侍を語る記

侍を語る記

歴史瓦版本舗伊勢屋が提供する「史跡と人物をリンクさせるブログ」

初めての会津 前編

1年前のコロナ感染による長期の体調不良ゆえ、しばらく投稿できずにいる。それでも「何かを伝えなければ」と思い立ち、久しぶりの投稿を試みる。

平成13年(2001)の冬と記憶している。結婚してようやく1年を迎えた頃、家内の母方の祖父の十三回忌がおこなわれるということで、奥会津に向かうことになった。不謹慎な話だが、故人とは一面識もなかったため法事の出席という主たる目的よりも、初めての会津という物見遊山のほうが動機が強かった。

家内の両親とは現地で合流し、雪のそぼふる中の墓参・近くの公民館で御斎と滞りなく進んだ。私にとっては、ほとんどの方が見知らぬ人ということもあり、自席を離れることなく、家内や義父母と話す程度でやり過ごすしかなかった。

その時であった。下座の一角で車座になっている4人の古老から「あれは立派だったなぁ」という会話が漏れ聞こえてきた。どうやら会津戦争にまつわる話のようだった。4人の男性は会津の歴史を語りながら、しみじみと酒を酌み交わしているようだ。矢も盾もたまらず、私はその輪に入っていった。

「あんたはどこの生まれか」と真顔で問われ、「名古屋です」と答えた。すると、「尾張藩か、まぁ敵では無いか」との返答が飛んできた。瞬間、汗が出た。今でも会津では根強く長州嫌いの風潮があるとは聞いていたが、尾張出身だから仲間に入ることを許されたという事実に「歴史は生きている」と再認識させられた。正確に言えば、戊辰戦争の早い時期に尾張藩は新政府軍に恭順したため、会津藩にとっては決して味方ではなく、むしろ敵対陣営にあった。また、北越戦争では会津藩の守備兵と対戦もしているはずである。

実のところ、現在も名古屋市に隣接する一宮市に実家があるのだから、尾張人と認識されることは間違いではない。しかし、私の出生地となると岐阜市(美濃)である。しかも、当時の私の家があった地域は岐阜市の中でも磐城平藩飛地であった。

もし、あの時に「岐阜市にあった磐城平藩飛地です」と答えていたら、奥羽越列藩同盟の誼で歓迎されたのだろうか。逆に同じ美濃でも「大垣(新政府軍)です」と言ったら、どんな顔をされたのだろうか。はたまた「美濃高須(会津松平容保の実家)です」と言ったら喜んでもらえたのだろうか。妄想は尽きない。

福島県会津若松市追手町1丁目 鶴ヶ城城址公園 若松城西出丸f:id:shinsaku1234t501:20240203204031j:imageさて、車座で「立派だった」と話題になっていたのは、萱野長修の次男、郡長正自刃の件だった。会津戦争の責任者として新政府軍から切腹を命じられた家老と、明治になってから留学先で会津武士道を貫くために自刃を選んだ次男の悲話である。この話を、まるで今現在起こっているかのように話にうなづく4人の古老に、またしても驚かされた。ここでも「歴史は生きている」と感じざるを得なかったのである。

福島県会津若松市追手町1丁目 鶴ヶ城城址公園 萱野國老殉節碑f:id:shinsaku1234t501:20240204090450j:image「立派だった」と称えるからには、この16歳の自刃は車座の方々にとっては命惜しまれる以上に郷土の誇りだったのだろう。「なにも死ななくても」と内心思った私は会津武士道を解さない部外者なのかもしれない。ともかく、こんにちの政治状況がどうとか、経済がどうあるべきかというのではなく、この車座では会津武士の子弟として敢然と死を選んだ少年がまるで旬の話題のように酒の肴になっていた。f:id:shinsaku1234t501:20240203205627p:image

相応院を巡る人々 後編

一方、於亀の方の二番目の夫であった石川光元は関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となり、翌年死去する。残された於亀との間の子 光忠は慶長13年(1608年)、徳川家康に召し出される。慶長15年(1610)には美濃や摂津など計1万300石の知行を賜り、慶長17年(1612)には、家康の命で尾張徳川義利の御附家老となり、名古屋城代も務めた。また、大坂の陣には義利に従い出陣もしている。

愛知県名古屋市中区本丸 名古屋城復元天守f:id:shinsaku1234t501:20230903204614j:imageまた、家康が於亀の方を側室にした時に父の志水宗清・弟の忠宗も仕官したものと思われる。忠宗は関ヶ原合戦の功で500石を賜った。さらに慶長12年(1607)、甥にあたる徳川義利が尾張清洲に封じられると、尾張大高5,000石を賜り、大坂の陣では名古屋城代家老を務めた。また、志水宗清も尾張名古屋藩の宿老となって孫の義利に仕えたという。

愛知県名古屋市緑区大高町城山 大高城址f:id:shinsaku1234t501:20230828223210j:image一方、於亀の方は慶長18年(1613年)、浅野幸長紀伊和歌山37万石)が嗣子なく没すると、その弟 長晟の家督相続を後押しした。すでに慶長13年(1608)に尾張徳川義利と春姫(浅野幸長女)の婚約が成立していたという背景があったからである。

なお、この件で於亀の方の付託を受けて動いた義利の家臣 山下氏勝は於亀の方の妹婿にあたる。家康の命で早くから駿府城で義利の傅役を仰せつかり、清洲城から名古屋城への本拠地移転(清州越し)を家康に進言した人物でもある。彼もまた於亀の方の推挙で開けた運をしっかりと掴んだと言えよう。

さて、於亀の方は家康没後、剃髪して相応院と名乗り、義利あらため義直の居城 尾張名古屋城で暮らし、寛永19年(1642)閏9月16日、江戸屋敷で死去する。寛永20年(1643)、義直は母の一周忌に際して宝亀山公安院相応寺(名古屋市東区山口町)を建立した。

慶安3年(1650)、義直が江戸で没した時も遺骨が当寺にて供養され、のち応夢山定光寺(愛知県瀬戸市定光寺町)の源敬公廟に葬られた。代わって、竹腰正信の代々の子孫が相応寺に葬られ、今は平和公園に墓がある。

その後、昭和7年(1932)に現在地である名古屋市千種区城山町に移転した。現在の相応寺は織田信秀ゆかりの末森城址に隣り合わせる地にひっそりと佇む。

愛知県名古屋市千種区城山町 宝亀山公安院相応寺 相応院墓f:id:shinsaku1234t501:20230828221527j:imageまことに相応院の前半生は数奇な運命であったが、最後に生んだ子、尾張徳川義直を囲むようにゆかりの人物が結集した感がある。相応院の最初の子 竹腰正信、次の子 石川光忠、故仙千代の養父 平岩親吉、実父の志水宗清、実弟の志水忠宗、妹婿の山下氏勝など、ほとんどは家康の寵愛を受けた相応院の口添えがあったればこそとは思うが、尾張名古屋藩は相応院の血脈を以って成立したと言っても過言ではない。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230904003720p:image

相応院を巡る人々 前編

徳川家康の側室、のちの相応院は石清水八幡宮の祠官 志水宗清の娘である。名は於亀と伝わる。

天正19年(1591)、最初に嫁いだ竹腰正時との間に万丸(のちの竹腰正信)を設ける。正時という人物については別名もあり、はっきりとしない部分が多いが、斎藤道三に仕えた美濃大垣城主の家系とも伝わり、道三敗死後に山城へ移り住んだと考えられる。

正時との死別後、於亀は豊臣秀吉馬廻で播磨龍野城主 石川光元の側室となり、太郎八(のちの石川光忠)を生むが、光元の正室(浅井井頼女)の嫉妬で城を逐われ、実家に戻る。

文禄3年(1594)、於亀21歳の時、徳川家康の側室となるや、翌年には伏見にて家康の八男にあたる仙千代を生むことになる。家康は股肱の臣、平岩親吉に子がないことを不憫に思い、仙千代を養嗣子として与えたとされる。(平岩親吉の養嗣子については長沢松平松千代の異説あり)しかし、仙千代は慶長5年(1600年)2月、大坂にてわずか6歳で夭折する。その直後、家康は会津上杉征伐から関ヶ原合戦へと正念場の時期を迎える。そして、同年11月28日に於亀の方は千千代丸(後の尾張徳川義直)を生む。なお、この誕生地についても伏見の清涼院という説もあれば、大坂城西ノ丸という説もある。

大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目 坂松山高岳院一心寺 平岩仙千代墓f:id:shinsaku1234t501:20230903224723p:imageさて、於亀の方のそれまでの人生は薄幸の印象を受けるが、この千千代丸誕生によって大きく変わっていくことになる。

文禄6年(1597)、於亀に従って徳川家康の小姓となっていた長男の竹腰正信は甲斐で5,000石を賜る。慶長6年(1601)、正信は甲斐府中6万3,000石の城主として入城してきた平岩親吉と出会うことになる。さらに、2年後の慶長8年(1603)、五郎太丸と改名していた千千代丸(のちの尾張徳川義直)は、甲斐府中25万石に封ぜられる。実際の五郎太丸はまだ幼少ゆえ駿府城の家康の元で養育されていた。ために甲府に赴くことはなかったが、奇しくもこの地で於亀の方ゆかりの人物が繋がった。異父兄弟である家臣の竹腰正信と主君となる五郎太丸、故仙千代の養父であり、やはり五郎太丸の傅役の平岩親吉、於亀の方はこの縁をどう見たのだろう。

さらに、慶長12年(1607)、五郎太丸改め徳川義利が尾張清洲47万2,344石に転じると、平岩親吉も同国犬山12万3,000石として義利の御附家老を務めることになった。竹腰正信もまた尾張に5,000石を加増されて1万石となり、義利の後見役に任じられる。さらに慶長16年(1611)には従五位下山城守に叙任され、同年12月30日に平岩親吉が没すると、若干22歳にして尾張名古屋藩執政を命じられる。

のち、慶長17年(1612)に2代将軍 徳川秀忠に砲術の腕前を披露した褒美として1万石を賜り、さらには元和5年(1619)に尾張徳川義直から御附家老として1万石を加増されたことで美濃今尾3万石(岐阜県海津市平田町)を領するに至る。

愛知県名古屋市千種区 平和公園 宝亀山公安院相応寺墓地 竹腰正信墓f:id:shinsaku1234t501:20230903232749p:imagef:id:shinsaku1234t501:20230903231122p:image

小牧長久手戦跡 蟹江城 後編(愛知県海部郡蟹江町)

後世、武将としての資質や実績を比較すると、家康が秀吉よりも優っていたと断じられる根拠として、小牧長久手の戦いがまず挙げられる。やむを得ない。家康と秀吉が直接対決したのは、小牧長久手の戦いしかないのだから、この一連の中で判断しがちであることは否めない。しかし、膠着状態が多かったこの戦役の中で戦況を変えるほどの意味を含んだのは、以下の局地戦に限られるだろう。

⚫️秀吉の本陣となる橋頭堡を確保した犬山城合戦

⚫️家康の野戦を見せつけた羽黒八幡林合戦(詳細は拙稿「小牧長久手戦跡 野呂塚」をご参照いただきたい。)

⚫️以後の膠着状態の原因となった長久手合戦

⚫️家康と信雄の地理的分断を阻止した蟹江城合戦

中でも、「志津ケ嶽ノ軍ハ、太閤一代ノ勝事、蟹江の軍ハ、東照宮一世の勝事也」(老人雑話)とあるように、蟹江城を巡る攻防は長久手合戦を凌ぐかのように語られている。

確かに、賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の機動力に匹敵するほどの家康の機敏な動きは特筆すべきであろう。特に「暗愚」のイメージが強い織田信雄が戦場で活躍する姿にしても、家康の好判断やリードが大いにあったればこそと思われる。だからこそ秀吉は家康と信雄の分断を図り、のち信雄のみを飲み込むように和睦を画策したのであろう。

また、尾張の東方で起きた長久手合戦と西方で繰り広げられた蟹江城合戦は、どちらも分断と攪乱を意図して秀吉が仕掛けた「中入り作戦」であり、これらの裏をかいた家康の動きには鬼神の如き凄まじさを感じる。例えば、家康の戦歴の中で、後年の関ヶ原合戦大坂の陣は、どこか老獪や狡猾に裏打ちされた、さながら横綱相撲のような印象を受ける。対して、小牧長久手合戦における一連の身のこなしは、むしろ自ら戦陣に立ち向かうような勢いや若さ、躍動感があるような気がする。

さて、家康・信雄連合軍の織田長益が和睦交渉を取りまとめた結果、7月3日、蟹江城は家康・信雄連合軍に降伏開城された。

しかし、城から退去中の前田長定一族が家康の攻撃により皆殺しにされ、滝川一益もほうほうの体で伊勢神戸城(三重県鈴鹿市神戸)に逃れたという。

また、異説では一益から降伏開城の申し出を受けた家康が条件を出したという。

参議曰く、「叛将を斬つてこれを献じ、尽く邑を信雄に致さば、則ち死を宥さん」と。一益尽くその命の如くす。(日本外史

一益は家康からの条件に従い、叛逆者 前田長定の首級とともに起請文を差し出されたとされる。どちらの説にしても、そもそも長定の裏切りから蟹江城合戦が始まったとする事実にどうにも怒りが収まらない家康の処断の意思が垣間見える。こうして、織田信長麾下の猛将と謳われた滝川一益と前田本家の没落を以って蟹江城合戦は終結した。

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 蟹江城本丸井戸跡f:id:shinsaku1234t501:20230605095300j:image5日、家康は一旦、桑名城に入城したが、13日には清洲に帰城する。これ以降、11月11日の和睦成立まで双方目立った軍事行動はなかった。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230605101321p:image

小牧長久手戦跡 蟹江城 中編(愛知県海部郡蟹江町)

そして、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いは双方睨み合いの状態にあった。6月15日、滝川一益九鬼嘉隆羽柴秀吉軍の水軍数十艘3,000の兵が伊勢白子(三重県鈴鹿市白子町)を発し、16日早朝には蟹江沖に姿を見せた。

迎え撃つ織田信雄軍の蟹江城主 佐久間信栄佐久間信盛長男)は伊勢萱生(三重県四日市市萱生町)に出陣中のため、留守は信栄の叔父 佐久間信辰佐久間信盛弟)と前田利家らの本家筋とされる前田長定(前田種利嫡男、与十郎、種定)らが守っていた。

ところが、滝川一益に内応した長定が信辰を本丸から追放したため、16日夕刻、蟹江城はあっけなく羽柴軍に占拠された。なおもその余勢を駆った一益・嘉隆らは尾張海部郡にある大野城愛知県愛西市大野町)の山口重政織田信雄家臣)を包囲した。

一方、蟹江落城の報に接した織田信雄梶川秀盛小坂雄吉らを援軍として大野城に派遣する一方、自身もその日のうちに2,000の兵を率いて伊勢長島城(三重県桑名市長島町)を発した。

また、尾張清洲城(愛知県清須市清洲古城)の徳川家康も入浴中の浴衣のまま馬を駆け、17日早朝には戸田村(愛知県名古屋市中川区戸田)に陣を構えた。

同日、織田長益率いる形で待機していた徳川水軍が尾張知多郡大野湊(愛知県常滑市大野町)を出航する。向井正綱戸田忠次間宮信高らである。また、同じ知多郡師崎(愛知県知多郡南知多町)からは千賀重親小浜景隆らも駆けつける。新設の徳川水軍とも言うべき船団は、九鬼水軍が引き潮で動きが取れなくなった隙を見て、その進路を塞いだ。双方、死力を尽くした船上での鉄砲による銃撃戦となった。満潮になりやっと動き出した九鬼嘉隆の乗船を深追いした間宮信高はこの銃撃戦で戦死する。しかし、織田信雄に至っては九鬼水軍の大船を拿捕し、甲板上で白兵戦を演じた末に滝川家の馬印を奪い取ったという。

一方、陸では家康の家臣 大須賀康高榊原康政らの迎撃を受けた滝川一益が船に戻ることもできず、一部の兵とともに蟹江城に、九鬼嘉隆は下市場城(愛知県海部郡蟹江町)に逃げ込んだ。

18日、家康と信雄は蟹江城・下市場城・前田城(愛知県名古屋市中川区前田西町)をそれぞれ包囲した。うち、酒井忠次大須賀康高榊原康政岡部長盛・山口重政らの攻撃を受けた下市場城は18日夜、城主 前田長俊(前田長定弟)が戦死する形で落城した。23日には信雄や家康家臣 石川数正安部信勝らに包囲されていた前田城も開城し、家康が入城する。

愛知県名古屋市中川区前田西町1丁目 岡部山速念寺 前田古城趾碑f:id:shinsaku1234t501:20230606000749j:image肝心の蟹江城では籠城戦が続く。信雄の家臣 水野忠重は、大手門の戦いで兜に数本の矢が刺さり、うち1本は兜を貫通して頭に矢傷が残ったほどである。また、その長男 水野勝成滝川一忠滝川一益長男)と槍の一騎討ちを演じ、双方ともに負傷した。

そんな中、不思議なことに羽柴秀吉は近江や伊勢のあたりを移動しながらも一切参戦の動きを見せていない。f:id:shinsaku1234t501:20230606000829p:image

小牧長久手戦跡 蟹江城 前編(愛知県海部郡蟹江町)

愛知県海部郡蟹江町城1丁目

中先代の乱ののち、南朝に属して足利氏に抵抗を続けていた北条時行が、正平8年・文和2年(1353)に処刑された。その後、次男 平太郎時満の子、平五郎時任が尾張西部に蟹江城を築城したとされる。永享年間(1429〜1440)のことと伝わる。

しかし、これには尾張守護 斯波氏の修築、はたまた天文年間(1532~1555)に渡辺源十郎なる伊勢長島一向一揆の関係者による築城説もあり、未だはっきりとしない部分がある。

しかし、北条時任が清洲から御薗神明社を勧請して蟹江城の南方に蟹江神明社を創建した由来がある。また、のちに時任が愛知郡横江村(愛知県名古屋市中村区横井)に移住し、その子の源五郎時利が横井氏に改姓した話もある以上、尾張の西部地域における時任の影響は排除できないと思われる。

愛知県海部郡蟹江町城1丁目 蟹江城址公園 蟹江城址f:id:shinsaku1234t501:20230506001607j:imageこの蟹江の地は蟹が繁殖する入江を指し、尾張と伊勢の境に水運が発達したことで、熱田や津島と並ぶ尾張有数の湊だったらしい。そこに本丸・二ノ丸・三ノ丸を兼ね備えた平城が築かれたのである。当然、要所ゆえに攻防の歴史舞台となる。

弘治元年(1555)、駿河今川義元は蟹江城攻略に乗り出す。当時、三河岡崎の松平広忠はすでに没しており、その嫡男の次郎三郎元信(のちの徳川家康)はまだ駿府で人質の身である。今川軍が大給松平親乗率いる三河岡崎衆を先鋒とするのに対し、当時の蟹江城主は織田民部と称するが、信長との関係は不詳である。この時の岡崎衆のうち、大久保忠俊(大久保忠勝の説あり)・大久保忠員大久保忠世大久保忠佐阿部忠政・杉浦吉貞・杉浦勝吉ら7人の軍功が特に抜群であったことから、世に「蟹江七本槍」と称された。

愛知県岡崎市竜泉寺町百々 海雲山長福寺墓地 大久保忠員f:id:shinsaku1234t501:20230506004157j:imageこの蟹江落城により、今川義元は荷之上城(愛知県弥富市荷之上町)に割拠する反信長勢力の服部友貞を救援し、尚且つ津島をも脅かして信長の背後を突くことができた。そして何よりも今川家の動員力が那古野の背後・清洲の喉元にまで及んでいたことを窺わせる。

すでに信長の家臣になっていたと思われる滝川一益は、永禄3年(1560)、尾張・美濃と境を接する伊勢長島・桑名付近を重視する策を進言する。そこで旧知の服部友貞を語らって蟹江城を修築させた。しかし、永禄8年(1565)になると滝川一益織田信興織田信秀七男)らが友貞の留守に挙兵して蟹江城を占拠した。こうして、一益・信興らは織田軍の北伊勢方面軍として伊勢国司北畠氏や長島一向一揆と対峙していくことになる。f:id:shinsaku1234t501:20230516222820p:image

中先代の乱 その5

しかし、翌年に足利直義が急死すると、尊氏は南朝に背き鎌倉を地盤に東国平定を図る。南朝勢力として新田義興新田義貞次男)・新田義宗新田義貞三男)らと共闘する時行は、武蔵小手指原で足利基氏足利尊氏四男)と激突した。思えば、新田義貞の鎌倉攻め・中先代の乱・今回の戦いと武蔵小手指原は何度も激戦地となっている。地理的に信濃方面から高崎を経て鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道(かみつみち)の要所ゆえである。

埼玉県所沢市北野2丁目 小手指原古戦場碑(元弘3年・正慶2年(1333)5月11日の新田義貞鎌倉攻めの史跡として紹介されている)f:id:shinsaku1234t501:20230322092027j:imageこの戦いに勝利した時行と義興・義宗らは鎌倉に入る。時行にとっては3度目の鎌倉奪還であった。しかし、諸方面から鎌倉に攻め寄る足利軍を前に鎌倉を捨てるしかなく、相模河原城(神奈川県足柄上郡山北町)に籠城する。結果、新田義興脇屋義治らは越後方面に敗走するが、時行はどうやら行を共にしなかったようである。

奮闘虚しく足利基氏の捕虜となった時行は、正平8年・文和2年(1353)長崎駿河四郎・工藤次郎といった中先代の乱からの郎従とともに鎌倉龍ノ口で処刑されたという。

鎌倉で代々武家政権を掌った北条氏(先代)と、のちに京都で武家政権を展開した足利氏(後代)の間に、わずか20日余りとはいえ、鎌倉を制圧した北条時行の軍事行動を中先代の乱というのは、この所以である。

室町幕府、すなわち足利氏側の観点から書かれたと言われる「梅松論」は、この乱を酷評する。

「それとしれたる人なければ烏合梟惡の類其功をなさゞりし事、誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも廿日先代とも申也。」(梅松論)

中先代の乱とは、朝廷主導の建武政権に対する武士層の不満が蔓延した時期に発生した軍事行動である。時行のごく周囲の面々は鎌倉幕府再興とか、北条家の敵討ちのような要素で挙兵したのかもしれない。しかし、時行軍の中には三浦時明・伊東祐持・天野貞村・那和左近大夫といった鎌倉将軍府に出仕していた人物も含まれている。建武政権への不満を鎌倉幕府再興に置き換えた勢力と言えるかもしれない。

反対の足利軍には、安保光泰・小笠原七郎といった旧北条得宗御内人や長井氏・大江氏・二階堂氏といった旧鎌倉幕府要職の家柄が見える。彼らは鎌倉幕府再興を北条氏ではなく、足利尊氏に託したのかもしれない。一概に北条氏と足利氏の戦いとは言い切れない複雑さを孕んでいるのが、この乱をかえって難しくしている。(完)f:id:shinsaku1234t501:20230226105035p:image