侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

小牧長久手戦跡 宮後城 前編(愛知県江南市)

愛知県江南市宮後

江南市宮後 宮後城跡碑 f:id:shinsaku1234t501:20170607182609j:image武功夜話」によれば、文和年間(1352〜1355)に美濃土岐氏の目代として安井小次郎(甲斐逸見氏庶流という)が居住したことから安井屋敷と紹介されているが、ともかくも応永年間(1394〜1428)には安井氏が居城していたようである。近くに井出之宮(現 井出神社)があることから、宮後城という別名が生じたと考えられる。

安井重幸が城主の時、その娘(安井御前)が尾張海東郡蜂須賀の城主、蜂須賀正利の側室となり、長男の小六正勝が生まれたという。ちなみに「武功夜話」では、正勝の生誕地を宮後城としている。

しかし、尾張領内に住しながら美濃の斎藤道三に仕える正利を快く思わない織田信秀の襲撃を受けて蜂須賀城を逐われることになった。正利は正室の実家である大橋家に身を寄せ、正勝は生母の実家である宮後城に逃れる羽目になったという。正利の没年は天文22年(1553)であるが、死因は伝わっていない。また、織田信秀に攻められたという話も事実かどうか不明である。

ちなみに、正勝は元服した時の初名を利政という。斎藤道三から賜ったのだが、他ならぬ道三自身の諱そのままであることから、その寵愛のほどが分かるというものである。

江南市宮後 宮後城址f:id:shinsaku1234t501:20170610034429j:image正勝が移住した当時の宮後城主、安井御前の弟である重継には弥兵衛という長男があったが、重継の正室の弟、浅野長勝(織田信秀家臣)に男子がいなかったため、弥兵衛がその婿養子となっていた。のちの浅野長吉(長政)である。

そのため、逆に重継の後継者として宮後城主になる男子がいなかったこともあり、甥の正勝が継ぐことになった。そして、永禄元年(1558)、安井屋敷改め蜂須賀屋敷、もしくは小六屋敷において正勝の嫡男、小六家政が誕生した。

江南市宮後 個人宅脇にある蜂須賀家政公誕生之地碑f:id:shinsaku1234t501:20170607182642j:image以上の経緯から、宮後城は浅野長政の実家であり、その従兄弟にあたる蜂須賀正勝の居城でもあり、さらにその嫡男、のちの蓬庵家政の生誕地と言える。

甲陽鎮撫隊から新選組へ その3

4月12日、江戸に潜行していた内藤・島田らは下総国府台(千葉県市川市)において旧幕府陸軍大鳥圭介と合流し、宇都宮などに転戦しながら会津に辿り着く。
一方、大久保大和という名前で押し通していた近藤だったが、取り調べをした東山道先鋒総督府軍の中に元新選組隊士御陵衛士として敵対した過去を持つ加納鷲雄(のちの加納通広)・竹川直枝らがいたため、その素性を明かされてしまう。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20170519175310j:image加納鷲雄は取り調べの部屋に入るがいなや、「大久保大和、あらため近藤勇」と呼びかけた。大久保の顔色は一瞬にして変わったという。最初は新選組に属しながら、伊東甲子太郎らと脱退して御陵衛士に参加するや新選組と緊張関係になり、伊東や藤堂平助服部武雄らが油小路事件で殺害されると、薩摩藩に保護された。その後、伏見街道において馬上の近藤を狙撃して負傷させたこともある加納からすれば、大久保大和の正体を近藤勇と看破したこの瞬間こそ、御陵衛士の仲間を惨殺されたことへの最大の復讐だったのかもしれない。

4月25日、近藤勇甲陽鎮撫隊長ではなく、下総鎮撫隊長でも、流山屯集隊長でもなく、京洛で尊王攘夷派の志士を弾圧し続けた新選組局長として処刑された。首級は板橋、塩漬けにされて京都に送られ三条河原、大坂千日前でも梟首された。

東京都北区滝野川 寿徳寺境外墓地 近藤勇f:id:shinsaku1234t501:20170519174919j:imageかくして、下総鎮撫隊(流山屯集隊)の名は忽然と消え、流山を脱出した隊士土方歳三らが会津で合流した時点で、元の名乗りである新選組に戻った。

会津新選組(隊長 斎藤一)、箱館新選組(隊長 土方歳三相馬主計)など、それぞれの地で隊士の顔ぶれを少しずつ変えながらも、この隊名と「誠」の旗にこだわり続けた感がある。

甲陽鎮撫隊から新選組へ その2

半月ほどの五兵衛新田駐屯中に人数を230名以上に増やしたことで、隊名を下総鎮撫隊と改称したというが、新政府軍が千住宿(東京都足立区)に迫りつつあるとの報に接し、4月1日夜、五兵衛新田を発し、途中松戸平潟宿(千葉県松戸市)の千檀家で休憩をとり、翌朝には流山(千葉県流山市)に到着する。

松戸市根本 千檀家(現 松戸シティホテル)f:id:shinsaku1234t501:20170614205426j:imageここでも、大久保・内藤ら数名の幹部は醸造業の長岡屋に宿営したとされるが、これも最近の研究では異説がある。写真の土蔵は現在地に移築されたものであり、当時の正確な位置を示していない。また、本陣とした「長岡屋」という屋号は昭和になってからのもので、当時は「鴻池」という屋号だったらしい。さらには下総鎮撫隊から流山屯集隊に改称したような話もある。なお、ここでも隊士は近くの光明院などに分宿した。

流山市流山 長岡屋土蔵f:id:shinsaku1234t501:20170519173351j:image当時、宇都宮に向けて行軍中の新政府東山道先鋒総督府軍大軍監の鯉沼伊織(のちの香川敬三)は、この動きを察知すると、粕壁宿(埼玉県春日部市)から有馬藤太率いる一隊を急遽、流山に急行させる。

実のところ、流山に駐屯しているこの一団の正体がよもや新選組だとは夢にも思っていないだろう。いや、下総鎮撫隊、もしくは流山屯集隊という隊名すら知らなかった可能性がある。唯一分かっているのは新政府軍ではないことだけである。
4月3日、流山一帯を包囲した東山道先鋒総督府軍の有馬から出頭命令を受けた大久保は切腹を覚悟したが、内藤に止められ、夜になって出頭した。
4月4日、内藤と島田魁らは江戸に戻り、勝海舟大久保一翁など旧幕閣要人に大久保大和の救出を嘆願するが、聞き入れられなかった。

内藤が大久保の切腹を止め出頭を許したのは、単に命を惜しんだというよりも、近藤勇と露見しないうちに旧幕閣要人を通して救出できるという自信や楽観がどこかにあったのかもしれないが、その期待は見事に裏切られた格好になる。

4月6日、流山に残された隊士は、主要な街道を避けて東に向かった。布佐(千葉県我孫子市)から利根川を下って銚子(千葉県銚子市)に至った。本来であれば、銚子から航路で北上して平潟(茨城県北茨城市)に行きたかったが、すでに銚子近辺は新政府に恭順した上野高崎藩の飛び地として警備が厳重だったため断念する。やむなく潮来茨城県潮来市)から浜通りに沿って平潟まで陸路で北上するというかなりの大回りで会津を目指した。一説には、この軍を斎藤一が率いていたとする説がある。

流山市流山 長岡屋土蔵にある石碑f:id:shinsaku1234t501:20170519173326j:image

甲陽鎮撫隊から新選組へ その1

新選組新選組を名乗らなかった時期を語る。

鳥羽伏見の戦いから江戸への東帰と、慶応4年(1868)正月から新選組の立場は驚くほどに転がり始めた。

江戸に帰った新選組は、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜を警護していたが、幕臣として大久保剛の名を賜った近藤勇、内藤隼人の名を賜った土方歳三らに率いられて甲府城攻略に挑むことになる。

その際に、以前からの新選組隊士約80名に、浅草弾左衛門の声がかりで急募した200名を加え、新選組あらため甲陽鎮撫隊と改称したとされるが、当時の文献でこの隊名を記載したものは全く無い。佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)の長男、俊宣がこの生き残り隊士であり、大正時代に著した「今昔備忘録」で初めてこの隊名を記載したところ、子母沢寛新選組始末記」で世に流布されたことにより定着したようである。所属していた元隊士の記述である以上、おそらく実際に使用していた隊名だろうとは思われる。

ともあれ、甲陽鎮撫隊は3月6日の甲州勝沼の敗戦を受けて兵の脱走が相次いだ。江戸に帰ると永倉新八原田左之助ら古参隊士までもが意見の相違から袂を分かち、12日には靖兵隊(靖共隊)という別組織を結成する。

大久保剛から大久保大和に名を変えた近藤は、3月13日、甲陽鎮撫隊48名を率いて浅草を発ち、同日夜に五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)に到着した。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家表門f:id:shinsaku1234t501:20170521191947j:image3月15日には内藤ら約50名が合流し、4月1日までこの地に駐屯した。大久保や内藤らは名主見習の金子健十郎家に宿営する。

この家に伝わる「金子家文書」(新選組関係資料 足立区登録有形文化財)から史実が見えてくる。金子家としては一夜だけの宿泊のつもりが、翌々日に内藤ら約50名が合流することで収容しきれず、また日を追うにつれて人数が増えていくため、近在の家や観音寺に分宿することになった。

足立区綾瀬 観音寺本堂f:id:shinsaku1234t501:20170526163203j:image金子家が迷惑していたという土地の話が伝わるが、ひとまず村をあげて食材を提供するなど協力体制で対応したという。

足立区綾瀬 旧金子健十郎家 当時の母屋の復元と思われるf:id:shinsaku1234t501:20170521191921j:imageまた、この資料の中には大久保大和率いる一行が宿泊していることを土地の年寄 大室源右衛門が代官所に届け出た書付があり、代官 佐々井半十郎も把握していたことが裏付けられる。

足立区綾瀬 大室源右衛門家f:id:shinsaku1234t501:20170526163107j:image

石田堤(埼玉県行田市〜鴻巣市)

最初は忍城に力攻めを仕掛けたが撃退され、のち方針を変更して豊臣秀吉を真似た水攻めをしたものの、開城に至らなかった。すなわち、石田三成は戦下手というのが通説だが、資料によると、悉く逆のようである。

行田市佐間 さきたま古墳公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306200829j:image秀吉からの水攻め命令は当初より伝わっており、そこにあとから参陣したのが石田三成である。水攻めという作戦が前提であることから兵の士気は低く、「どうせほどなく開城するだろう」と攻める気配すらない。そこに秀吉からの書が届く。

「忍之城儀、可被加御成敗旨、堅雖被仰付候、命乞儀被成御助候様与、達而色々歎申由候、水責ニ被仰付候者、城内者共、定一万計も可有之候歟、然者隣郷可成荒所候間相助、城内、小田原ニ相籠者共、足弱以下者端城ヘ片付、何茂請取候」(天正十八年六月十二日 豊臣秀吉朱印状)

行田市堤根 石田堤碑f:id:shinsaku1234t501:20170622101005j:plain三成は陣中に蔓延する「どうせ水攻めだから・・・」という楽観的な雰囲気を下記のように浅野長吉・木村常陸介宛て文書で嘆き、力攻めを主張している。

「然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之、御理ニまかせ有之事候、城内御手筋へ御理、半人数を出候ハゝ、遅々たるへく候哉、但人数を出候共、御詫言之筋目ハ、其かまい有之間敷候ハゝ、先可押詰候哉、御報待入候、猶口上申含候」(天正十八年六月十三日 浅野長吉宛書状)

行田市堤根 石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170622101121j:plainさらなる秀吉からの文書では、油断なく水攻めの普請をおこなうよう命じ、堤普請が大体できあがった頃には使者を派遣すると伝える。

水責普請之事、無由断、申付候者、尤候、浅野弾正真田両人、重而被遣候間、相談、弥堅可申付候、普請大形出来候者、被遣御使者、手前ニ、可被為見候条、成其意、各可入精旨、可申聞候也」(天正十八年六月二十日 豊臣秀吉朱印状)

  のち、秀吉の命により浅野長吉が参陣し、忍城下の皿尾口で30余りの首級を取るほどの戦功を秀吉に報告するが、下記の文書の通り、その程度の戦功は当たり前のような扱いで、とにかく水攻めを履行するよう強調される。

「一昨日朔日さろう口乗破、首三十余討捕之由、絵図被成御覧候、破候て可然所候條、尤被思召候、菟角水責ニ被仰付事候間、其段可申付候也、」(天正十八年七月三日 豊臣秀吉朱印状)

行田市白川戸 西明寺f:id:shinsaku1234t501:20170306201137j:imageこうして、白川戸村の西明寺から丸墓山古墳を経由して久下村に至る総延長28kmにわたる石田堤ができたものの、映画のように津波が起きることはなく、ジワジワと水が城に迫る感じだったとのこと。
なおかつ、陸に上がりたい多数の蛇が城まで泳いできたため、城兵は困ったあげく、蛇をいかにして食すべきか思案したという話が伝わっている。

鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤上部f:id:shinsaku1234t501:20170306201438j:image鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園に現存する石田堤f:id:shinsaku1234t501:20170306201526j:image鴻巣市袋字台 石田堤史跡公園付近にある堀切橋f:id:shinsaku1234t501:20170306201621j:image

意外と体育会系?・・・徳川家康 後編

さらに、家康は弓を取れば竹林派の石堂藤右衛門に師事して免許を取得した。そのおかげなのか、三方ヶ原合戦の敗走中、追いすがる武田兵数人を騎射で仕留めて逃げ切ったという。必死の形相で逃げただけではなく、実際に敵を討ち取りながらの敗走ゆえに、恐怖のあまり脱糞にも気づかなかったと考えるほうが無理はない。余談だが、実は脱糞について触れたのは「改正三河風土記」(天保8年刊)のみであり、なおかつ三方ヶ原合戦ではなく、その前哨戦となった一言坂合戦におけるエピソードとなっている。ちなみに、家康が一言坂合戦に出陣していないことから事実関係を疑う説もある。

砲術については、関ヶ原合戦前夜、長岡忠興正室ガラシャが自害した際に脱出したことで、忠興から恨まれたその家臣、稲富祐直を助命した縁で、師事して稲富流免許を得る。祐直はさらに、尾張清洲松平忠吉、その跡を受けて名古屋城主となった徳川義利(のちの徳川義直)にも仕えた。家康のみならず、次々にその子に仕えたという事実を見れば、いかに重用されたかが分かる。

実際、家康は毎日鉄砲の訓練を欠かさず、100メートル先の鶴を仕留めた事実もある。

もともと家康と鉄砲の出会いは非常にほろ苦いものであった。永禄年間の三河統一の過程において、小笠原安重(幡豆寺部城主)・小笠原安元(幡豆欠城主)らを走り付けの浜まで追撃した結果、敵軍の鉄砲(空砲)の轟音に驚いて敗走した「走り付けの戦い」と称する不名誉な合戦がある。

こうして、鉄砲の効なり害なりを知る家康は、慶長12年(1607)に国産鉄砲の製造を近江坂本郡国友村に限定し、鉄砲代官を設置して幕府の許可による案件のみと厳しく取り締まった。これは日本史上において鉄砲が厳しく取り締まられた初めとされ、ゆえに銃社会にならなかった所以と評価されている。

しかし、元和元年(1615)1月11日、家康は国友村に大量の鉄砲を発注する。ちょうど、その時期は大坂城の堀埋め立てを巡る大坂方とのせめぎ合いがおこなわれていた時期でしかない。すでにこの頃に再びの合戦を視野に入れていた証拠である。

また、大坂冬の陣において片桐且元が下知した最新式の鋼鉄製ガルバリン砲の砲弾が大坂城に命中することで、大坂方が和睦に至るくだりがあるが、これは家康家臣である田付景澄が砲撃したものである。田付が輸入銃器担当の砲術家であるのに対し、国産銃器の製造は井上正継が担当した。

長巻(薙刀)は三河時代、有馬貞時に3年間師事し、新当流(有馬流)の奥義皆伝となるが、ほどなく貞時が亡くなったことで、家康がこの流派の後継者として宗家を襲名し、のち貞時の孫にあたる有馬秋重が家康に師事する形で皆伝を授けたという事実もある。
また、「徳川実紀」などの記載をつぶさに見ても、若年から死の直前まで鷹狩に勤しんでいた頻度を考えると、かなり活動的な印象を受ける。

以上の事実から考えると、動きの鈍い太った殿様のイメージとはほど遠い。
伊賀越えは確かに少ない家臣と軍事的備えがない状況下であったため、彼の一生における窮地には違いないが、必要以上に怯えていたとするのは脚本家の認識の問題でしかない。

愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418233351j:image同様に、三方ヶ原合戦で脱糞しながら敗走したこと、大坂夏の陣真田幸村に本陣を抜かれて命からがら逃げたことなど、みっともない姿が描かれがちだが、実際は同時代の大名の中では、まずもって第一級の武人と言っていい。

意外と体育会系?・・・徳川家康 前編

平成28年NHK大河ドラマ真田丸」の序盤、伊賀越えのシーンにおいて内野聖陽扮する徳川家康が、滑稽なほどに怖気づいた表情に違和感を感じた。そこで、ネット検索したところ、全く同じ疑問を持った人がいた。

むしろ、家康は同時代の大名の中では武芸に優れた人物だったはず、と記憶している人にとっては、それほどに納得がいかないシーンだったのである。

まず、家康の生涯最初の剣術指南役として有馬神道流の有馬満盛が挙げられるようだが、のちほど触れることになる有馬貞時と混同される部分もあり、詳細は不明。

特に有名な剣術指南役は奥山公重(休賀斎)であろう。元来、公重は奥平貞能三河亀山城主)の家臣、奥平貞久の七男であり奥平孫次郎定国と称した。若い頃から三河では高名な剣客であったが、さらなる道を極めんと甲斐に滞在中の上泉信綱に師事して2年ほど寝食をともにする旅の中で新陰流印可を受ける。

その後、故郷三河に戻ったものの、さらに今の浜松市北区引佐町にある奥山明神(現 奥山神社)に籠り、孤独な修行をした前後に奥山と改姓したようである。当時の遠江国引佐郡で「奥山」と言えば、井伊直虎の家臣に関係があったと考えざるを得ない。

元亀元年(1570)、奥平貞能の嫡男、定昌(のちの奥平信昌)が姉川合戦で戦功著しかったことから、家康が剣術の流派を尋ねたところ、「奥山流」と答えた。これにより召し出されて家康に仕官することになり、「公」の一字を賜って奥山公重と改名。ここから家康の剣術指南役となり約7年間にわたって、時には家康が失神するほどの厳しい修行もあったらしい。

この功により公重は天正2年(1574)、御台所御守役(築山御前付き)を命じられたが、のち病のため致仕して旧主奥平貞能のもとに戻ったという。

その後、家康は柳生宗矩から新陰流、小野忠明から一刀流の指南を受けたのみならず、九男の義利(のちの義直)に剣法書を書き残した。

静岡県静岡市葵区 駿府城公園 徳川家康f:id:shinsaku1234t501:20170418232306j:imageなお、家康は馬術においては大坪流と八条流を修め、印可皆伝まで極めた。