侍を語る記

史跡と人物をリンクさせるブログ

豊臣家臣団 その19

関ヶ原合戦からわずか3ヶ月後の12月19日、家康は以前に関白を歴任したことのある九条兼孝の関白再任を奏上した。秀吉・秀次と続いた豊臣家の関白職世襲のような雰囲気を打ち消す目的かもしれない。同時に、関ヶ原の勝者 家康が朝廷の任官において発言力を持っていたことが窺える。となると、三成が小早川秀秋に関白職就任を約束したのは、どのような立場から発したものなのか、もしくはどのような根拠や保証に基づくものだったのだろうか。

さらに慶長8年(1603)2月12日、家康は征夷大将軍に任命された。それまでの「豊臣家康」ではなく、従来から名乗っている「源家康」としてである。明確な豊臣家との決別が見える。しかし、家康とて豊臣家を潰そうと目論んでいたわけではなく、秀頼の任官も進めている。但し、秀頼の任官の前後には徳川秀忠も任官を果たしている。

そして、慶長8年までは家康のほうが大坂城に出向いて秀頼に年賀御礼をおこなっていたが、慶長13年(1608)からは秀頼の使者が家康の元へ年賀御礼をおこなうのが通例となる。こうした趨勢の中で、豊臣家臣団も例外なく徳川・豊臣両家に対応していった。

大坂の陣の時、清正が生きていたら大坂方に就いていただろう」というのはタラレバに過ぎない。実際、大坂の陣において福島正則加藤嘉明黒田長政平野長泰ら豊臣恩顧が、誰一人として大坂方に身を投じなかったことが物語っている。

福島正則は大坂方からの勧誘の使者には断固として会わなかった。すなわち、密書の受け取りさえ拒否したのである。一方で、大野治長から福島家大坂蔵屋敷に蓄えてある兵糧借用の申し出があった際は容認した。一説には、次男の忠勝を幕府軍として従軍させる代わりに、自ら江戸留守居役を申し出たともいう。

加藤嘉明は正則と同じく江戸城留守居役を命じられたことで、豊臣恩顧の自分たちが徳川家から睨まれている事実を悟った。但し、夏の陣には秀忠麾下として出陣した。

黒田長政は徳川与党のつもりだから、正則や嘉明と同列に豊臣恩顧と疑われるのは心外な部分もあっただろう。ひょっとしたら、秘密裏に彼らの目付役でも命じられて江戸留守居役に甘んじたのだろうか。はたまた、後藤基次明石全登ら旧臣が大坂城に入ったことが影響したのか。但し、夏の陣には秀忠麾下として出陣した。

特筆すべきは、秀吉直臣から徳川家旗本になっていた平野長泰が大坂方に同心したい旨を家康に告げたと言うが、当然許されるはずもなく、やはり江戸留守居役として留められた。家康相手に豊臣家への忠義を正々堂々と主張した勇気を称えるべきか、現在の主である家康の許可を得た上で大坂城に入りたいというバカ正直なまでの筋道と首をかしげるべきか解釈が難しいが、家康としても彼の豊臣家への忠義を理解するところがあったのか、その後も長泰を咎めるようなことは無かった。

京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町 深草山宝塔寺 平野長泰夫妻墓(右 平野長泰墓、左 平野長泰正室土方雄久女墓)f:id:shinsaku1234t501:20170705184527j:image彼らが悉く江戸留守居役を命じられたのは、戦場での大坂方への寝返りを防ぐことや彼らの嘆願で大坂方への処置が鈍らないことと同時に、本人たちが妙な動きをしないように見張る、いわば江戸における衆人環視の軟禁に等しい。こうして、大名本人が江戸に留め置かれるということは、在府及び国元の家臣にとっては主人を人質にとられたも同然であり、大坂方として挙兵することを許さない心理的効果を持つ。

東京都千代田区千代田 江戸城本丸石垣f:id:shinsaku1234t501:20170712200827j:image

豊臣家臣団 その18

藤堂高虎徳川家との血縁はないが、秀吉の生前から家康に接近していたことで、譜代大名に準ずる扱いを受けたのは有名である。
秀忠の代になっても徳川家の忠誠は揺るがず、元和5年(1619)、徳川和子入内に関する「およつ御寮人事件」では徳川家の使者として宮中で辣腕を振るう。

浅野幸長・長晟】父親の長政が家康と昵懇である。慶長14年(1609)の婚約を経て、元和元年(1615)、幸長の娘である春姫は徳川義利(のちの義直)正室になる。こういった過程において幸長は、慶長16年(1611)の家康と秀頼の二条城会見では義利に供奉する形で同席した。

弟の長晟は徳川秀忠の小姓を務め、幸長没後に家督相続する。元和元年(1615)、家康の命により蒲生秀行未亡人の振姫を正室に娶る形で徳川家の姻戚となる。

伊達政宗慶長4年(1599)の婚約を経て、慶長11年(1606)、長女の五郎八姫が松平忠輝正室になったこともあり、松平姓を賜る。

宮城県仙台市青葉区川内 仙台市博物館 伊達政宗f:id:shinsaku1234t501:20171231225311j:image最上義光愛娘駒姫が秀次事件で処刑されたのを契機に秀吉よりも徳川家康への接近を図り、文禄3年(1594)から次男の家親を家康・秀忠に近侍させた。

【有馬則頼・豊氏】文禄年間(1592〜1596)、江戸への一時帰国を求めていた家康のために秀吉にとりなした縁で昵懇となる。

次男の豊氏は、慶長4年(1599)1月に家康から淀古城の守備を命じられるとともに、家康の御伽衆に列せられる。翌年の会津上杉討伐の出陣直前に家康の養女を娶り、関ヶ原合戦の軍功によって則頼は摂津三田2万石、豊氏は丹波福知山6万石に封ぜられる。豊氏の次男吉法師は、家康の外孫にあたる縁から江戸城元服、秀忠の諱を賜り忠郷(のち忠頼)と名乗る。また、則頼四男の豊長は旗本寄合席に列する。

山内一豊・忠義】関ヶ原合戦における一豊の軍功は言うまでもない。家督相続した一豊の甥、国松は秀忠の諱を賜って忠義と名乗り、慶長15年(1610)には松平姓を下賜される。また、家康の養女を正室として娶る。

蒲生秀行・忠郷】文禄4年(1595)の婚約を経て、慶長3年(1598)、秀行は秀吉の命により家康三女の振姫を正室に娶り、のち松平姓を賜る。秀行没後に家督相続した長男の亀千代は、家康の外孫として秀忠から松平姓と偏諱を賜り、忠郷と名乗る。しかし、家中で騒動が頻発するなど治政が不安定ということで、大坂の陣では出陣を許されず、江戸留守居役を命じられた。

福島県会津若松市中央2丁目 盛道山高巌寺 蒲生忠郷墓f:id:shinsaku1234t501:20170724172034j:image以上列記の通り、豊臣恩顧、もしくは東軍の有力大名として活躍した諸将は、なんらかの形で徳川家と縁を持つことで家名存続に努めた。

加藤清正に至っては、婿となった直後に家康の不興を買ったため、挽回の覚悟で東軍に加勢した雰囲気すらある。その後、徳川頼将の岳父とばかりに後見役まで務めているのである。それが加藤家としての自己保身の策なのか、もしくは豊臣家存続のためにこそ徳川家との関係を保ったものなのか、清正のみぞ知るところである。 

もちろん、豊臣秀頼への忠誠や豊臣家の存続を片時も忘れてはいなかった証拠に、秀吉から賜った蔵入地からの年貢を秀頼に送り続けていた事実がある。
ただ、この図式を見る限り、堂々と徳川家を敵に回すような豊臣恩顧のイメージもない。

豊臣家臣団 その17

ここで、江戸初期における諸大名と徳川家の関係を列記する。

福島正則慶長4年(1599)、養子の正之が家康養女を娶る。また、正則も慶長9年(1604)、家康養女を継室に娶る。豊臣姓を名乗り、慶長16年(1611)、家康と秀頼の二条城会見を仲介したが、当日は病のため同席はしなかった。

京都府京都市右京区花園妙心寺妙心寺海福院 福島正則f:id:shinsaku1234t501:20170705190644j:image加藤清正慶長4年(1599)、家康養女を継室に娶るが、庄内の乱で伊集院忠真を支援していたことが発覚したため、家康から国元での謹慎を命じられる。翌年の上杉征伐への従軍も許されず、関ヶ原直前にようやく九州での東軍加勢を認められる。慶長14年(1609)、清正の次女である八十姫と徳川頼将(のちの頼宣)の婚約が成立する。慶長16年(1611)、家康と秀頼の二条城会見を仲介するが、当日は頼将に供奉する形で同席し、会見後も頼将に同道して豊国神社から鳥羽まで秀頼を見送っている。清正没後、嫡男の忠広が幼少にして家督相続したため、幕命により藤堂高虎が後見役を務める。

池田輝政文禄3年(1594)、三河吉田城主だった照政は、秀吉の仲介で家康の次女 督姫を継室に娶る。また、翌年に発生した秀次事件では秀次の妻子・愛妾が処刑される中、妹の若御前が例外的に助命された。慶長16年(1611)、家康と秀頼の二条城会見に同席し、翌年には家康から松平姓を賜る。長男の利隆は前妻の子だが、徳川秀忠養女を正室に迎え、松平姓を賜る。次男の忠継・三男の忠雄・四男の輝澄・五男の輝綱・六男の輝興はいずれも督姫の子で、家康の外孫にあたり全員が松平姓を賜る。

愛知県豊橋市今橋町 豊橋公園 吉田城鉄櫓f:id:shinsaku1234t501:20170629203233j:image黒田長政慶長5年(1600)、上杉征伐を前に家康養女を継室として迎えるにあたり、正室(蜂須賀正勝女)を離縁している。これにより、黒田・蜂須賀両家は江戸中期まで不通大名(会釈さえしない)という絶縁状態にあった。さらに、長男の忠之は大坂冬の陣で初陣を飾るに際し、家康から金羊歯前立南蛮鉢兜を賜る。

蜂須賀家政・至鎮】家政は加藤清正浅野幸長らとともに石田三成襲撃事件に参加する。慶長5年(1600)、上杉征伐を前に嫡男である至鎮が正室として家康養女を娶る。しかし、家政は関ヶ原合戦において剃髪の上、高野山に蟄居。三成は嫌いだが、秀頼への忠誠心から西軍に軍勢を送ったが、関ヶ原合戦に間に合わなかったのが幸いして東軍の至鎮に合流した。所領安堵後、至鎮が家督を相続する。その嫡男の正鎮は秀忠の偏諱を賜り、忠英と名乗る。

細川忠興家康から借りた金で豊臣秀次に借金を返済できたおかげで、秀次事件に連座しなかった恩がある。また、豊後中津移封時に発生した前城主 黒田長政の年貢持ち逃げ事件を家康に裁定してもらった恩もある。三男の忠利が関ヶ原直前に徳川家の人質となったが、家督相続後に秀忠養女を正室に迎える。一方、大坂の陣で大坂方に同心した次男 興秋について、一説には家康から赦免の沙汰があったにも関わらず、あくまでも自刃させたという。 大坂夏の陣後、家康の命により羽柴姓を捨てて長岡から細川に復姓する。

京都府京都市北区紫野大徳寺町 高桐院 春日灯籠(細川忠興ガラシャ夫妻墓)f:id:shinsaku1234t501:20170705184628j:image

豊臣家臣団 その16

本戦において西軍の有力大名である毛利・島津・長宗我部らがほぼ動かず、宇喜多秀家や三成・大谷・小西らが奮戦したのに対し、東軍の主戦力も福島・浅野・黒田・長岡・藤堂など豊臣恩顧の武断派であった。西軍の三成ら文治派を制したのは、東軍に属した武断派の福島らであるという皮肉な構図である。これは徳川家を否定する豊臣家への忠義が、徳川家傘下で共存すべきとする豊臣家への忠義に取って代わられたことを意味する。

また、やむを得ない流れとは思うが、淀殿・秀頼も家康に抗しきれずに西軍の挙兵とは無関係を装うことで社稷を保った。そして、武断派による豊臣家を守るための深謀遠慮こそが、家康を天下人にしたと言っていい。

とかく関ヶ原合戦を巡る対立構図は、天下盗りの野望に燃える家康という巨悪に対して、止むに止まれぬ思いから忠義の士 三成が敢然と立ち向かって惜しくも敗れた、というお決まりのパターンで語られてきた。そして、これからも語られていくだろう。

三重県伊賀市上野丸之内 伊賀上野城 藤堂高虎f:id:shinsaku1234t501:20170907215758j:imageしかし、史実としての西軍は、家康の留守を狙って挙兵に及び、先手を打って大坂から美濃までの道筋を押さえて主導権を握っていたにも関わらず、一方的に攻め込まれて敗北に至るや、淀殿・秀頼から尻尾切りされたのである。

冷徹なまでに俯瞰した場合、いくら家康が秀吉の遺命に背いたとはいえ、秀吉が定めた惣無事令に背いて内戦を惹き起こしたのは他ならぬ西軍である、という見方を忘れてはいけない。

「歴史は勝者によって作られる」と言うが、この一連の流れは当初から西軍に自滅に近い要素があったと言わざるを得ない。だからこそ、それを認めようとしない西軍贔屓は未来永劫に浪漫としての関ヶ原合戦を語っていくしかないのだろう。

古今、戦争というのは正々堂々であることと、勝敗は別物である。前述の通り、三成が正々堂々にこだわるあまり、夜襲などを拒み続けたのに対し、東軍はその裏を巧みに突いてきた。正々堂々の武士道は美談かもしれないが、それゆえに負けてしまったら、それこそ「歴史は勝者によって作られる」のであり、肝心な正々堂々すら語られない。

「家康は汚い」と評するその逆は「三成が駆け引きを知らなかった」と言う答えになる。負けるのが嫌なら挙兵すべきではないし、挙兵するからには汚い手段を駆使してでも勝たなければならない。なぜなら、西軍が負けて豊臣家のためになることは一つもないのである。むしろ、豊臣家を劣勢に追い込むことになる。

また、三成や長束らは行政事務に優れていたものの、対する清正や福島ら武断派が著しく能力的に劣っていたわけではない。

清正や藤堂高虎らは築城の名手であると同時に領内の仕置にもかなり定評があった。

福島も検地など内政における功もあり、関ヶ原直後に黒田長政とともに西軍の総大将 毛利輝元大坂城退去に奔走した点を見ても相応の周旋能力を有していたと考えられる。

黒田孝高が秀吉の軍師であったことから嫡男の長政は影が薄いように解釈されがちだが、関ヶ原前後の調略・交渉能力や三成隊の嶋清興を討ち取った軍功は、まず八面六臂の大活躍と言える。

一方、戦下手と思われがちな三成だが、嶋清興らの奮戦もあって、黒田長政・長岡忠興らと互角に渡り合った。

どうしても、豊臣家臣団のテクノクラートである文治派と槍働き一辺倒である武断派の対立と表現されがちだが、単純に彼我の能力だけで色分けできるものではない。
そして、戦局を大きく左右したのは、秀吉晩年からの豊臣家の内部弱体化と迷走状態に、すでに勝敗の鍵があったと思わざるをえない。三成もまた豊臣家の内部修復を試みる努力をせず、家康はその内部崩壊をさらに根深い物にする努力を惜しみなくおこなった。

豊臣家臣団 その15

ともかくも、秀秋の参戦にさらなる勢いをつけたのが、松尾山麓に布陣していた脇坂安治である。最初から家康に従って会津上杉討伐に出陣するところを三成に阻まれてやむを得ず西軍に属した脇坂は、当初から山岡景友を通じて家康に弁明し、藤堂高虎を窓口として東軍に内通していた。

三成から毛利家に対して松尾山城への布陣要請があったことで、一族の小早川秀秋が布陣する一方、その山麓脇坂安治が布陣する。小早川・脇坂双方が、互いに東軍に内通している情報を共有していたかどうかは分からないが、秀秋の東軍内通はすでに噂となっていた。

ただ、東軍に内通している脇坂からすれば、山上の小早川隊が西軍として動けば、山麓めがけて雪崩を打って攻撃される恐れがある。その場合、脇坂隊は捨て石の覚悟で対峙しなければならない。一方、小早川隊が東軍として動く場合、脇坂隊は呼応する友軍となりうる。

実際に小早川隊が大谷吉隆隊に攻めかかると、脇坂隊も平塚為広隊や戸田勝成隊に突撃した。計算外なのか、これに引きずられるように小川祐忠も同調する。重要なのは、戦場において本当の意味で寝返ったのは小川隊であって、脇坂も小早川同様、予定通り東軍として行動したに過ぎない。

当初西軍として山城伏見城攻撃に加わったマイナス面はあるが、関ヶ原本戦と近江佐和山城攻撃の軍功を評価された秀秋は加増となった。

同じく当初の予定通りに行動した脇坂だが、加増には至らなかったのか、内通の段階で約束されていたのか、本領安堵でしかない。

一方、返り忠を果たしたにも関わらず、小川は改易に処せられた。ちなみに、参戦が疑問視されている朽木元綱は減封、赤座直保も改易となった。

これらの論功を見ても事前から東軍に内通していた秀秋・脇坂らが明確に東軍として認識されていた証拠が見てとれる。対して、戦況次第で返り忠を果たした小川(朽木・赤座も同様とされる)は、最も嫌われる裏切り行為とみなされたのか。古来から戦況を見て裏切る行為は、たとえ戦功があっても、武士の倫理観としては忌み嫌われた。家康も、事前から内通を約束していた秀秋や脇坂と、現場で突如裏切った小川では、全く異質と解釈したのだろう。

なお、毛利両川と言われる吉川広家は西軍として毛利家中にありながら東軍に内通することで毛利家の本格的な参戦を阻み、小早川もまた東軍に内通していた。三本の矢の二本までもが、毛利本家に隠れて東軍に内通していたのである。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 徳川家康最後陣地f:id:shinsaku1234t501:20170912151014j:imageこうして家康を大将として擁した合戦と語られるが、家康は武断派諸将による豊臣秀頼への忠誠の賜物とすることで、自身の天下盗りの欲望をカムフラージュすることができた。

それどころか、大坂城での戦勝報告において三成ら西軍が勝手に起こした戦いと断じ、淀殿や秀頼の関与を不問に付すことで、むしろ豊臣恩顧からはその寛仁態度をありがたがられる始末である。もちろん、豊臣家の石高を220万石から65万石程度に減封することも忘れてはいなかった。

一方で、武断派諸将の奮戦のおかげとしながらも、先鋒を担ったのは東条松平忠吉徳川家康四男)・井伊直政ら徳川直臣であるという名誉も用意している。関ヶ原の戦場において福島正則を出し抜いて西軍に先制の鉄砲を放った忠吉は、この功もあって武蔵忍10万石から尾張清洲52万石に大抜擢される。

清洲24万石だった福島正則は安芸広島49万8千石の倍増とは言うものの、関ヶ原の先陣を奪われただけでなく、清洲という東海の要衝までも忠吉に取って代わられ、宇喜多隊を一手に引き受けた抜群の戦功があるにもかかわらず、石高でも忠吉には及ばなかった。

岐阜県関ケ原町大字関ケ原首塚 松平忠吉井伊直政陣所古址碑f:id:shinsaku1234t501:20170929204212j:imageこうして、家康は五大老などの合議制を破壊し、武家を自身の思惑一つで動かせる存在になった。しかし、豊臣家はまだまだ世の畏敬を集めて存続している。

豊臣家臣団 その14

前項でも述べた通り、西軍は尾張三河の国境どころか、東濃から中濃まで制圧され、家康が大垣城を間近に見据える赤坂に本陣を構えたことで、西濃への進軍も許した。そして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発した。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 開戦地碑f:id:shinsaku1234t501:20170921225609j:image布陣図上では有利と言われた西軍だが、内実は問題だらけだった。

本戦における毛利秀元の不参戦の裏には、過去の所領問題で三成に恨みを持つ吉川広家の東軍への内通があり、その広家の説得で福原広俊までもが内通に加担した。

毛利が動かないがゆえに長宗我部盛親も動かなかった。

小早川秀秋の東軍としての参戦には武断派黒田長政の調略があった。実は、黒田長政にとって、秀秋の家老 平岡頼勝は母方の従兄弟である。この関係を利用しない手はない。本戦当日の小早川陣中に黒田家臣の大久保猪之助が目付として派遣されていた事実は、事前に東軍に同心する密約が成立していたことを裏付ける。

すなわち、西軍からすれば「寝返り」と見える秀秋の参戦は、家康から見れば「予定通り」の行動にすぎないのである。そもそも秀秋の寝返り説というのは、江戸中期以降の儒学的思考と葉隠武士道の確立などの倫理観から定着したレッテルと考えられる。本来、戦国から江戸初期は下剋上の余弊が色濃くあり、鼻を聞かせて利に傾くことは決して恥ずべきことではなかったはずである。

三成とて、そんな秀秋の不安定な同心にうすうす気付いていたからこそ、「秀頼成人までの関白就任」という大きな餌を蒔いて引き留め工作をおこなった。しかし、秀頼成人までのリリーフというのは、亡き豊臣秀次の二の舞を連想させる。むしろ、美味しい餌どころか、露骨に毒かもしれない。

こうして関ヶ原本戦において痺れを切らした家康が秀秋の陣取る松尾山城に「問鉄砲」を撃って裏切りを催促したという話があるが、当時の史料には記載がなく、元禄期以降になって登場した逸話でしかない。正午頃まで秀秋が東軍への参戦を迷っていたから問鉄砲がおこなわれたと伝わっているが、開戦と同時に秀秋が東軍として参戦したのが巳の刻(午前10時頃)とする説、大谷吉隆の戦死が巳の刻ということは秀秋の参戦はそれ以前の時間帯とする説、従来秀秋が参戦したとされる正午には西軍総崩れという説などがあり、今までの定説が根底から覆る可能性が出てきた。

また、脇坂安治・小川祐忠は松尾山麓に布陣していたが、朽木元綱赤座直保らは参戦自体を疑問視されているという。

仮に問鉄砲があったとして、発砲したのが藤堂高虎福島正則・布施孫兵衛(徳川家康家臣)など諸説ある。

また、はるか山上まで銃声が届くはずはなく、山麓で空砲が鳴っている程度であったと想像されるため、「石田軍記」・「井伊家慶長記」では、問鉄砲はあったものの、小早川陣中にはなんらの効果もなかったという記述さえある。

さらに一番の驚愕は、もっとも流布している「日本戦史」の両軍布陣図にさえ疑義が生じているとのことである。三成は笹尾山に布陣していない、秀秋は松尾山城ではなく手前の岡に移動していた、などの説である。

明治時代の陸軍大学校教官クレメンス・W・J・メッケルが一目見て西軍有利と断じたあの布陣図自体がそもそも怪しいものである以上、西軍有利と断じたエピソードも創作の可能性が指摘されている。

このあたりの新説は、白峰旬「新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い」(宮帯出版社)に詳しい。

岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 関ヶ原古戦場 決戦地f:id:shinsaku1234t501:20170921225256j:image後世に膾炙されている関ヶ原合戦というのは、かなり疑うべきものであり、スタンダードとして語られているエピソードは、ほぼ司馬遼太郎などの小説がベースになっているに過ぎない。

豊臣家臣団 その13

もう少し史料などを参考にしながら、戦場が関ヶ原になった経緯を紹介する。

●「大垣は城塁壮固、兵食皆足る。秀家少しと雖も暗者に非ざるなり。而して義弘・行長・正家・吉隆、心を一にし力を戮せて持重して出でず。これを攻むれば必ず我が兵を損ぜん。独り三成、軽んじて衆を恃む。若しこれを外に誘出して、秀秋・秀元をしてその後を撓さしめば、則ち一戦にして鏖にすべきなり。我れ且く軍を動かし以てこれを試みん」(日本外史

西軍諸将は大垣籠城を唱えているが、三成をターゲットにして大垣城から誘い出せば、松尾山城から小早川秀秋の参戦、南宮山の毛利秀元の不参戦などで西軍の作戦を崩せば皆殺しにできる、と家康は目論んでいた。

一方の三成も同日の軍議で語っている。万が一、大垣城に籠城して野戦で雌雄を決することをしなかったら、せっかく西軍に同心してくれている諸国の士の落胆を誘う。小牧合戦において秀吉が戦うべきを戦わなかったがために、家康が名声を手に入れたことを考えれば、その過ちを再び繰り返してよいものか。

而して坐ながら孤城を守り、敢て出で戦はずんば、天下の我を望む者、皆沮喪せん。往年、小牧の役に太閤過慮し、当に戦ふべくして戦はず。終に内府の名を成す。今豈に過を弐びすべけんや」(日本外史

家康は、三成の虚栄心、もしくは戦術よりも建前や正義を重んじる性格を突く策に出たと言っていい。さらに、三成が小牧合戦を秀吉の一大失策と捉えていたことがよく分かる。これで、家康・三成両者が野戦を望んでいたと考えられる。

●西軍としては東軍よりも先回りして移動せざるを得ないので、赤坂岡山本陣を襲撃をしている場合ではない。逆を言えば東軍からすれば襲撃されなくて済む。

●本当に佐和山城を攻撃するつもりならば、東軍のほうが早くに移動を開始していなければおかしい。にもかかわらず、家康が午前2時まで全軍に移動命令を発しなかったのは、大垣城に残る者、野戦に動員された西軍諸将の布陣などを可能な限り情報収集するためと考えるのが自然だろう。

●西軍が一番避けなければいけないことは、東軍が近江を経て京大坂に接近することである。そして、近江の入口に佐和山城がある。三成の居城が攻略されたら西軍の士気に関わる。そうなれば、佐和山の手前で東軍の進路を塞ぐしかない。

大垣から西の佐和山へ繋がる道筋と西北の北国街道へ通じる道筋を重点的に固めてくるはずであることは、家康でなくても容易に推察できる。この2つの街道筋を同時に制することができる地は、すなわち関ヶ原から垂井にかけての一帯に絞られる。

●家康にとって、14日は吉川広家福原広俊の連名で毛利家不参戦の起請文が出されただけでなく、福原と粟屋就光から家康に人質を提出する約束が成立した。また、小早川秀秋には2ヶ国加増を約束した日でもある。決戦が延びれば心変わりが生じる恐れがある。西軍に裏工作の時間を与えないためにも、早期に戦端を開きたい焦りにも似た事情がある。

●若い頃から野戦の名手と謳われた家康としては、大垣・佐和山・水口と個々の攻城戦を演じて疲弊しながら西進するよりも、得意の野戦で勝利できれば、その後は圧倒的優位で降伏開城を前提とした外交戦に持ち込める。

●上記各項を総合すると、三成らが俄かに大垣城を捨てるかのように慌ただしく出陣した辻褄が合う。また、家康が遅れて移動したことにも説得力がある。

岐阜県大垣市郭町 大垣城天守f:id:shinsaku1234t501:20170918011445j:image佐和山城攻撃計画が全くの偽情報とは言えないが、少なくとも家康が西軍を大垣城から引きずり出すための方便だとしても、結果的には極めて有効だったと言えよう。

そして、東軍を近江の手前で迎撃する観点からすれば、西軍が迎撃するのは関ヶ原一帯しか残されていないのである。木曽川に始まった戦線の度重なる後退の結果であり、もはや戦術というほどでもない。