目になったという。正利の没年は天文22年(1553)であるが、死因は伝わっていない。また、織田信秀に攻められたという話も事実かどうか不明である。

ちなみに、正勝は元服した時の初名を利政という。斎藤道三から賜ったのだが、他ならぬ道三自身の諱そのままである。これには重大な理由がある。

その昔、蜂須賀城の前で行き倒れていた旅人を正勝の父、正利が助けたところ、どういうわけか、のち美濃の斎藤道三から贈り物が届くようになった。あの時、恩返しを堅く約束して去っていった旅人は当時の松波庄九郎、のちの道三自身であったという逸話である。

江南市宮後町八幡 宮後城址f:id:shinsaku1234t501:20170610034429j:image正勝が移住した当時の宮後城主、安井御前の弟である重継には弥兵衛という長男があったが、重継の正室の弟、浅野長勝(織田信秀家臣)に男子がいなかったため、弥兵衛がその婿養子となっていた。のちの浅野長吉(長政)である。

そのため、逆に重継の後継者として宮後城主になる男子がいなかったこともあり、甥の正勝が継ぐことになった。そして、永禄元年(1558)、安井屋敷改め蜂須賀屋敷、もしくは小六屋敷において正勝の嫡男、小六家政が誕生した。

江南市宮後町上河原 個人宅脇にある蜂須賀家政公誕生之地碑f:id:shinsaku1234t501:20170607182642j:image以上の経緯から、宮後城は浅野長政の実家であり、その従兄弟にあたる蜂須賀正勝の居城でもあり、さらにその嫡男、のちの蓬庵家政の生誕地と言える。

甲陽鎮撫隊から新選組へ その3

4月12日、江戸に潜行していた内藤・島田らは下総国府台(千葉県市川市)において旧幕府陸軍大鳥圭介と合流し、宇都宮などに転戦しながら会津に辿り着く。
一方、大久保大和という名前で押し通していた近藤だったが、取り調べをした東山道先鋒総督府軍の中に元新選組隊士御陵衛士として敵対した過去を持つ加納鷲雄(のちの加納通広)・竹川直枝らがいたため、その素性を明かされてしまう。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20170519175310j:image加納鷲雄は取り調べの部屋に入るがいなや、「大久保大和、あらため近藤勇」と呼びかけた。大久保の顔色は一瞬にして変わったという。最初は新選組に属しながら、伊東甲子太郎らと脱退して御陵衛士に参加するや新選組と緊張関係になり、伊東や藤堂平助服部武雄らが油小路事件で殺害されると、薩摩藩に保護された。その後、伏見街道において馬上の近藤を狙撃して負傷させたこともある加納からすれば、大久保大和の正体を近藤勇と看破したこの瞬間こそ、御陵衛士の仲間を惨殺されたことへの最大の復讐だったのかもしれない。

4月25日、近藤勇甲陽鎮撫隊長ではなく、下総鎮撫隊長でも、流山屯集隊長でもなく、京洛で尊王攘夷派の志士を弾圧し続けた新選組局長として処刑された。首級は板橋、塩漬けにされて京都に送られ三条河原、大坂千日前でも梟首された。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20170519174919j:imageかくして、下総鎮撫隊(流山屯集隊)の名は忽然と消え、流山を脱出した隊士土方歳三らが会津で合流した時点で、元の名乗りである新選組に戻った。

会津新選組(隊長 斎藤一)、箱館新選組(隊長 土方歳三相馬主計)など、それぞれの地で隊士の顔ぶれを少しずつ変えながらも、この隊名と「誠」の旗にこだわり続けた感がある。

甲陽鎮撫隊から新選組へ その2

半月ほどの五兵衛新田駐屯中に人数を230名以上に増やしたことで、隊名を下総鎮撫隊と改称したというが、新政府軍が千住宿(東京都足立区)に迫りつつあるとの報に接し、4月1日夜、五兵衛新田を発し、途中松戸平潟宿(千葉県松戸市)の千檀家で休憩をとり、翌朝には流山(千葉県流山市)に到着する。

松戸市根本 千檀家(現 松戸シティホテル)f:id:shinsaku1234t501:20170614205426j:imageここでも、大久保・内藤ら数名の幹部は醸造業の長岡屋に宿営したとされるが、これも最近の研究では異説がある。写真の土蔵は現在地に移築されたものであり、当時の正確な位置を示していない。また、本陣とした「長岡屋」という屋号は昭和になってからのもので、当時は「鴻池」という屋号だったらしい。さらには下総鎮撫隊から流山屯集隊に改称したような話もある。なお、ここでも隊士は近くの光明院などに分宿した。

流山市流山 長岡屋土蔵f:id:shinsaku1234t501:20170519173351j:image当時、宇都宮に向けて行軍中の新政府東山道先鋒総督府軍大軍監の鯉沼伊織(のちの香川敬三)は、この動きを察知すると、粕壁宿(埼玉県春日部市)から有馬藤太率いる一隊を急遽、流山に急行させる。

実のところ、流山に駐屯しているこの一団の正体がよもや新選組だとは夢にも思っていないだろう。いや、下総鎮撫隊、もしくは流山屯集隊という隊名すら知らなかった可能性がある。唯一分かっているのは新政府軍ではないことだけである。
4月3日、流山一帯を包囲した東山道先鋒総督府軍の有馬から出頭命令を受けた大久保は切腹を覚悟したが、内藤に止められ、夜になって出頭した。
4月4日、内藤と島田魁らは江戸に戻り、勝海舟大久保一翁など旧幕閣要人に大久保大和の救出を嘆願するが、聞き入れられなかった。

内藤が大久保の切腹を止め出頭を許したのは、単に命を惜しんだというよりも、近藤勇と露見しないうちに旧幕閣要人を通して救出できるという自信や楽観がどこかにあったのかもしれないが、その期待は見事に裏切られた格好になる。

4月6日、流山に残された隊士は、主要な街道を避けて東に向かった。布佐(千葉県我孫子市)から利根川を下って銚子(千葉県銚子市)に至った。本来であれば、銚子から航路で北上して平潟(茨城県北茨城市)に行きたかったが、すでに銚子近辺は新政府に恭順した上野高崎藩の飛び地として警備が厳重だったため断念する。やむなく潮来茨城県潮来市)から浜通りに沿って平潟まで陸路で北上するというかなりの大回りで会津を目指した。一説には、この軍を斎藤一が率いていたとする説がある。

流山市流山 長岡屋土蔵にある石碑f:id:shinsaku1234t501:20170519173326j:image

甲陽鎮撫隊から新選組へ その1

新選組新選組を名乗らなかった時期を語る。

鳥羽伏見の戦いから江戸への東帰と、慶応4年(1868)正月から新選組の立場は驚くほどに転がり始めた。

江戸に帰った新選組は、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を警護していたが、幕臣として大久保剛の名を賜った近藤勇、内藤隼人の名を賜った土方歳三らに率いられて甲府城攻略に挑むことになる。

その際に、以前からの新選組隊士約80名に、浅草弾左衛門の声がかりで急募した200名を加え、新選組あらため甲陽鎮撫隊と改称したとされるが、当時の文献でこの隊名を記載したものは全く無い。佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)の長男、俊宣がこの生き残り隊士であり、大正時代に著した「今昔備忘録」で初めてこの隊名を記載したところ、子母沢寛新選組始末記」で世に流布されたことにより定着したようである。所属していた元隊士の記述である以上、おそらく実際に使用していた隊名だろうとは思われる。

ともあれ、甲陽鎮撫隊は3月6日の甲州勝沼の敗戦を受けて兵の脱走が相次いだ。江戸に帰ると永倉新八原田左之助ら古参隊士までもが意見の相違から袂を分かち、12日には靖兵隊(靖共隊)という別組織を結成する。

大久保剛から大久保大和に名を変えた近藤は、3月13日、甲陽鎮撫隊48名を率いて浅草を発ち、同日夜に五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)に到着した。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家表門f:id:shinsaku1234t501:20170521191947j:image3月15日には内藤ら約50名が合流し、4月1日までこの地に駐屯した。大久保や内藤らは名主見習の金子健十郎家に宿営する。

この家に伝わる「金子家文書」(新選組関係資料 足立区登録有形文化財)から史実が見えてくる。金子家としては一夜だけの宿泊のつもりが、翌々日に内藤ら約50名が合流することで収容しきれず、また日を追うにつれて人数が増えていくため、近在の家や観音寺に分宿することになった。

足立区綾瀬 観音寺本堂f:id:shinsaku1234t501:20170526163203j:image金子家が迷惑していたという土地の話が伝わるが、ひとまず村をあげて食材を提供するなど協力体制で対応したという。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家 当時の母屋の復元と思われるf:id:shinsaku1234t501:20170521191921j:imageまた、この資料の中には大久保大和率いる一行が宿泊していることを土地の年寄 大室源右衛門が代官所に届け出た書付があり、代官 佐々井半十郎も把握していたことが裏付けられる。

足立区綾瀬 大室源右衛門家f:id:shinsaku1234t501:20170526163107j:image